2008/01/03

『翻訳と日本の近代』 あとがきから

徳川時代の文化の大きな部分(主として知的・思想的な領域での大きな部分)は、翻訳文化であった。いわゆる「読み下し漢文」は、
狙徠も指摘したように中国語文献(主として古典)の翻訳であり、その語彙や表現法を採り入れて消化した日本語を媒介とする文化-
すなわち徳川時代の儒者の文化の全体が、その意味での翻訳文化である。その経験が明治の西洋語文献からの大がかりな翻訳を助けたのであり、
近代日本を作りだした、ということができる。


翻訳文化は必ずしも独創を排除しない。徳川時代の文化の独創性は、「読み下し漢文」に依るところが少ない浄瑠璃や俳諧ばかりでなく、
漢文の概念を駆使しての、儒者の思想的な仕事にもある。日本の学者は必ずしも同時代の中国の後を追ったのではなかった。
明治以後の文化についても、少なくともある程度までは、同じことが言えるだろう。


翻訳文化はまたその国の文化的自立を脅かすものではない。むしろ逆に文化的自立を強化する面を含む。
翻訳は外国の概念や思想の単なる受容ではなく、幸いにして、または不幸にして、常に外来文化の自国の伝統による変容だからである。
外来の思想は、必ずしも知識層と大衆との間の溝を、長期にわたって拡げるようには作用しない。そのことを明治初期の翻訳者たちは-
少なくとも一部は-あきらかに意識していた。もし文化的創造や革新的な思想が、知識人と大衆との深い接触を通じて成り立つものとすれば、
翻訳文化は創造力を刺戟しても抑えはしないはずである。


(『翻訳と日本の近代』 岩波新書 加藤周一)