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2008/04/07

奇形の身体、病気の身体

捻じ曲がった身体がある。外からあてがわれたユークリッド座標系を基準にすると、有らぬ方向に延びる曲線に沿って、その体軸と四肢が捻れている身体である。外部観察者の眼で見ると。個体発生と形態形成の過程で間違いを生じてしまった異常で異様な身体である。アルマン・マリー・ルロウ『ミュータント』があげる事例から拾うと、結合性双生児の身体、無頭蓋症児の身体、内臓逆位者の身体、多指症者の身体などである。

しかし、観点を変えるなら、事態は全く違った相貌を帯びてくる。捻じ曲がった身体は、個体発生と形態形成の過程では正しく然るべき仕方で捻じ曲がった身体である。ドゥルーズの用語を導入して言いかえる。固体化の場、前固体化で非人称的な場、超越論的な場から見るなら、すなわち、個体発生と形態形式のトポロジカルな空間に内在的な座標系を基準とするなら、正しい線たる直線に沿ってその体軸と四肢が伸張した身体である。だからこそ、ミュータントの身体は、いかに短い期間であっても、生きられうるものになるし、現に生きられるものになっている。

では、そんなトポロジカルな空間は、どこに存在するのであろうか。当の身体の内部のどこに存在するのであろうか。あるいは、当の身体の外部のどこに存在するのであろうか。その空間の存在性については、理念的で潜在的でリアルな多様体であると幾度となく語られてきた。それはその通りである。また、理念的で潜在的でリアルな多様体は、現実的存在者と本性的に区別されるとこれまた幾度も語られてきた。それもその通りである。だから、その空間を現実的存在者において探し出そうとする問いの立て方は、あたかも超越論的な場を経験的なものにおいて探し出そうとしたり前個体的な場を既に固体化された存在者化したりするような、哲学的な常識を全く弁えない馬鹿げたやり方であると語られてもきた。しかし、ドゥルーズとガタリは、まさにその馬鹿げたやり方を追求したのである。何故か。ドゥルーズとガタリは、講壇学者の立場にではなく、多様で多彩な身体を生きて病んで死んでゆく民衆の立場に立っていたからである。

生まれながらの捻じ曲がった身体が、事故や病気のために、さらに捻じ曲げられることがある。それもまたトポロジカルな空間に内在的な座標系からするなら正しく然るべき仕方で起こったことが実現したことなのだが、そうではあるが、決定的に違うのは、いまや身体は生き難いものになるということである。そんな身体は、苦痛や不調や失調などのさまざまな症候を発する。それら症候は現に経験され現に生きられる。とするなら、病人の身体は、超越論的な場を非常に通り過ぎたはずのトポロジカルな出来事を、症候を介して感覚し経験していることにならないであろうか。とするなら、そのとき症候の経験は超越論的な場のシーニュになる。では、そのシーニュの意味は何であろうか。そのシーニュが指し示す方向は、どこに向かうのだろうか。ドゥルーズとガタリは、その方向を「来るべき民衆」と呼ぶことになるだろう。

(『来るべき民衆-科学と芸術のポテンシャル』 小泉義之)



2007/05/10

生活習慣病とは

プロパガンダの一つの特性は、形容詞を多様することにある。ナチ政権下では「抜本的」や「永久的」ということばや、「悪い科学」とか
「適確な・不適格な」という表現を多用した。


例えが好きで、ガンを「ユダヤ腫」と呼び、「遺伝子欠陥者は国家のガン」とか「ガンは内戦を画策する革命分子、無政府主義者、
ポリシェビキ、共産主義者だ」といった。「発生期のガンは身体中の、他の人種と異なる細胞の新しい人種とみなすべきで、
治療の目的は病因となる人種の撲滅にある」とも述べている。


ベルリン大学教授のハンス・アウラーは「第三帝国が国民の健康維持を基礎としていることは幸いである。遺伝学・教育・スポーツ・
大学院研究・ヒトラーユーゲントや突撃隊・親衛隊での体育・結婚資金貸付・家庭衛生・隣保事業・職業斡旋等々の政府の政策はすべて、
ガン予防の措置と見なしうる」と政策の全てを称賛した。


なぜナチのことを紹介したか。ナチと同じ心性操作が今のアメリカや日本に多いからだ。2000年に日本の社会保障審議会で、「成人病」
を「生活習慣病」と改称することに決定した。命名したのは委員の一人、日野原重明である。


1937年、ドイツの遺伝学者カール・ハインリヒ・バウアーは「ガンの発生は生活習慣病」という論文を発表し、1939年、
アルトゥル・ヒンツェは「生活習慣と宗教が世界各地のガン発生率の違いを生む」と研究発表し、両説は熱心なナチ党員に支持された。(
「健康帝国ナチス」 プロクター 草思社)


生活習慣病には自己責任の意味が含まれる。健康保険が赤字の現在、自己責任で自己を管理し、医療費を抑制し、
ゆくゆくは公的保険を廃止し、民間保険に切り替えることを目指す。すでに混合診療の名のもとに民間医療保険が開始されている。


ナチ政権下で国民健康保険が実施されたが、自己責任を果たさなかった者に医療費の支給を抑えた。同じく日本でも、
このことばがでてきた直後に、健康増進法がだされ「健康は国民の義務」とされ、介護保険が改正され、
多数の老人や障害者が公的施設から追放された。


矢島嶺は病気の原因は三つあると説く。一つは有害物質や細菌や事故やストレス、二つ目は遺伝や加齢、
三つ目は食生活や運動や喫煙や休養の生活習慣である。この三者の内生活習慣のみを強調するのは、政治的意図以外何ものでもないと説いている。
(Bricolage 0六年五月号)


(「現代思想」 2007年4月号 「教育と心性操作」 佐々木賢 P117)



2007/03/27

新型インフルエンザ

新型インフルエンザ

近い将来に大流行することが予想されている人が免疫をもたないインフルエンザ。

鳥インフルエンザウィルス(H5N1)の遺伝子が突然変異したり、ブタの細胞内で人のインフルエンザウィルスと混じり合うなどして変異し、
生まれるとみられている。厚生労働省は、国内で大流行した場合、国民の25%が感染し、1300万~2500万人が受診、
17万~64万人が死亡すると推計している。


(産経新聞 2007年3月27日)



2007/02/22

意味と情報

情報と意味は同じではない。簡単に言うと、意味は小さな部分を集めてより大きな一つのものになるのに対し、
情報はその反対と言えるだろう。また、情報はデジタルという理想的な形で伝わるのに対し、意味はもっと象徴的な方法で伝わる。
情報は加工処理され、意味は解釈される。そうは言っても、僕たちは意味のために情報を退去させることはできない。
時代に合わせて生きなければならないからで、あらゆる方向から襲いかかる情報の波から選別するしかたを学ばなければならないのである。
現代は、僕たちが自分であらゆる体験をしたいと思っても、そううまくはいかなくなっている。問題はテクノロジーにあり、
僕たちはますます見物人で受身の消費者となり、ますます行動的に参加しなくなり、それが僕たちに意味を不足させている。


ここで僕が思っている「意味」を説明するのは簡単ではない。哲学の意味論では、とくにゴットローブ・フレーゲ(1848-1925)
の研究の延長上に、意味の理論が無数にあり、言語学的表現としての意味を説明している。しかし、僕が言いたい意味の概念は、
もっと広い視点をカバーし、「何か」が「誰か」にとって意味があるという考え方と切り離せない。先述のペーテル・ヴェッセル・ツァプフェは
「悲劇について」のなかでこの概念を一つ一つつなごうとする。


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「一つの行動あるいは人生の別の一断片に意味があるとしたら、それは正確に認識できるのに、
考えとして言いあらわすのは容易ではない。たぶん、そのような行動に駆り立てた善意のほうでいろいろ探らなければならないだろう。
ひとたび目的に達したら、行動はいわば「正当化され」、バランスが取れ、確認され-そして人は落ち着きを取り戻す。」



この定義はちょっとひとひねりされているが、重要な要素を含んでいる。つまり意味は、
主体と世界との関係のあり方に結びついているという点だ(ちなみに僕たちの考え方はツァプフェとは違う。
彼は歴史より生物学に基づいているからだ)。もう一つ、ツァプフェの考え方で僕たちの興味を惹くのは、すべての行動を他の何か-
実体としての人生と照らし合わせている点だろう。この問題についての彼の長い詳述は割愛するが、僕たちが探し求めている、
いや要求していると言ってもいい「意味」は、最終的には実存または形而上学的な意味の問いだということは知っておいていただきたい。
意味はいろいろな方法で探すことができ、さまざまな形で見つけることができる。何か定められたもののなかにあることもあれば
(たとえば宗教の共同体)、これから実現されるべきもののなかにもある(たとえば階級のない社会)。また、
何かの集団であらわされることもあれば、反対に個人のときもある。西洋ではロマン主義期以降、実存の意味はもっぱら個人の範疇に入り、
個人の計画、個人の信じるものを実現して、初めて意味があることになっている。僕が理解する「個人の意味」は、さしずめ「個人の信条」、
または「ロマン主義的」とでも呼びたいところだ。


正しく機能している社会では、人は人生で意味を見いだす。機能していない社会ではそうではない。前近代社会では、
一般に集団的な意味が存在し、それでうまくいっていた。しかし、僕たち「ロマン主義者」には、それは疑わしい。なぜなら、
僕たちもよく民族主義のような集団的な考え方を取りこむことはあるのだが、結局のところ、非常に限定された考え方だと思ってしまうからだ。
もちろん僕たちの人生にはいまでも意味があるが、密度の濃さは失われてしまったようだ。その代わり、情報は枯渇しそうもない。
メディアによって高速でもたらせる情報は、過剰な知識を与え、それには肯定的な面もあるのだが、
やたらとうるさいだけでじつは誰の耳にもはいっていない。「意味」という言葉をもっと広く受け入れてみると、少なくとも言えるのは、
現在の世界には意味がありあまるほどあるということである。みんな文字通り、意味のなかでもたついている。しかし、
この意味は僕たちが探し求めているものではない。退屈で時間が空虚なのは、行動に中身がないのではない。
壁の絵が乾くのを待っているだけでも、その瞬間必ず何かが起きている。時間が空虚なのは、意味が空虚なのである。


(「退屈の小さな哲学」 ラース・スヴェンセン 鳥取絹子訳 集英社新書)



2007/02/20

アーバスの一連の「ヌーディスト・キャンプ」の写真から考える服装について

そして彼女が多く写した「ヌーディスト・キャンプ」の姿態は、はっきりとその延長線を形造っている。其処での素っ裸の人たちが、
或は靴を履き、或はネックレスをつけ、さらには派手なサングラスを掛けているのを見る時、その可笑しさは、
対極的な二つの根本的懐疑を同時に喚び起こす。そもそも服装とはいったい何なのか。そして同時に裸とはいったい何なのか。
裸につけられた一条の細いネックレス・一足の靴は服装であるのかないのか。少なくともそれは「象徴行動」としての服装ではあろう。しかし、
その象徴的服装を身につけている者は、今、歴然と陰部を露わにしている。そこには、陰部とは何か、
という懐疑が直ちに加わって発生するであろう。そうした連続疑問符の発生は、彼女のヌーディスト写真について言われているように「裸体美」
への否定感を喚起するだけに止まるものではない。そうではなくて遙かに根本的に、通常の社会を物的に支えている中核的慣習法としての服装
(着物)なるものを、意味と無意味の間に宙ぶらりんの空間に放うり出すのである。
そこに生まれる可笑しさとそこに発生する根本的な疑惑の感覚は、社会の俗物的自明性を根底から揺がしている。
全体が裸で微細な抹消局部が服飾している、その不均衡のもたらす「道化性」の可笑しさが発揮する「中断」効果は、
社会の日常秩序性を支えている最も身近かな物品の基礎にまで及んだのである。打ち込まれた楔は大木を裂く。そして楔は常に小さい断片である。
むしろ断片なるが故に裂力を持つ。現実世界の一つの断片としての写真を社会的偏見体系への楔たらしめることが出来た時、
その楔の裂力は同時に社会人への閃光的啓示をも発する。


嘗て原始社会の漁師たちが、舟の遭難の結果、何処かの町や農村の港に辿りついた時、しばしば彼らの礼服としてのフンドシも失ったまま、
港に下り立たなければならなかった。むろん、町は言うまでもなく農村も又 「人工的栽培」 を業とする文明社会であり、
文明社会には文明化された服装があり、服装の序列があり、無服の者は排除される「礼」の体系があった。其処に上陸する時、
フンドシを失った漁師たちはどうしたか。彼らは、素っ裸のチンポコの前に藁しべ一本手でぶら下げてフンドシの印しとしたのであった。
彼らは明らかに服装の持つ」「象徴行動」としての性格を心得ていた。
服装の序列の中に浸っている者よりも遙かに服装の社会的意味をよく知っていた。むろんその姿は滑稽であり軽蔑をも買ったのであろうが、
しかしその滑稽さは「礼儀三百威厳三千」の服装文化の元々の核心を暴露するものであった。星霜移り風俗は変わって、現代アメリカにおける
「ヌーディスト・キャンプ」では、嘗ての漁師のような迫芯力はむろん無いが、
その代わりに派手なサングラスとネックレスをかけた素っ裸の女や不細工に靴をはいた素っ裸の男が坐っている。
服装の中の加上部分だけを強調的に身につけて、防護と防寒の用具は概ねすべて取り払われている。
その姿は現代文明社会における服装過剰を暴露して見せている。脱ぎに脱いだ剥離の結果、残ったものは無用の飾り二個に過ぎない。
ヌードになっても剥ぐことの出来ない現代服の核心としてそれら数個のものが残っている。服装すなわち着物は今や「加上の部」
にその象徴的中心を移しているのだ。


人間は、自ら、哺乳類の一種だと言うにも拘わらず、他の全ての哺乳類から遙かに遠ざかって、奇妙な一、
二の部分にだけ少しばかりの体毛を残して、ほぼ全身的にツルツルになって了って以来、
(他の動物から見ればさぞ奇妙奇天烈でゾッとするような気味悪い姿であろうが、しかもそれに些かも気附かぬ無自覚さを以て)
他の哺乳類一統を「毛之(ツ)物」とか「毛だ物」とか呼びながら、自らのツルツルの傷つき易い劣弱な身体を傷害や寒気から防護するために、
着物(服装)を着用するに至った。そして服装は服装を呼んで、加上に加上を重ね、その重量的加上の裡に序列を生み、
社会秩序の区分機能を果す地位・職能の象徴となり、位階勲等を始め官位身分の誇示記号と成り、漁師的「象徴行動」
が示した象徴本来の意味への素朴な忠実さを忘れ去り、そうした過程の行きつく果てに、今日の末端装飾主義へとその「象徴行動」
の意味中心を移動させて了ったのである。「象徴」自体の意味中心が重大部位から抹消局所へと逆転し、ますます逆進している。とすれば、
服装における加上部分は現代的現実の最も鋭い断片として注目するに値する筈である。


(「藤田省三著作集9 「写真と社会」小史 文中 「ダイアン・アーバスの写真」 藤田省三 みすず書房)



2007/01/25

「老い」と「衰え」

赤ん坊だって「衰え」ることはありうるわけだし、子供だって病気になれば「衰え」ます。となると、「衰え」は老人固有のものだとは言えない。でも、老人になるとだんだん「老い」と「衰え」が同じ意味に近くなっていくんだと思います。

「死ぬ」ということばも同じです。老人だから「死ぬ」とは限らない。赤ん坊だって「死ぬ」わけだし、若い人も交通事故で「死ぬ」こともある。年齢なんて関係ないということになります。だけど、老人は「死ぬしかないよ」となると、そうかもしれないということになっちゃう。そうすると、人から「老人性うつ病」といわれる状態に陥ってしまうんです。

若いときは「老い」と「衰え」の二つのことばで語れたとしても、老人の域に達すると曖昧模糊とした形で絡み合って、本質的には分けて考えた方がいいのですが、「老い」と「衰え」がうまく分けられなくなるということですね。

(「老いの流儀」 吉本隆明 NHK出版)

鉄腕アトムが隠したテーマ

大塚:

「鉄腕アトム」の第一話をいつも僕は問題にして、本にも書いたことがあるんですけど、天馬博士っていう科学者がいて、その子供が交通事故で死んじゃう。その死んだ子供そっくりのロボットをつくるわけです。ところがそのそっくりのロボットは、ロボットなので成長しない。だからお父さんは怒って捨ててしまうという、すごいモチーフなんです。

つまりおとなになれない、生身の肉体を持てないことが「鉄腕アトム」の呪縛になっている。手塚さんは、この問題をどうしたかっていうと、実は「鉄腕アトム」の第一話は「アトム大使」(一九五一年。文春文庫「懐かしのヒーローマンガ大全集」などに所収)っていう話で、いろいろエピソードがあるんだけど、いちばん最後に、宇宙人がアトムに、「アトム君、きみはいつまでも子供のままでいてはいけないから」と言って、おとなのロボットの首を差し出して、アトムはその宇宙人からおとなの顔をもらって成長するという終わり方をするんです。

ところが、それは雑誌掲載時のエピソードで、それが単行本になってアトムが描き続けられる中で、そのエピソードはすぽんと切られちゃうんです。つまりアトムが捨て子であったこと、育たないこと、それから宇宙人から成熟の手立てをもらったことというのは一切捨てられて、いわば出自を隠蔽された子供として、「鉄腕アトム」は戦後最大のヒーローになるんです。ただ「アトム」が隠したテーマというのは一貫して生きのびていて、それはアニメ的な記号的身体とか、成熟、成長しない身体、しかしそこに成長をテーマとして付着させるとか、身体とかいうことを持ち込んでしまう。身体とか成長というテーマを手塚さんが隠したが故に、逆に大きな主題になっていって、その主題に対して戦後まんが史とかアニメーションはずーっと反応し続けている。

吉本隆明×大塚英志「だいたいで、いいじゃない。」文芸春秋2000年

老いの越え方

老齢者は身体の運動性が鈍くなっていると若い人はおもっていて、それは一見常識的のようにみえるが、大いなる誤解である。
老齢者は意思し、身体の行動を起こすことのあいだの「背離」が大きくなっているのだ。言い換えるにこの意味では老齢者は「超人間」なのだ。
これを洞察できないと老齢者と若者との差異はひどくなるばかりだ。老齢者は若者を人間というものを外側からしか見られない愚か者だとおもい、
若者は老齢者をよぼよぼの老衰者だとおもってあなどる。両方とも大いなる誤解である。一般社会の常識はそれですませているが、精神の「有事」
になると取り返しのつかない相互不信になる。感性が鈍化するのではなく、あまりに意志力と身体の運動性との背離が大きくなるので、
他人に告げるのも億劫になり、そのくせ想像力、空想力、妄想、思い入れなどは一層活発になる。これが老齢の大きな特徴である。
このように基本的に掴まえていれば、大きな誤解は生じない。老齢者がときどきやる感覚的なボケを老齢の本質のようにみている新聞やテレビ、
あるいはそこに出てくる医師、介護士、ボランティアなどのいうことを真に受けると、とんでもない思い違いをして、
老齢者を本当のボケに追いやることがあり得る。身体の運動性だけを考えれば、
動物のように考えと反射的行動を直結するのがいいに決まっている。

けれど老齢者は動物と最も遠い「超人間」であることを忘れないで欲しい。生涯を送るということは、
人間をもっと人間にして何かを次世代に受け継ぐことだ。それがよりよい人間になることかどうかは「個人としての個人」には判断できない。
自分のなかの「社会集団としての個人」の部分が実感として知ることができるといえる。


(「老いの超え方」 吉本隆明 朝日新聞社)



江藤淳の死

江藤淳は、なかなか「死」に際がすっきりした人だなと思いました。遺書みたいなものがありましたが、あれはいい文章だと思っています。
しかし、大江健三郎(1935~)や老人介護の専門化の三好晴樹(1950~)は、「そんなに潔いわけでもないし、
ああいう自殺は決してよくない。江藤淳と同じように脳梗塞でリハビリで苦労している人はどう思うだろうか」と否定的に捉えています。でも、
僕は太宰治の自殺以降、思い切った決断力のある文章だと思っています。江藤淳も格別書くものがなくなったとか、
行き詰まったということでもないし、奥さんに先立たれて時間のずれはあるけど、一種の心中みたいなものだという理解の仕方もあるでしょう。
ただ、僕は奥さんのことを言うなら、看病でものすごく疲れてしまった。さらに年齢から起こる前立腺炎の苦しみや脳梗塞になって、
気持ちを立て直すうちに老いてしまった。そういうことが自殺の原因ではないかと思っています。


(「老いの流儀」 吉本隆明 NHK出版)