2008/01/15

「自由な主体」で有らねばならない、という極めて”不自由”な状態

精神分析的な視点からの近代家族史研究家であるエリ・ザレツキーは、「自己決定」を特徴とする近代的「主体性」は。実は西欧人の
「気のみじかさshort-temperedness」の現れだ、という面白い指摘をしている。つまり、人間は様々な状況の中で、
外から与えられる刺激に対してそれなりに反応しているわけだが、刺激と反応の間の時間的間隔が短ければ主体的に「決断」しているように見え、
長ければ主体性がなくてぐずぐずしているように見えるわけである。実際にその人物の「内面」でどのような判断のプロセスがあったかは「外」
からは直接知ることはできないので、周りの人々は、「(他者からの介入を受けることなく)早く判断に至った」という外見だけを頼りに、
その人物の「主体性」を事後的に再構成することになるわけである。その意味で、「主体性」とは「気短さ」に対して後から
(エクリチュール的に)取って付けられた名称である、ということになる。


これは、我々が漠然と「主体性」と呼んでいるものの正体を極めて巧みに言い当てている説明だと言えよう。先に述べたように、「自己」
をめぐる諸関係性のネットワークを視野に入れ、「決断」の際の選択肢によって、それらの関係性がどう変化するかシミュレーションしていたら、
なかなか「自分だけで」決めるということはできない。むしろ自分で決められる部分はごく少ないことが分かってくるはずである。
ザレツキーは筆者に対しこの問題を、「安楽死」をめぐる臨床的な問題に即して説明してくれた。安楽死するか否かを、「もっと生きたいか、
もう死にたいか」という気分だけで決定する人は、現実にはほとんどいないという。周りの人たちが、自分が生き続けることについてどう考え、
死ぬことについてどう考えるか、様々なやり取りを通して顔色をうかがい、自分の「状況」をそれなりに把握したうえで、
「自分が何を望んでいるのか」を知るに至る、というのである。「他者」を「鏡」にしないと、「自己」を最終的に知ることはできないのである。


しかしながら、そうした「自己」を取り巻く関係性についての複雑な思考の流れは、
回転効率を重視する資本主義的な生産体制に貫かれている「近代」においては、軽視されがちである。むしろ、邪魔である。迅速に方針を決めて、
生産サイクルをできる限り速くし、生産物(商品)を交換しなければ、資本主義体制の中で、生産・交換「主体」として生き残ることはできない。
近代の貨幣経済は、それぞれの自己を形成している種々の文脈を捨象して、「物」にラベリングされる客観化された「価値」だけを基準とする
「交換」形態を発展させてきた。相手とどういう関係にあるのか、また、これから行われる「交換」
によってそれがどう変わるのかといったことは一切考慮せず、「物」の「価値」に合致する「貨幣」を持っているか否かで、「交換」
の成否が決まる。「交換」が終わるごとに、関係性はいったん終了する。”余計なこと”についていつまでもくよくよ考えないで、
スムーズに交換し続けられるのが「主体」である。


近代的な「主体性」は、そのように気短に短縮された関係性の中で、姿を現してくる。こうした「主体」は、建前上は、他者の影響から”
自由に”自己決定する能力があることになっている。しかし、その背景を考えれば、むしろ、「他者との関係性についていちいち考えないで、
さっさと”自己決定”するよう」強制されていると言える。言わば、市場における効率性の原理に従って。「主体」
であることを強いられているのである。我々は、「自由な主体」で有らねばならない、という極めて”不自由”な状態に置かれているのである。


(『「不自由」論-「何でも自己決定」の限定』 仲正昌樹 ちくま新書)



効率性を重視する「新自由主義」の経済思想と、「自己決定」論とは親和性がある

「決定」するに先立って、いちいち「自己」を再想像していれば時間はかかる。特に、「医師と患者」、「教師と生徒」、
「弁護士と依頼人」のような、暫定的な契約に基づく関係性ではそれほど時間をかけることはできない。時間をかければ経済的効率が悪いので、
前者の側から後者の側に対して、「早く自己決定するように」という圧力がかかることが多い。
専門的な経験の豊富な前者が後者になり代わってその利益を代行する形で決定することを、一般的に「パターナリズム(paternalism:
温情的干渉主義)」と言うが、様々な文脈で「説明責任accountability」が声高に叫ばれている現状では、後者に「責任」
のほとんどを専門的知識を当人に正確に提供しさえすれば専門家としての「責任」を果たしたことになる「自己決定」論の方が、
業務を加速することができる。効率性を重視する「新自由主義」の経済思想と、「自己決定」論とは親和性があるのである。


無論、当人が納得しているのであれば、極端な「パターナリズム」か、極端な「自己決定」のいずれかの”極”に振れてしまうような”
自己決定”がなされるのも致し方ないが、当人が「自己」を取り巻く「状況」を十分把握しないまま、形式的に「責任」
の帰属主体が決まってしまうことが多々ある。もう一度、医者と患者の関係で言えば、
難病の治療に際して新薬や新療法を用いる可能性があるような場合、医者の方がなるべく簡単で、「自己」変容がさほど伴わない(かの)ような
「問題設定」にしてしまうことが多々ある。端的に言えば、患者があまり事態を飲み込まないうちに、「臨床試験」(人体実験)を受けるという”
自己決定”をするよう促すケースである。


(『「不自由」論-「何でも自己決定」の限定』 仲正昌樹 ちくま新書)



2008/01/03

『翻訳と日本の近代』 あとがきから

徳川時代の文化の大きな部分(主として知的・思想的な領域での大きな部分)は、翻訳文化であった。いわゆる「読み下し漢文」は、
狙徠も指摘したように中国語文献(主として古典)の翻訳であり、その語彙や表現法を採り入れて消化した日本語を媒介とする文化-
すなわち徳川時代の儒者の文化の全体が、その意味での翻訳文化である。その経験が明治の西洋語文献からの大がかりな翻訳を助けたのであり、
近代日本を作りだした、ということができる。


翻訳文化は必ずしも独創を排除しない。徳川時代の文化の独創性は、「読み下し漢文」に依るところが少ない浄瑠璃や俳諧ばかりでなく、
漢文の概念を駆使しての、儒者の思想的な仕事にもある。日本の学者は必ずしも同時代の中国の後を追ったのではなかった。
明治以後の文化についても、少なくともある程度までは、同じことが言えるだろう。


翻訳文化はまたその国の文化的自立を脅かすものではない。むしろ逆に文化的自立を強化する面を含む。
翻訳は外国の概念や思想の単なる受容ではなく、幸いにして、または不幸にして、常に外来文化の自国の伝統による変容だからである。
外来の思想は、必ずしも知識層と大衆との間の溝を、長期にわたって拡げるようには作用しない。そのことを明治初期の翻訳者たちは-
少なくとも一部は-あきらかに意識していた。もし文化的創造や革新的な思想が、知識人と大衆との深い接触を通じて成り立つものとすれば、
翻訳文化は創造力を刺戟しても抑えはしないはずである。


(『翻訳と日本の近代』 岩波新書 加藤周一)



2008/01/01

重訳について

質問者G:先程からテキストが基本だということを再三おっしゃられていますけれども、私は亡命文学を研究しておりまして、あのう、重訳っていうんでしょうか、母国語から違う語に訳されて、それから日本語になっているものが非常に多いことに気づきまして、そこに面白みを感じて勉強を始めたということがあるんですけれども、重訳では母国語が持っている小説の質感などがだいぶ異なってしまう、訳された外国語のところで変わってしまっている部分が少しあると思うんですね。それが、さらに日本語に訳されるときにまた変わってしまって、母国語、作者が書いたもとのものとはかなり違ってしまったというのをずいぶん見たことがあるんです。そういう部分にちょっと疑問を持ったんですけれども、重訳ということに関して、テキストに重きを置くという意味で、いかがでしょうか。

村上(春樹):僕は実を言いますと、重訳ってわりに好きなんですよね。僕はちょっと変なのが好きだから、重訳とか、映画のノベライゼーションとか、興味あります。だから僕の場合はいささか偏見が入っちゃっているんだけど、いまおっしゃったような問題はこれから、グローバライゼーションということもあって、ものすごく増えてくると思うんです。たとえば僕の小説はノルウェー語に四冊ぐらい訳されているんですが、ノルウェーというのはなにしろ人口四百万人ぐらいの国だから、やっぱし日本語を訳せる翻訳者の数も少ないし、売れる部数も少ないんで、どうしても英語からの翻訳が半分ぐらいになります。四冊のうち、日本語から直接訳されているのが二冊と、英語訳からノルウェー語に訳されているのが二冊ということですね。
はっきり言って、いまはニューヨークが出版業界のハブ(中心軸)なんですよね。好むと好まざるとにかかわらず、そこを中心に世界の出版業界は回っています。言語的に言っても英語が業界のリンガ・フランカ(共通語)みたいになっています。この傾向はこれからもっと強くなるだろうと思われます。だから、いまおっしゃったように重訳の問題っていうのは、これからいっぱい出てくると思います。
正論で言えば、もちろん日本語からの直接翻訳がいちばん正確だし、またそうであるべきなんだけれども、正論ばかり言ってはいられないという状況はずいぶんと出てくるだろうと僕は思うんですよ。世界の交流のスピードは急激に速くなっているし、現実的に言って、日本語からの直訳を世界じゅうの国に対して要求できるほど、日本語の地位は今のところ高くないです、残念ながら。だから、僕らがそういうシステムにある程度慣れていかないといけないんじゃないかなと思います。そしてその中でルールみたいなものを確立していく必要がある。もう一つ、英語に翻訳されるときはかなり細かくチェックすることも必要だろうと。個人的にはそう思います。

柴田(元幸):僕も『ダブル/ダブル』っていうアンソロジーを訳したときには、ラテンアメリカの作家の、だから、スペイン語の英訳から訳したりしているわけですね。やっぱりそういうときには、スペイン語の原文が読める人に、スペイン語の原文と照らしあわせてもらって、直してもらいます。そうするとですね、やっぱりもう一般論はないです。英訳が良ければほとんど違いはありません。で、悪ければもう、ほとんど違う話になってたよ、てなこともあって、その人が全部訳し直してくれたというのに近かったりするんですね。だから、本当に一般論としては言えないですけれども、まあとにかく、重訳というのはコピーのコピーを取るみたいなもので、そうすると鮮度は・・・・・・鮮度じゃない。それは魚だな(笑)。精度というのかな。ええっと、が、やっぱり落ちる。その落ち方はそのコピー機の性能によるということにつきると思うんですよね。でもとにかく、そこから一般論が言えるとすれば、要するにもう、あらゆる翻訳は誤訳であるということで、何らかのノイズは忍び込むということであり、重訳の場合はノイズの増える割合が大きいということじゃないかなあ。

村上:バルザックを英語で読んだりとか、ドストエフスキーを英語で読んでいるとね、けっこうおもしろいんですよね。不思議な味わいがある。おもしろいっていう点から言えばね。

柴田:ただ、あれですよね、ヨーロッパ言語同士の翻訳だと、言語構造は、そうははなはだしく違わないから、一般論としてわりにノイズが増えないんだろうなという気はするんですよね。たとえば、英語の小説を日本語に訳して、その日本語からまた、たとえばフランス語に訳したりすると、かなり大きく変わる。要するに、英仏日とやるのはそんなに変わらないにしても、英日仏だと何か大きな変化が二度あるような気がしますね。

村上:僕の小説がそういうふうに重訳されているということから、書いた本人として思うのは、べつにいいんじゃない、とまでは言わないけど、もっと大事なものはありますよね。僕は細かい表現レベルのことよりは、もっと大きな物語レベルのものさえ伝わってくれればそれでいいやっていう部分はあります。作品自体に力があれば、多少の誤差は乗り越えていける。それよりは訳されたほうが嬉しいんです。

柴田:それはそうですよね。

(『翻訳夜話』 村上春樹 柴田元幸 文春新書)