2007/07/09

奴隷制廃止ということ

英国人は中国人労働者を名目上は「自由な」存在として描いたが、「苦力」
たちはアフリカ人奴隷を運んだのとまさに同じ船で目的地へと送り出された。ある者は病にかかり、命を落とし、暴虐に耐え、反乱を起こした。
三ヶ月にわたる航海を生き延びた者には、到着と同時に強制的な監禁状態が待っていた。この意味で、「原始的奴隷制」から「自由労働」
への転換の決定を宣言する英国の政治的言説は、近代功利主義の所作だったのかもしれない。奴隷制廃止は便宜的なものだったのであって、
たまたま同時代の「啓蒙的」空気に合った解決であったにすぎないのである。年季契約移民労働が「自由に」契約されたものであるという表象は、
かつての奴隷への自由というリベラルな約束を裏支えするものとして現れたが、その一方で、プランターがいわゆる
「奴隷制から自由労働への転換」から -すなわち実際には、借用奴隷から分益小作農、囚人奴隷、日雇い労働、債務奴隷、出来高払い制、
年季契約移民にいたる、幅広い強制的労働の媒介的な形式から- 利益を得ることを可能にするものであった。中国人は、
この十九世紀前半の植民地言説の中でひとつの形象として、「自由」ではあるが人種化された年季契約移民という幻想として、
道具主義的に利用されていたが、自らの身体や仕事、生と死の所有からあらかじめ排除されていたことは、奴隷化された者たちにとっても、
年季契約で連れてこられた者たちにとっても同様であった。


(『人種化された労働』 リサ・ロウ 浜邦彦訳 現代思想 2007年6月号 青土社)



ディアスポラの概念

「ディアスポラ」の比較研究というコンセプトは、
アフリカやアジアといった単一の地域や場所に起源をもつ人々の移動とつながりを理解するための、示唆的でポジティブな枠組みを提供し、
通常は国民に基礎をおく歴史からは取り残されてしまう、グローバルなプロセスに光を当てる分析を可能にするものである。
撒種を意味するギリシャ語に由来する「ディアスポラ」の概念は、離散してはいても宗教、テクスト、文化によって結びつけられている。ユダヤ・
ディアスポラの完潔性(integricy)と同質性を表すために、主として使われてきた。それは近年の研究においては。
「もともとは均質であったが、のちに移動した人々」の、「社会性の個別的な形式」を指すものへと拡大してきた。「アフリカン・ディアスポラ」
の研究は、アフリカ大陸の外で生きているアフリカ系の子孫のグローバルな歴史を強力に概念化している。それは、
アフリカ系の子孫の数世紀にわたるさまざまなコミュニティを、
ナショナルな境界線を横断して統一的に議論することを可能にする用語でもあると同時に、補囚、奴隷化、
そして大西洋奴隷貿易につづく強制労働の歴史を取り戻す議論のための方法でもある。1500年から1900年までの間に、
およそ400万人のアフリカ人奴隷がインド洋の島々のプランティーションに、800万人が地中海に、そして1100万人がアメリカスという
「新世界」へと移送された。アフリカン・ディアスポラにはアフロ・ラティーノ(その集団は8000万人のアフロ・ブラジリアン)、アフロ・
アラブ、アフロ・ヨーロピアンおよびアフリカン・アメリカンが含まれている。研究者たちは「アジア・ディアスポラ」を、東アジア、南アジア、
東南アジアからのさまざまなナショナルな出自をもつ人々の、グローバルな移住(migration)の広がりを指す言葉として使っている。
アジア系の人々の、十九世紀を通じた広大でグローバルな拡散は、グローバル経済の拡大の出現にとって中心的(な出来事)であった。
インド洋におけるフランスやオランダの植民地、スペイン領キューバやペルー、英領西インド諸島、ハワイ、そしてアメリカ合衆国においても、
アジア人労働者はしばしばアフリカ人奴隷やその他の不自由労働を含む多人種的な労働力の一部であった。「アジア系ディアスポラ」はまた、
二十世紀後半における移住の爆発とアジアからの移民、そしてアジアの故郷との感情的紐帯や同一化の保持を指し示すためにも用いられている。
アフリカ系、アジア系のどちらの表現においても、「ディアスポラ」は統一された集合的な文化的遺産を維持していたり、
あるいは作り直したりしている人々が、地理的に別々の場所にいるというパラドックスを表している。
それはさまざまな結びつきを可能にする批判的な概念であり、より最近では、人種的・民族的な原初主義、
あるいはナショナルな形態の本質主義への批判をも含んでいる。


(『人種化された労働』 リサ・ロウ 浜邦彦訳 現代思想 2007年6月号 青土社)



堀江被告を嗤えない

お金は一つの真実を人間につきつける。私はアシスタントの給料を遅配したり、約束よりも安く払ったことは一度もない。「誠意は金で」
というが、生活費はくれない、”親分”に、人はなかなかついてはいけない。だから私は、堀江氏の言葉に頷いた部分があった。


が、やっぱり「お金がすべて」ではない。私はくだんのファンの方からの5千円を受け取ることはしなかった。かわりに「ありがとう。
でもこれは生活費に充ててください。あるいは本当に困っている方への募金にでも。もし一冊私の本を買っていただけたら幸せです」
と記した礼状を出した。


私は、その若者の手紙を何度も泣きながら読んだ。文面から察するに、彼は自信の生活がぎりぎりなせいで、
友人や地域と上手に人間関係がつくれず、悩んでいるようだった。そんな中で私に5千円ものお金を送ってくれたのは、彼が「孤独」
であるということなのだろう。かつての私もそうだった。それはなかなか人に理解されないから、つい「お金をくれない人とは会えない」
などと言ってしまい、また孤独になる。


お金があっても孤独なのは、堀江被告を見れば分かる。人の世にとって「お金じゃない」というのは嘘で、「お金がすべて」
というのも嘘だ。お金やたつきの問題をのりこえて、純粋な人間関係を求められないうちは、私たちも堀江被告を嗤えない。そんな気がする。


(『正論』 2007年5月号 「堀江被告を嗤えない」 さかもと未明(漫画家)」


補足:ここでいう堀江被告の一言とは、「人の心は金で買える」ということ。かつてさかもと未明は以下のように語っていた。
「男性は本当に女性を愛しているなら、お金を出すとか結婚して生活の面倒をみるとか、命を賭けるとか、
具体的に何か大変なものを差し出すべきだ」


この女性の主張は聞く価値はあるとは思うが、別面で見ればこの女性の考えだからこそ、
堀江被告については嗤えないという思いに至るのだろう。僕は無論堀江被告のことを嗤ったことは一度もない、ただ彼のことには興味がない。
(Amehare)



2007/07/07

官能俳句数句

「牝獣(ひんじゅう)となりて女史哭(な)く牡丹の夜」 (日野草城)


「やはらかきものはくちびる五月闇」(日野草城)


「冬ざれのくちびるを吸う別れかな」(日野草城)


「ちちろ虫女体の記憶よみがへる」(日野草城)


「まぐはひの女めつぶる渡り鳥」(加藤)


「葬ひのある日はもっとも欲情す」(上野ちづこ)


「待って待ってわたしの洞から血が削る」(上野ちづこ)


「おそるべき君らの乳房夏来(きた)る」(西東三鬼)


「男の目にまぶしい女の胸元よ」(西東三鬼)


「牡蠣というなまめくものを啜りけり」(上田五千石)


「倦怠(だる)い夏、だるい乳房、だるい蝶」(富沢赤黄男)


「エキサイトなき性交。倦怠期」(富沢赤黄男」


「花冷えのちがう乳房に逢いにゆく」(真鍋呉夫)


「うしろより耳朶(じだ)噛まれゐて陽炎(かげろ)へり」(藤真奈美)


「実柘榴(みざくろ)のかっと割れたる情痴かな」(鈴木しげ子)


「足ひらきジュラ紀の風を待つごとし」(大木あまり)


追記:「牡蠣というなまめくものを啜りけり」(上田五千石)には静岡県在中の齋藤博氏の解釈が以下のように紹介されている。


style="MARGIN-RIGHT: 0px">

「一句全体が性行為のメタファー。牡蠣は女陰、啜るはクンニリングス。平成16年に芥川賞を受賞した金原ひとみ(20)
の受賞後の第一作に次のようなくだりがある。『まんこの割れ目を両手で押しひろげて、クリトリスを舌で舐めあげた。』
斯くの如き表現の自由からも、かつての『チャタレー夫人の恋人』猥褻裁判は今は昔。玄牝、玉門、ヴァギナ、おめこ、女陰・・・。
エロスへの連想は、いつの世も止めどもない」



補足:上記の一連の官能俳句は2007年5月号「正論」(産経新聞社)の石井英夫コラム「世はこともなし?」に掲載されていた。
こういう俳句があるのかと正直良い意味で堪能した。面白い。俳句ならではの官能の世界だと思う。個人的に好きな句は
「おそるべき君らの乳房夏来(きた)る」(西東三鬼)と「牡蠣というなまめくものを啜りけり」(上田五千石)かな。とても艶めかしく、
かつ具体的て直線的に官能の世界に連れて行ってくれる。僕には全く不得手な文学である、それゆえ逆に面白く鑑賞できた。
これら一連の官能俳句は『俳句とエロス』(榎本一郎 講談社現代新書)の詳しく載っているそうだ。読んでみたいと思う。(amehare)



2007/07/03

中華街の歴史過程 その2

しかし、「中華料理のテーマパーク」に至った原因はこれだけではない。実は、それよりも深い根があることも見落とすことができない。
それは、日本の対中国人政策ともいえる歴史に見ることができる。


すでに触れたように、海港当初、外国人の生活、商業活動は居留地に限られていた。
今では同じマンション内や隣に外国人が住んでいることは、珍しいことではなくなってきたが、一世紀前の日本では、日本人が住む「内地」
を外国人にも開放するか否かは大きな議論を呼ぶ問題であった。なかでも、隣国であり、
廉価な労働力を提供する中国人の内地雑居を許可するか否かという問題は論争の焦点となった。


1899年、欧米諸国との改正条約により外国人居留地が撤廃され、外国人が日本人と同じように、どこにでも生活し、
商業活動を行うことができる「内地雑居」が実現する。その際、「勅令352号」が内地雑居する外国人の管理規則として公示された。
文面上では明らかに記してはいないが、これは事実上、中国人を対象としたものと見られている。この勅令は、
中国人の旧居留地以外での居住や経済活動を制限し、また中国からの未熟練労働者の流入を困難にした。これにより、日本に進出する中国人は、
貿易商か「三巴刀(洋服の鋏、理髪店の剃刀、コックの包丁)」の職業に就くという特徴が生み出されたのであった。


日本において職業制限されていた中国人たちは、限られていた選択肢のなかで生活を営む方法を模索せんばならなかった。また、
関東大震災や1937年の日中戦争などにより、貿易商は商売を続けていくことが困難となった。そのため、貿易商たちのなかには職業替えをし、
コックとして修行をして、料理店を始める者が多かった。


「三巴刀」の職業である、テーラー、理髪師、料理人の職業を比較すれば容易に想像することができるだろうが、
洋服を仕立てるのは年に数着、そして髪を切るのも月に一回程度、しかし食事は一日に三食と、人々の生活において最も需要が高い職業であった。
もちろん、客は毎日外食をするわけではないので、一日三食というのは言い過ぎだが、職業を選ぶ側の立場に立って見ても、飲食業は、
理髪やテーラーに比べ魅力的であった。なぜなら、飲食業は、商売をしながら子供の食事の面倒を見ることができたからである。また、
子供達も皿洗いなど家業の手伝いをすることは他の職業にくらべ比較的容易であった。移民は家族経営を始めることが多いが、
職業選びにもこうした点が考慮されている。また、既製品が大量生産されるようになると、テーラーから転職し、中華料理に従事する華僑・
華人がますます増えていったのである。


(『現代思想』 2007年6月号 「危機を機会に変える街 チャイナタウン」 陳天璽 P86-87)



中華街の歴史過程 その1

現在のように、街が中華料理一色の観光地となったのは、実はそう古いことではない。私は、横浜中華街で生まれ育ったが、
かつては八百屋や肉屋、薬局や洋服店など生活に密着した店、そして蕎麦屋やとんかつ屋などがあった。中華街といえども、
街に暮らす6000人の約半数が華僑・華人で、その他の半分が日本人や朝鮮人などであった。幼いころの記憶では、
朝鮮人の人たちも多く暮らしており、現在の市場通りの反対側は「朝鮮人街」と呼ばれていた。キムチや香辛料など韓国食材が売られ、
また山下公園まで台車をひいてアイスクリームを売りにいくオムニたちを見かけることも多かった。子供たちは、国籍や出自にかかわらず、
チャイナタウンの一角にある山下町公園で、缶けりや鬼ごっこなどをして遊んだものだった。街には人々の生活がにじみ出ていた。ちなみに、
山下町公園は、まだ居留地があった頃、会芳楼という劇場があり、そこは居留地の人々の娯楽の場だったそうだ。その後、
跡地に清国領事館が建てられていた。領事館は、関東大震災で倒壊し、戦後、跡地は山下町公園として地元の子が遊び、
夏には盆踊りやのど自慢大会などをすることに使われるようになった。2000年、歴史にちなんで会芳亭という中国風の東屋を建ててからは、
地元の人よりも、むしろ、観光客の憩いの場となっている。


観光地としての色彩が色濃くなる1980年代ごろまでは、街に住む華僑・華人たちが中華料理店を営み、日本人がその材料となる肉や魚、
野菜、酒、食器などを提供するという分業が行われていた。しかし、日本はバブル経済に伴ってグルメブームとなり、
チャイナタウンの料理店がメディアでしばしば紹介されるようになると、街はいっきに「中華料理のテーマパーク」
としてのイメージが強くなっていった。その後、肉屋が豚まん屋に、魚屋が中華の海鮮料理店に転身するなど、日本人が経営していた店が、
軒並み「中華色」を打ち出した商売に変わっていったのである。街に食材をおろすより観光客向けの商売に転向するほうが、
利益率が高いので当然といえば当然である。こうして、チャイナタウンに暮らす日本人が。「中華ブランド」を利用し、かつ自分の
「アイデンティティ」とすることによって、チャイナタウンの「中華色」がいっそう濃くなるという、興味深い現象が起きている。


(『現代思想』 2007年6月号 「危機を機会に変える街 チャイナタウン」 陳天璽 P85-86)



2007/07/02

民族とは「都合」

「民族って何だ? 血って何だ?」

ドクトルがさえぎった。

「教えてやろうか、つまりこういうことだ」

ドクトルは両手を返した。

「たとえば、お前におじさんがいたとしよう。そんなおじさんがいるなんて知らなかったんだけど、ある日突然現れたんだ。
そのおじさんが大金持ちだった。さあ、その人はお前の親戚か? お前は言うだろう、そうです。
この人は私の血のつながった大切なおじさんです、とな。そう言うだろう? じゃあ、もし、それが借金取りに追われたおじさんだったら、
その人はお前の親戚か?」

「・・・・・・・・・・・・」

「見ず知らずの他人だろ」

「まあ・・・・・・」

「血や民族なんてそんなもんだよ。血なんてのは、都合(コンパニエンテ)ってことなんだよ」

「都合?」

「そう、ペルー人でいた方が都合よけりゃペルー人。ニッポン人でいた方がよけりゃニッポン人。それだけのことなんだよ・・・・・・」


「でも、どこかに共通点のようなものがあるような気がするんですけど・・・・・・」

私はかろうじて反論した。

「お前、あいつらが同じニッポン人に見えるのか?」

「まあ、なんと言うか、にじみ出る雰囲気というか存在感というか、ニセ者の話にしたって、瞼の腫れとか、
顔のちょっとしたちがいですぐ差別する。なんでも民族の話にすりかえる。ペルー人を卑下することで自分を守る。そうでもしていないと、
アイデンティティを維持できない核のなさ、陰湿さはこりゃあ百年前からの伝統的ニッポン人体質そのものだと思う」

私は力をこめて言った。

「それはお前だよ」

爪のまわりに垢がたまり、ささくれだった指でドクトルは私を指した。

「えっ」

「みんな、お前に合わせてんだよ」

私は目が回りそうになった。たまらずドクトルの視線をはずして、手もとのコーラをすすった。コーラはぬるくて気がぬけていた。
ドクトルはじっと私を見つめた。長い間で私を追いつめているようだった。

「いいか、ニセ者をつくってるのは、お前なんだよ」

「いや、おれは・・・・・・」

私は必死に否定しようとしたが、うまく弁解できなかった。

「おまえがニッポン文化がどうしただの、ホンモノどこだニセ者どこだって聞いて回っているから、
みんなその期待に応えようとしているんじゃないか」

「いや・・・・・・・おれは別に期待はしてないけど・・・・・・」

「いいか、百年前を思い出してみろ。百年前、貧しかったニッポン人労働者をペルーが受け入れた時、ペルーの戸籍が必要だったか?
 ペルー人のホンモノの血が必要だったか? ペルーは、血の選別をしたか?」

「・・・・・・・・・・・・・・」

「なんで今、日本は血で人を選ぶんだ? おじいさんの戸籍が必要なんだよ? えっ」

「やはり、血が大切なんだろう・・・・・・」

私は他人事のように言った。

「いいか、ペルーから来ている連中はな、必死にその期待に応えようとしているんじゃないか」

「・・・・・・・・・・・・・・」

「いいか、あいつらは他に何もないんだよ、ニッポン人ってことしかないんだよ。ニッポン人にしがみついてんだよ。だから一生懸命、
お前に合わせようとしているんじゃねえか」

「・・・・・・・・・・・・・・」

「お前はね、鏡に映ったお前自身を見てるんだよ」

私は何も言い返せなかった。口ごもるフリもできず、ただ毛細血管が網のように浮き上がったドクトルの目をみて、時の流れるのを待った。
そうしていればどうにかなるだろうと考えている自分が情けなかった。


(『にせニッポン人探訪記-帰ってきた南米日系人たち』 高橋秀美 草思社 P193-197)


追補:本ルポに登場するドクトルとは「日系人」労働者の一人で、彼のあだな。