2007/04/21

消極的自由への批判

自由を干渉の不在-「私が自らのする選択を他者によって妨げられないこと」(I.バーリン)-
として定義する消極的自由の概念に対して提起されてきた批判を検討してきた。これらの批判によれば、この自由の概念は、(1)
選択肢を質的に区別し、その価値を比較する視点を欠いているという点、(2)
選択肢が行為者にとって現実的にアクセス可能なものであるかどうかを度外視する点、(3)
選択肢が行為者自身の内的な制約によって閉じられることを問題化しえないという点、(4)
意図的な干渉によらない構造的要因ゆえに生じている不自由や不作為によって放置されている不自由を自由の制約・
剥奪としてとらえることができないという点、(5)干渉が不在である場合にも支配が存在することを適切に批判しえないという点、(6)
他者との(間)ではじめて享受されうるような政治的自由をその概念から締めだしているという点において問題を含んでいる。「個人の・
行動に対する・外部からの・意図的な・干渉の不在」として自由が規定されるかぎり、膨大かつ深刻な不自由が許容されうることになる。


(「思考のフロンティア 自由」 齋藤純一 岩波書店) 



子どもの自殺は「親の代理死」

世の中にいじめがあるということと、それで自殺する子どもがいるということは、分けて考えなくてはなりません。

僕は、青年期以降はともかく、本来ならば子どもはそう簡単に「自殺するしかない」というほど精神的ショックを受けないと思います。
日本で年間に三万人いる自殺者のうち、九割九分までが大人でしょう。

実際、ひどいいじめを受けても、死なない子は死にません。

逆にいえば、いじめられて自殺する子どもは、育ってくる過程のなかで深く傷ついた「問題児」なのだと思います。
傷ついた親に育てられた子どもは、死を選びやすい。無意識の中で「死にたい」と思いつつ抑圧している親もいます。その、死への傾きを、
子どももまた無意識のうちに感じ取っている場合もある。

酷な言い方かもしれませんが、子どもの自殺は「親の代理死」なんです。


自殺した子どもの親の態度を見ればわかりますよ。学校がいじめ自殺を防げなかった責任をとれと、市や国に、
二千万円の損害賠償をもとめて訴訟をおこした親がいますが、何を馬鹿なことを言っているんだと思いますね、僕は。二千万円という金額は、
どういうつもりなのか。将来その子が老いた自分たちを世話してくれるはずだったのに、死んじゃったから、
その分をよこせと言っているのと同じことでしょう。


おそらく裁判には、真相究明とか、教育行政を問うとか、立派な名目がついてるんでしょうし、訴訟をおこせるのだから、
社会的なレベルでいえば相当しっかりした人たちなんだと思いますが、親と子の関係からいったら、てんでお話になってないよ、と言いたい。


彼らが、子どもをしっかり可愛がったことのない親だということは、インタビューすればすぐわかるはずです。
時代や経済状況など理由が何であるにせよ、子どもの育て方が悪かったんです。


結局、文科大臣が子どもに「命を大切にしましょう」といっても何の意味もありません。教育やいじめが親の問題から離れて、先生、行政、
それから大臣とどんどん「目上の人」が出てくるのでは、理念的にいって上手くいくわけがない。


それは子どももよくわかっています。「私は自殺します」という予告の手紙を文科大臣に送るのは、
半分は真面目に助けを求めているかもしれないけど、あと半分は、もっと騒ぎを大きくしてやれとか、大人を脅かしてやれと思っているんです。
文科大臣が真に受けて、自分が何とかできると思っているなら、お前さん、お門違いだよ、という感じですね。


(「文藝春秋」 2007年1月号 「いじめ自殺 あえて親に問う」 吉本隆明)



2007/04/19

子どもにとって親は宿命

子どもがいじめられて自殺したり、それを予告する手紙を文科大臣に送りつけたりする事件が続いています。

さらには、いじめを見逃したと責められて校長先生が自殺したり、子どもに自殺された親が、
学校や教育委員会を裁判に訴えたりする事態まで起きた。新聞やテレビでは、毎日だれかが「いじめや自殺はやめましょう」と呼びかけています。


僕のところにも、「いじめられても、自殺するな」とか「いじめっ子にやりかえせ」とか、
子どもへのメッセージを言ってくれと新聞社がきたりしますが、他のひとが何を言おうと僕は出さないよ、と断っている。

そんなこと意味ないよ、まったくおかしいぜ、と僕は思っています。


いじめられて自殺する子も、いじめっ子も、例外なく「問題児」だと思うからです。いじめられる子は感受性が繊細で、
いじめっ子は鈍感だから乱暴なんだ、ということはありえません。どちらも同じように、心が傷ついて育った子どもです。

では、誰が子どもを傷つけたか。結局のところ、「親の育て方が悪いんだ」というしかないと思います。

「親の育て方が悪い」というのは、子どもを厳しく叱りすぎたとか、逆に冷たく放っておいたとか、親のなんらかの言動が悪い、
という意味ではありません。そうではなく、子どもが育つ過程で、親との関係性によって、傷つけられるのです。

僕の持論では、一歳までに、母親が子どもにどう接したかで、その子の人格形成の格の部分は決まります。赤ん坊は、
感覚器ができあがってくる胎児期の終わりから、授乳されている一歳くらいまでは、母親の無意識からおおきな影響を受けるものだからです。


胎児のうちは文字どおり母親と一体ですし、お乳をもらう、抱っこされて眠る、排泄の世話をしてもらう、こうした人間の基本要素が、
母親との接触のなかにあります。その時期に、母親が安定した精神状態にないと、
この世に生まれてきたことに安心感が持てないまま育つことになる。

これが、「傷ついた子ども」と僕が言う意味です。


なにも母親のせいだけではありません。ちょうどそのころ夫と仲が悪かったとか、経済的な事情でパートに出て、
両親とも子どもをかまえなかったりとか、母親を不安定にさせる状況が背後にある。あるいは、仕事をもつ女性の
「子どもの世話なんかしていたら一年間ブランクができてしまう」という焦りも、乳児の心に刷り込まれていくかもしれません。
さまざまな家庭や社会の事情が、母親を不幸にしている。親も傷ついているのです。

つまり、傷ついた親が子どもを育てるから、子どもの心も傷つく。大人になると自分の傷には無自覚なものですから、
子どもを傷つけていることに気づかないと思いますが。


「親の育て方が悪い」といっても、親だけが悪いとは言えません。悪い親だから子どもをかまわないのではない。
かまえなかった理由はそれぞれにあるし、それは仕方がない。

子どもにとって「親は宿命」なんです。

乳幼児期が人間にとって決定的だということは、文学者の例を見てもわかります。夏目漱石、太宰治、三島由紀夫、
彼らはみな実母から引き離され、惨憺たる乳幼児期を送っています。それを乗り越えるために狂気と独創を獲得し、あるいは刻苦勉励して、
いい芸術家になったわけです。


でもそれで報われたのかどうかは、本人にしかわからない。とくに太宰や三島さんは、「傷ついた子ども」のまま、
自殺したように思えてなりません。


(「文藝春秋」 2007年1月号 「いじめ自殺 あえて親に問う」 吉本隆明)



2007/04/12

「明るい部屋」 停滞

小説の読書にともなうイメージのとぼしさは、あらゆる論者がこぞって指摘している、とサルトルは言う。仮に私がその小説に熱中していれば、心的イメージは生じない。読書のこの「稀少イメージ性」に対して、「写真」の「完全イメージ性」が対応する。それは「写真」がそれ自体すでに一個の映像であるという理由によるだけではない。その非常に特殊な映像が、自己完結したものとして与えられるからである-言葉の戯れをおこなって言うなら、それは、完全無欠な=手を触れられないものである。写真映像は充実し、満たされている。そこには何の余地もなく、何ものをもつけ加えることができない。

映画の素材は写真であるが、しかし映画のなかでは、写真はこうした自己完結性を失ってしまう(映画にとっては、これは幸いなことである)。それはなぜか? 映画では、一つの流れに巻き込まれた写真が、たえず他の画面のほうへ押し流され、引き寄せられていくからである。なるほど映画のなかにおいても、写真の指向対象は依然として存在しているが、しかしその指向対象は、横すべりし、自己の現実性を現実性を認めさせようとつとめはせず、自己のかつての存在を主張しない。それは私にとりつかない。
それは幽霊ではないのだ。映画の世界は、現実の世界と同じく、つぎのような予測によって支えられている。すなわち、《経験の流れはたえず同じ構成様式に従って過ぎ去っていくだろう》ということ。ところが「写真」は、その《構成様式》を断ち切ってしまう(
「写真」の驚きはここから来る)。「写真」には未来がないのだ(「写真」の悲壮さやメランコリーはここから来る)。「写真」には、いかなる未来志向も含まれていないが、これに対して映画は、未来志向的であり、したがっていささかもメランコリックではない(では、
映画はいったい何なのか?-それは、さしずめ人生と同じように《自然なもの》であるというほかはない)。「写真」は停止しているので、その現示作用(プレザンタシオン 現前化)は時間の流れを逆流して過去志向(レタンシオン 過去把持)にかわってしまうのだ。

以上のことは、またちがったふうに言うことができる。もう一度、「温室の写真」にもどろう。私はただ一人、写真と向かい合い、写真を眺めている。輪は閉ざされ、出口はない。私はただじっと身動きもせずに苦しむ。不毛な、残酷な、不能な状態。
私は自分の悲しみを変換することができず、自分の視線をそらすことができない。いかなる文化教養も、私が映像の自己完結性からじかにあますところもなく経験するこの苦しみについて語る助けにはならない(だからこそ、写真にはコードがあるにもかかわらず、私は写真を読むことができないのである)。「写真」には-私の言う「写真」には-文化教養は通用しないのだ。「写真」が悲痛なものであるとき、そこでは何ものも悲しみを喪に変えることができないのである。
そしてもし弁証法とは、滅びゆくものを統御し、死の否定を労働の原動力に変える思考であるとするなら、「写真」とは非弁証法的なものである。
「写真」は舞台の本性にもとる舞台であって、そこでは死を《見つめ》、考え、内面化することができない。言いかえればそれは、静止した「死」の舞台であって。「悲劇」は排除される。「写真」はあらゆる浄化作用、あらゆるカタルシスをしめ出してしまうのだ。「版画」や「絵」や「彫像」なら、確かに崇拝するだろうが、しかし写真の場合はどうか? 写真を聖務日課書にはさんでおいても(食卓に飾り、アルバムに貼っておいても)、私はいわばそれを見ないように(あるいはそれが私を見ないように)、私はいわばそれを見ないように(あるいはそれが私を見ないように)つとめ、その耐えがたい充実性を故意にはぐらかし、まさに注意を向けないことによって、それをまったく別の種類のフェティッシュに変えてしまわずにはいられない。たとえばギリシア正教の教会で、人々が目をそらせながら、冷たいガラス越しに口づけをする聖像のように。

「写真」においては、「時間」の不動化は、必ずある極端な、奇異なやり方で行われる。「時間」がせき止められてしまうのだ(「活人画」との関連がここから出てくる。「活人画」の神話的原型は「眠りの森の美女」の眠りなのである)。「写真」は《現代的》なものであり、われわれのもっとも今日的な日常生活にとけこんでいるが、そうはいっても「写真」のうちには、いわば時代遅れの謎めいた点、不思議な停滞、一時停止という観念の本質そのものが含まれているのである(スペインのアルバセート(ムルシア)地方、モンティエル村の住民たちは、新聞を読み、ラジオを聞いているにもかかわらず、一時停止した昔の時間の上にとどまって暮らしている、ということを私は何かで読んだことがあるが、それと同じである)。「写真」は、本質的には決して思い出ではない(思い出を表わす文法的表現は完了過去であろうが、これに対して「写真」の時間は、むしろ不定過去である)。それだけではなく、「写真」は思い出を妨害し、すぐに反=思い出となる。ある日、何人かの友人が子供の頃の思い出を語ってくれた。彼らには思い出があったが、しかし私は、自分の過去の写真を見たばかりだったので、もはや思い出をもたなかった。それらの写真に取り囲まれていると、《思い出のようにやさしく、ミモザの香りが部屋を満たす》というリルケの詩に慰めを見出すことはもはや不可能だった。「写真」は部屋を《満たし》はしない。香りもなければ、音楽もなく、ただこの世の常ならぬものを示すだけである。「写真」は暴力的である。それが暴力行為を写して見せるからではない。撮影の度に、強引に画面を満たすからであり、そのなかでは何ものも身を拒むことができず、姿を変えることができないからである(ときとして「写真」は心地よいと言われることがあるが、このことはその暴力性と矛盾しない。多くの人が砂糖は心地よいという。しかし私はと言えば、砂糖は暴力的だと思う)。

(「明るい部屋」 ロラン・バルト 花輪光訳 みすず書房)

「写真」の事実確認性

われわれはおそらく、神話という形によるのでなければ、過去を、「歴史」を信ずることにいかんともなしがたい抵抗を感ずる。
その抵抗感を写真が初めて払拭する。これ以後、過去は現在と同じくらい確実なものとなり、印画紙に写っているものが、
手で触れられるものと同じくらい確実なものとなる。世界の歴史を画するのは、「写真の出現である-これまで言われてきたように、
映画の出現ではない。


「写真」はまさしく人類学的に新しい対象であるから、映像に関する通常の議論ではとらえられないに決まっている、
と私には思われるのだ。今日、「写真」について論ずる人々(社会学者や記号学者)のあいだでは、「写真」
の意味論的相対性を指摘するのが流行である。《現実のもの》は存在せず、ただ人為的なものがあるにすぎない
(写真はつねにコード化されている、ということを理解しない《現実主義者》は、大いに軽蔑される)。それは「慣習」であって、「自然」
ではないのだ。「写真」は世界のアナロゴン(類似物)ではない、と彼らは言う。「写真」の遠近法は、アルベルティの遠近法
(これは完全に歴史的なものである)に従っているし、対象がネガに記入されるときは、三次元の対象が二次元の像に変えられるのだから、
「写真」に写っているものは人為的につくり出されたものである、とするのだ。しかしながら、こうした議論は無益である。「写真」が類同的
(アナロジック)であることは、いっっこうに差支えないが、しかし同時に「写真」のノエマは、いささかもその類同性(アナロジー)
のうちにあるわけではない。(類同性は、「写真」が他のあらゆる種類の表象と共有する特徴にすぎない)。「写真」
とはコードのない映像である-たとえコードが読み取りの方向を変えるようなことがあっても、明らかにそうである-とかつて主張したとき、
私はすでに現実主義者の一人であったし、またいまもそうであるが、現実主義者は決して写真を現実の《コピー》と見なしているわけではない-
過去の現実から発出したものと見なしているのだ。「写真」は一つの魔術であって、技術(芸術)ではない。
写真が類同的であるかコード化されているかを問うことは、分析の正しい道ではない。重要なのは、
写真がある事実確認能力をもっているということであり、「写真」の事実確認性は対象そのものにかかわるのでなく、
時間にかかわるということである。現象学的観点から見れば、「写真」においては、確実性を証明する能力が、
表象=再現の能力を上まわっているのである。


(「明るい部屋」 ロラン・バルト 花輪光訳 みすず書房)



2007/04/11

「写真」のたぐいない特徴

「写真」の場合、事物が(過去のある瞬間に)現存したという表現は、決して隠喩ではない。生物に関して言えば、
それが生きていたという表現もまた、決して隠喩ではない。ただし、死体を写した場合は別である。というよりも、その場合、
写真が恐ろしいものとなるのは、いわば死体が死体として生きている、ということを写真が証明するからである。つまりそれは、
死んでしまったものの生きている映像なのである。それというのも、写真の不動状態は、いわば「現実のもの」と「生きているもの」
という二つの観念の倒錯的な混同から生じた結果だからである。対象が現実のものであったということを保証することによって、写真はひそかに、
対象が生きているものであると思い込ませるのだが、その原因はわれわれの錯覚にある。われわれはとかく「現実のもの」に、絶対的にすぐれた、
いわば永遠の価値を与えてしまうのだ。しかしまた写真は、その現実のものを過去へ押しやる(《それは=かつて=あった》)ことによって、
それがすでに死んでしまっているということを暗示する。それゆえ、「写真」のたぐいない特徴(そのノエマ)は、
誰かが血肉をそなえた指向対象、あるいは個人としての指向対象を目撃したという点にある(たとえ指向対象が事物であってもそうである)、
と言った方がよいのだ。それに「写真」は、歴史的にも「個人」を対象とする技術=芸術として始まり、個人の身元確認や、市民生活や、
身体に関するわたくしごと(quant-a-soi)とでも呼べるもの-この表現がもつあらゆる意味(自分に関すること、気取り、構え、
取り澄ました態度など)をそこに含めて-にかかわりをもっていた。


(「明るい部屋」 ロラン・バルト 花輪光訳 みすず書房)



しぼり出された像

ラテン語で言えば《写真》は《imago lucis opera expressa》、つまり、光の働きによって暴露され、《引き出され》、《組み立てられ》、(レモンの汁をしぼり出すように)《しぼり出された》像、ということになろう。そしてもし「写真」が、神話に対する感受性をまだいくらかは保っている世界にあったら、人々はそこに含まれている象徴の豊かさを見て小躍りせずにはいないであろう。

なにしろ、愛する人の肉体が、ある貴金属、つまり銀(記念するためのものであり豪奢なものでもある)を媒介として不滅のものとなるのである。しかもその金属は、「錬金術」が扱うあらゆる金属と同じように、生きている、という考えが、さらにそこにつけ加えられることであろう。


(「明るい部屋」 ロラン・バルト 花輪光訳 みすず書房)

2007/04/10

《それはかつてあった》

最初に、方法について述べると称して気軽に指摘しておいたこと、つまり、あらゆる写真はその指向対象(被写体)
に対していわば共同自然的であるということが、ふたたび、いや新たにと言うべきか、映像の真実性を通して言えるということを私は発見した。
それゆえ、いまや二つの声を混ぜ合わせてみることに同意しなければならない。つまり、平凡な事実の声
(誰もが見て知っていることを述べること)と、特異な事実の声(その平凡な事実を、私だけのものである感動の力をつくして離礁させること)
である。それはあたかも、不定法をもたず、一つの時制と一つの除法においてしか変化しない、ある動詞の本性を探し求めるのに似ていた。


私はまず、「写真」の「指向対象」が、他の表象=再現の体系のそれと、いかなる点で異なっているのかを正確に理解し、したがって、
できうべくんばその点を(たとえそれが単純な事柄であっても)正確に述べるようにしなければならない。私が《写真の指向対象》と呼ぶものは、
ある映像またはある記号によって指し示されるものであるが、それは現実のものであってもなくてもよいというわけではなく、
必ず現実のものでなければならない。それはカメラの前に置かれていたものであって、これがなければ写真は存在しないであろう。絵画の場合は、
実際に見たことがなくても、現実をよそおうことができる。言説は記号を組み合わせたものであり、
それらの記号はなるほど指向対象をもっているが、しかしその指向対象は、たいていの場合、《空想されたもの》でありうるし、
また事実そうである。絵画や言説における模倣とちがって、「写真」の場合は、事物がかつてそこにあったということを決して否定できない。
そこには、現実のものでありかつ過去のものである、という切り離せない二重の指定がある。そしてこのような制約はただ「写真」
にとってしか存在しないのだから、これを還元することによって、「写真」の本質そのもの、「写真」のノエマと見なさなければならない。
私がある一枚の写真を通して志向するもの(映画についてはまだ語らないでおこう)、それは「芸術」でも「コミュニケーション」でもなく、
「指向作用」であって、これが「写真」の基礎となる秩序なのである。


それゆえ、「写真」のノエマは名は、つぎのようなものとなろう。すなわち、《それは=かつて=あった》、あるいは「手に負えないもの」
である。ラテン語で言えば、それはおそらく《interfuit》ということになろう
(ラテン語を使えばさまざまなニュアンスが明らかになるのだから、これは必要なペダンティスムというものである)。つまり、
いま私が見ているものは、無限の彼方と主体(撮影者または観客)とのあいだに拡がるその場所に、そこに見出された。
それはかつてそこにあった、がしかし、ただちに引き離されてしまった。それは絶対に、異論の余地なく現前していた、がしかし、
すでによそに移され相違している。intersumという動詞には、まさにそうした意味がすべて含まれているのである。


写真の日常的な氾濫と、写真が呼び起こしているように思われるさまざまな形の関心のため、《それは=かつて=あった》というノエマは、
抑圧されることはない(ノエマは抑圧されえない)としても、わかりきった特徴として無関心に生きられるおそれがある。「温室の写真」は、
まさにそうした無関心から私の目を覚まさせたところであった。普通は事物の存在を確認したのち、それが《真実である》と言うはずであるから、
私の場合は逆説的な順序に従ったということになるが、私はある新しい経験、強度というもの経験の結果、映像の真実性から、
その映像の起源にあるものの現実性を引き出したのだ。私は独特な感動のうちに真実と現実とを融合させたのであって、いまや私は、そこにこそ
「写真」の本性-精髄があるとしたのである。なぜなら、絵に描かれた肖像は、いかに《真実》に見えようとも、どれ一つとして、
その指向対象が現実に存在したという事実を私に強制しえないからである。


(「明るい部屋」 ロラン・バルト 花輪光訳 みすず書房)



コジェーヴとシュトラウス

コジェーヴとシュトラウスが一致するのは、古代の哲学と近代の「知恵」のどちらを選択するかで、
われわれの政治的生活のありかたが大いに深刻な影響を受けるという点であった。かれらがこの問題を議論しはじめたのは30年代であったが、
かれらの論争の焦点がさだまるのは戦後になってから、すなわちコジェーヴの『ヘーゲル読解入門』と、クセノフォンの対話篇『ヒエロン』
の英訳および詳解であるシュトラウスの『僭主政治論』が出版されたのちのことである。1948年初版のシュトラウスの小著は、一見すると、
ある忘れ去られた作品にかんする学識に富んだ研究以上のものではないようにみえる。しかしコジェーブは、
それが二人の以前の論争と二十世紀ヨーロッパの政治的経験に関係があることをたちどころに理解して、フランス語で長文の書評を書いた。
シュトラウスにとってこの経験にかんするもっとも衝撃的な事実は、新しい僭主政治が誕生したことではなかった-
僭主政治は政治生命と同じだけ古い問題だからである。
むしろかくも多くの哲学者たちと知識人たちがこれらの経験をありのままにみとめることをしなかったことが衝撃なのである。『ヒエロン』
の教えとは、シュトラウスの読み方によれば、哲学は僭主政治の危険に、すなわち節度ある政治と哲学的生活のどちらにも脅威となる僭主政治に、
注意を怠ってはならないということである。哲学は哲学そのものの自律性を擁護するのに十分なだけ政治について理解しなければならないが、
哲学が哲学自身の光に照らして政治的世界をいかようにも造形できると考える誤りに陥ってはならない。哲学と政治のあいだの緊張は、
たとえ政治が最悪の僭主政治的形態をとった場合でも処理することは可能だが、緊張がなくなってしまうことは断じてないのだ。
それゆえこの緊張は、哲学者たちすべての主要な関心事でありつづけねばならない。そこから逃れようとして、楽園に引きこもったり、
反対におのが心を政治的な権威に譲りわたすどんな試みも、かならずや哲学的反省の終焉を意味するのである。


書評でコジェーヴは、シュトラウスそのひともある先入見の犠牲者ではないかといって反論する。
僭主政治に向けられたこの古代の先入見は、近代の僭主政治(コジェーヴが念頭においているのはソヴィエト連邦である)が歴史の仕事を促進し、
よりよき未来への道を準備することもある、という点がわからないのだ。しかし、さらに深いところでコジェーヴが非難するのは、
永遠に真なるもの、美しきもの、善きものを探求する個人の私心なき反省という、古代的な、
そして幻想の哲学概念にシュトラウスが固執していることである。そのような永遠の観念などありはしないこと、
あらゆる観念は人間の闘争の歴史からはじめて生起するということ、ひとたびそれを理解した近代の哲学者たちは、歴史に能動的に関与して、
現在のうちに潜在している未来の真理を実現させねばならないことを理解した。それゆえ哲学者と僭主は、
歴史の仕事を成就させるためにお互いを必要とする。僭主には、
現在のなかにどのような潜在力がひそんでいるかを教えてくれるひとが必要であるし、哲学者には、
この潜在力を現実化するだけの大胆な人間が必要である。両者の関係は、コジェーヴにいわせれば、
それぞれの側で成熟しきった両者の納得ずくの「理性的関係」なのだ。両者の仕事の成否については、歴史が唯一の審判者になりうる。


この挑戦にたいするシュトラウスの回答には、コジェーヴの立場から賭けられているものをかれがどれだけ深く理解したかがうかがわれる。
シュトラウスが不思議でならないのはつぎのことである。近代というイデオロギーを護符にするだけで、
スターリンの僭主政治が古代の僭主政治から道徳的に区別される、などと考えることがコジェーヴにはどうしてできるのか。さらに突きつめれば、
コジェーヴは自分の知恵の知恵たるゆえんについてどうしてそこまで確信できるのか。「哲学は」、とシュトラウスは主張する、「それ自体、
諸問題の、すなわち根本的にして包括的な諸問題の、純粋な意識以外のなにものでもない」。コジェーヴの思考のやり方には、
深いところでどこか非哲学的な、非人間的ですらあるもの-一方に啓蒙への無限の希求を押しとどめようとする要求と、
他方に人間的な努力というものが存在しなくなり、
われわれすべてが満足しきった日が訪れることへのメシア信仰的な希望とが表裏一体になったもの-がある。
「人間は国家によって合理的な仕方で満足させられるようになるといわれている」。だがシュトラウスにいわせれば、「そのような国家とは、
人間性の根拠が枯渇していくところ、あるいは人間がその人間性を喪失するところである。それはニーチェのいう「末人」の国家である」。


コジェーヴのユーモアのセンスは有名で、手紙やインタビューの多くと同時に、
ここでもかれがどこまでまじめなのかは完全に明らかではない。だがシュトラウスは、アイロニーと茶目っ気の下にあるものをみてとった。
それはかれに知的な敬意をおぼえさせると同時に、かれを戦慄させもした。コジェーヴにとって、
啓蒙の希求や道徳的完成の放棄によって人間がより人間的でなくなってしまう見込みは、ユートピア的な願望でもなければ、
ディストピア的な恐怖でもなかった。それはひとつの可能性、歴史によって次第に信憑性のあるものにされてきたからこそ、
勘定に入れておかねばならない可能性であった。冷戦中のかれが、リベラル・
デモクラシーの資本主義と僭主政的な国家社会主義のあいだで中立を守ったのは、かれの同国人たちの非人間化の可能性にかんする、
さらに深いところにある無関心に根ざしたことだった。かれらが嘗めた辛酸にかれが関心を寄せるのは、それが承認をめぐる闘争を生みだし、
さらにこの闘争が歴史の形成に成功するかぎりにおいてでしかなかった。負け組の運命などに、かれはいっさい関知しなかった。
幸いにしてコジェーヴは、この点にかんして自分の無神経さを試してみることが許されるような公的地位にはいちども就かなかった。
しかしかれの事例は、ある人びとの歴史的な経験をよりよく理解するためのきっかけになる。すなわちその経験とは、
ロシア人かどうかはさておき、ある思想をまるで聖遺物のようにあつかい、
その霊感にそそのかされるがままに社会を思想に似せてつくりなおそうとしてきた人びとの経験である。


(「シュラクサイの誘惑」 マーク・リラ 佐藤貴史・高田宏史・中金聡訳 日本経済評論社)



2007/04/08

アーバス、ローライフレックス

この時代の多くの写真家がそうしていたように、ダイアンも長年ライカを使っていたが、1962年にはローライフレックスに替えた。
カメラを替えたのは、ライカの平板な視野が自分の写真をいっそう非現実的にするからだと説明したことがある。
この頃には自分のプリントの粒子の粗さが気になりはじめていて、対象の質感をとらえたいとも思っていた。ダイアンの師のリゼット・
モデルもこう強調していた。「最も神秘的なのは、明確に表現された事実である」


サイズが6×6センチのローライを使うと、ネガの粒子はもっと目立たなくなって、望みどおりの明確な表現が可能になり、
その結果としてこれまで彼女の作品のきわだった特徴とされてきた一見して単純な古典的スタイルはさらに洗練されたものとなった。しかし、
最初のうち、ダイアンは新しいカメラによる映像の鮮明さに怖気をふるい、彼女の言う「新しい四角のフレームの融通のなさ」に手こずった。


ダイアンは、その頃ボストンにいたメザーヴィ夫妻にこんな手紙を書いている。「気おくれがして、ひどく滅入っています。
三五ミリのかわりに6×6センチを使うことに気がついたのはよいのですが、いまのところ結果としてあらわれたのは、
まったく撮れなくなったということだけです」


,(「炎のごとく」 パトリシア・ボズワース 名谷一郎訳 文藝春秋)



ダイアン・アーバスをしのぶ詩(兄である詩人ハワード)

自らの手で死を迎えたDへ


妹よ、きみはいまわのきわに

子供の頃の遊びを思い出したろうか-

きっときみも覚えているはずだ-

庭の狭い塀の上を走ったことを

それは山の尾根だった

雪の積もった急斜面が両側に拡がり

真っ暗な谷底へと落ちてゆく

きみは少しでもバランスを崩しかけると

落ちるのがこわさに、自分から跳びおりたね

死ぬときはこうなのだと

ほんの一瞬、思ったにちがいない。


遠い昔のことだ。そして、きみはもういない

もはや大人のゲームをやめたきみは。

闇の上にはりだした岩棚でバランスをとりながら

下を見ないで走りつづける。

落ちるのがこわいから決して跳びおりはしない。


ハワード・ネメロフ


(「炎のごとく」 パトリシア・ボズワース 名谷一郎訳 文藝春秋)



ダイアン・アーバスの死(2) その経緯

七月二十六日、アポロ十五号の宇宙飛行士が月に向けて打ち上げられた。シャーリー・クラークは、
ウェストベスの屋上にカメラを据えつけ、記録映画を撮ろうとしていた。全国のテレビとラジオが報じる打ち上げのニュースが耳についた。
「そのとき、これといった理由もなく、ダイアンの姿が心に浮かびました。彼女に電話すべきだと思いました-電話をしなければならない-
あの人はこの建物にいるのだから、と」


その日の朝、ダイアンは、カンディンスキーのデスマスクの写真をアンドラ・サミュエルソンの部屋の扉の下からすべりこませた。
アンドラに頼まれていたものだったが、ダイアンは彼女が在宅かどうかを確かめなかった。


そのあとで、ダイアンはピー・フェイトラーとラシアン・ティールームで昼食をとった。バッド・オーウェットから仕事の依頼を受け、
『ニューヨーク・タイムズ』の広告写真を撮ることになっていたが、オーウェットによればダイアンを見かけ、
彼女のテーブルへ行ってしばらく仕事の話をしたという。


その後、写真家のウォルター・シルヴァーもダイアンと通りで出会った。「撮影用の遮光幕をもっていた。風邪をひいたということだった。
ニューヨークを引き払ってどこかへ引っ越そうかと思っているなんて言うので、『冗談だろう』と言ってやった」


七月二十七日、ダイアンのアパートでは電話が鳴りつづけていた。ピーター・
シュレシンジャーがその週の後半に予定していた写真のシンポジウムの出席の確認をしようとして、何度も電話したのである。マーヴィン・
イズラエルも何度か電話をかけたが、応答がなかった。七月二十八日、イズラエルはウェストベスへ出かけていった。


そして、イズラエルは、ダイアンが死んでいるのを見つけた。両手首を切り、空の浴槽に横たわっていた。
ブラウスとスラックスを身につけていたが、遺体はすでに「腐敗がはじまっていた」。机の上に開いたままになっていた日記は、
七月二十六日で終わっており、「最後の晩餐」と走り書きされていた。


遺書らしいものは見つからなかった。リゼット・モデルはダイアンから手紙を受け取ったと言っているが、その内容を公表しなかった。
ダイアンが三脚にカメラをセットして、死にかけている自分の姿をとったという噂も流れた。しかし、警官と検視官がかけつけたときには、
カメラもフィルムも見当たらなかった。


叔父のハロルド・ラセックが死体公示所で遺体を確認し、姪がかねてから鬱病で苦しんでいたと証言した。
ニューヨーク市検視官のマイケル・ベイドン博士による解剖の結果、死因は「急性睡眠剤中毒」と断定された。


ガートルード・ネメロフはパームビーチでダイアンが自殺したという知らせを受け、すぐにニューヨークへ出向く手配をした。
ハワードとルネに知らせたのも彼女だった。

リチャード・アヴェドンは、訃報を聞くなり何もかもほうりだして次の便でパリへ飛び、自分の口からドゥーンに母親の死を告げることにした。


ウェストベスでは、ダイアンの自殺をめぐってさまざまな憶測が乱れとんだ。そして、
入居者のあいだでは誰がダイアンのアパートへ入るかをめぐって数人の芸術家がいさかいをはじめた。
「この建物ではいちばん広いアパートだったからな」と、ある劇作家は言う。「おまけに眺めもすばらしい」


ダイアンの葬儀は八十丁目のマディソン・アヴェニューにあるフランク・キャンベル葬儀社で行われたが、参列者は少なかった。
友人の多くは避暑に出かけて留守だったし、通知を受けなかった人もいた。八月一日付の『ニューヨーク・タイムズ』に簡単な死亡告知が出たが、
その他の新聞と、『タイム』、『ニューズウィーク』、『ヴィレッジ・ヴォイス』といった雑誌が死亡記事を掲載したのは、
八月五日になってからだった。


(「炎のごとく」 パトリシア・ボズワース 名谷一郎訳 文藝春秋)



ダイアン・アーバスの死(1) グロスマンの証言

七月十日は週末で、ダイアンはナンシー・グロスマンとアニタ・シーガルが住んでいるロフトを訪れた。「日曜日の午後でした。
ダイアンはひどく取り乱していました」とグロスマンは語っている。「ダイアンが『わたしたち、町をあさっていたのよ』と言うので、
マーヴィンと町を歩いていたのかと思いましたが、マーヴィンは一緒ではなかったのです。ダイアンはアニタとわたしのところにずっといて、
暗くなっても帰ろうとはしませんでした。


マーヴィンとは十二年もつきあってきたけど、会えないことが多く、彼の生活から締め出されているようで、
とても暗い気持ちになると言いました。夏にはいつも元気がなかったけれど、この夏もひどい状態でした。
マーヴィンの生活から締めだされていることに漠然とした怒りを感じ、すっかりとおちこんでいました。


ダイアンはとめどもなく涙を流しながら、くどくどマーヴィンの話をしたかと思うと、今度は仕事のことにふれ、
仕事によって何も得るものがないと言ってまた泣くのです。『仕事はもう何の役にもたたない』ということでした。
何ヶ月もかけて精神薄弱者の撮影にうちこみ、そのために精も根もつきはてるほどの思いをしたあげく、写真はよくない-
とても手に負えないのだ。この被写体には昔のように迫ることができなかった-これは自分にとって新しい対象なのだ。
現像してコンタクトをつくったが、プリントはしていない。急にどうでもよくなったのだと言い、『仕事はもう何の役にもたたない』
と繰り返しました。話を聞いているうちに、これは芸術家の身に起こる最も恐ろしいことにちがいないと思いました-
発見する意欲を失ってしまうことです。突然、何のいわれもなく、自分の作品から何も感じられなくなり、
そこから何も得られなくなるというのはどういうことでしょうか? 彼女の気持ちをひきたてようとして、
新聞を切り抜いて集めている一番新しい写真を見せましたが、まったく興味を示しません。そのうちに、ダイアンはアニタの膝に坐り、
こんどはアニタが慰めようとしましたが、ダイアンはただ泣くばかりでした。そして、こう言うのです。『二人とも好きよ。
あなたたち二人と寝られたらどんなにいいかと思うわ』。およそその場にふさわしくない言葉でした -ひどい暴言です-
 わたしは愕然としました。アニタとわたしは愛人同士ではなかったし、これまでもそういう関係ではなかったのです。
それに二人ともダイアンと性的な関係をもたなかった-そもそもどんな女性ともそういう間柄になったことはありません。
わたしたちはダイアンとは三年ごしの友人でした。よく顔をあわせていたし、とても親しくしていたけれど、
わたしたちのあいだにセックスは介在していなかったのです。いまにして思えば、ダイアンがあのとき望んでいたのは慰めだったのです。
くつろげる場を必要としていたのです。ちょうどロースト・チキンをつくっていたので、焼きあがったところでダイアンにごちそうしました。
ダイアンは何日も食べていなかったみたいにがつがつ食べました。そのあとで、また気が滅入ってしかたがないと言い、
さらにこの前のハンプシャー・カレッジでの講演の話になりました。写真家であるとはどういうことなのかを説明しようとしたそうです。
写真家は人間の魂をとらえることができる、だからこそ写真はとても不吉で神秘的なのだ、と。それから、どうしたはずみか、ニュー・
スクールで教えていたときの経験を思い出して、こんな話をしました。教室で授業をしている最中に生理がはじまって血が脚を流れ落ちた時、
『なんてすばらしい』と思ったというのです。ダイアンは生理を迎えるのが好きだったんです! 生理を喜び、生理痛を歓迎し、
出血を歓迎したのです-そのときは何かを感じ、無感覚ではなくなったそうです。思春期になってから、あらゆるもの-コーテックス、モデス、
タンポンなど-を試したと言いました。レクソールズ薬局で買った新製品まで使ってみたそうです-小さなコップのような形をしていて、
それで血を受けるのだそうです。そんな話をしながら、ダイアンは生理になった時の気持-自分が成人した女であることの喜びと誇り-
を思い出して楽しんでいるいるようでした。あとで、もっと気分が落ち着いてくると、ダイアンは画用紙に手型を押しました。
(いまでもそれをもっています。)わたしも手伝いました-ダイアンは掌紋を取ろうとして指をしっかり押しつけました。やっと帰るときには、
顔色こそ青白く疲れているようでしたが、それでも少しは気分が軽くなったと言っていました。ダイアンとは、これが最後になりました」


(「炎のごとく」 パトリシア・ボズワース 名谷一郎訳 文藝春秋)



2007/04/06

クンデラと亡命文学

クンデラの存在がフランスで知られるようになった70年代前半は、いわゆる〈東側の反体制作家〉が脚光を浴びた時期だった。
本人の度重なる否定と抗議にもかかわらず、クンデラもまたそのグループに一括され、「チェコのソルジェニーツィン」などと呼ばれていた。
だがクンデラには、ソルジェニーツィンとは決定的に異なる不利な条件があった。言語の問題である。
国外に何千万ものロシア語人口がいるソルジェニーツィンには、
ソ連を追放されアメリカに亡命しても使用言語を代える必要などなかったのにたいして、人口千五百万程度のチェコ国内で発禁であり、
しかも国外にはその小国の「奇妙な言葉」を解する人々はごく少数しかいない。そこで、フランスに亡命直後の彼にとって、
翻訳が死活的な重要性をもってきた。しかもふたつの次元と射程において。


そのひとつは同国の読者ではなく、とりあえず異国の読者を念頭に置いて書かざるをえなくなることだ。まず彼は、外国語、
異文化に翻訳可能なことしか書けなくなる。つまり自己の文学を「国民という小コンテクスト」を越えた、
より大きなコンテクストのなかに位置づけることが不可欠になるのだ。彼はそれを、「西欧」と「東欧」しか認めない当時の政治・
イデオロギー的観点では現実に存在しない「中欧」に、すなわちカフカ、ムージル、ヘルマン・ブロッホ、ゴンブローヴィッチらが形成する
「中欧の文化的コンテクスト」に置こうとした。偶然というべきか、必然というべきか、カフカを除く他の小説家たちはいずれも亡命経験をもち、
しかもカフカをふくめて全員が〈一国家=一国民=一言語〉という近代国民国家の原理に違反する作家たちであった。彼は長い模索の果てに、
『笑いと忘却の書』によって、同じテクストのなかに物語、自伝、哲学的なエッセーといった複数のジャンルを共存させ、
それに超国民的な言語である音楽の様式(変奏曲形式)によって統一性をあたえるという独特の小説作法を開始してみせた。
伝統的なジャンルの境界を越えるこのような小説の語りを、彼はムージルやブロックとの時代を超えた対話から学び、
それをみずからの音楽的経験の土壌のうえに移植、育成し、『存在の耐えられない軽さ』を経て『不滅』に至ってほぼ完成させたのである。
私たちは『笑いと忘却の書』『存在の耐えられない軽さ』『不滅』の三つの小説を読むことにより、国境を越えることがまた、
いかに異なるジャンル、表現形式、地理的・歴史的空間、さらには(たとえば夢と現実といった)諸々の生の領域を越え、
自由に往来する可能性を開示するものか、きわめて具体的かつ感動的に体験することができるだろう。クンデラが亡命という「状況の不利」を
「自分の全力、芸術家としてのあらゆる策術を動員して切り札」に変えた、これがその一例である。おそらく、
この間の事情にもっとも見事に説明してくれるのが、アメリカに移住したパレスチナ人批評家のエドワード・サイードかもしれない。
たぶんクンデラは知らないが、サイードはこう言っている。


「亡命者になれば、これからはずーっと周辺的な存在である。亡命知識人の場合はあらかじめ決められた道をたどることができないため、
自分でおこなうことすべてを、ゼロからはじめねばならない。このような運命でも、それを喪失とか悲嘆すべきものとして受けとめるのではなく、
一種の自由として、あるいは発見のプロセスとして受けとめ、さまざまな関心事に心が誘われるまま、また特定の目標を自分で設定しながら、
自分のペースですすむことになれば、不幸な運命が転じて、唯一無二の喜びとなることうけあいである」


翻訳をめぐってクンデラが遭遇した第二の問題はもっと基本的というか、ある意味ではもっと深刻な問題である。『笑いと忘却の書』
発売後、哲学者アラン・フィンケルクロートに「『冗談』の華麗でバロック的な文体がこの作品では簡素で清澄な文体になっていますが、
どうしてこのような変化が生じたのですか」と尋ねられ、「華麗でバロック的な文体」などで書いた覚えがまったくないクンデラは驚く。そして、
フランス語訳の自作をはじめて読んでみて、その小説が「翻訳されたのではなく、書き直されていた」という「笑い」も「忘却」
もできない事実を確認して深刻な衝撃をうける。してみれば、自分がフランス、西欧でそれなりに評価されたのはこんな誤訳、
誤解に基づいてなのだろうか、と彼が考えたとしても無理はない。まして、
感性的にも審美的にもソルジェニーツィンは復古主義者でクンデラはモダニストと、それだけをとってもまったく対極にあるはずなのに、
フランスでは「チェコのソルジェニーツィン」というレッテルは80年代になっても依然として彼から外されたわけではなかった。
彼は歴史的に西欧のエゴイズムの犠牲になった小国の、そのまた犠牲者として、いくらかの後ろめたさを伴った同情とともに称賛され、
望外の敬意を払われながらも、その称賛、敬意に必ずしも居心地のよさだけを覚えるわけにはゆかなくなった。いやむしろ、
称賛されればされるほど、敬意を払われれば払われるほど、それだけますますその称賛と敬意の真実性を疑わざるをえなくなってくる。
そこで80年代の彼は、自作の小説のイデオロギー・政治中心主義的解釈に反駁して、その審美的意図、
実存的意味を擁護する発言を繰り返すとともに。「作品を書くより、書いた作品の翻訳を見直し、改訳する活動により多くの時間を費やす」
ことで、そんな不当で、傲慢なまでの誤解、誤訳からみずからのアイデンティティを奪還しようとせざるをえなかった。


(「亡命文学と言語の問題」 西永良成)



2007/04/05

ひとびとを集めるのは悲集成

優れた小著「無知な先生」(The Ignorant School Master,trans,Kristin Ross.)
においてジャック・ランシエールはひとびとをあつめるものは集成あるいは集団性ではないと主張している。その反対に、


「お望みならば、真理が集めるといってもよい。だが、ひとびとを集めるもの、ひとびとを結び付けるものは、非集成なのだ。
人々が結び付くのは彼等がひとびとだからである、つまり、ひとびとがお互いにはなれた存在だからである。言語は彼等を結び付けない。逆に、
言語の恣意性こそが彼等に翻訳を強いることによって彼等に伝達するよう努力させる。と同時に、
言語の恣意性は彼等を知性の共同体のなかに置くことになるのである。」


(「多言語主義と多数性」 より脚注(7) 酒井直樹)



実践としての社会関係に関する問いとしての多言語主義

ここから抜け落ちているのは「標準英語」
を習得できないとされる黒人の児童が彼ら以外の人々とどのようなあらたな社会関係を作ってゆくのか、あるいは、「標準英語」
を身に付けていると考えている「典型的国民」が如何にしてこうした黒人とあらたな関係を刻印できるか、といった、
より実践に結び付いた問いなのである。アメリカ合衆国に現存する社会条件を考えれば、いわゆる個人の児童が「標準英語」
を習得できるかどうかという問いは、将来彼らが飢えずに生きられるかという問いに結び付いている。飢えの問題は共役性の問題である。


敷衍して考えれば、ここで問われているのは、非共役性が予想される場面で、ひとは、
いかにして非共役性を超えるための実践を企画できるのか、なのである。まず、相手が何を言っているのか分からない。
どうやって相手に自分のやりたいこと伝えたいことを分からせたら良いのか分からない、という事態があり、
その説明として多言語状況が持ち出されてくるのであって、非共役性の状況へのこうした政治的な感覚を持たないとき、
多言語主義は欺瞞的なヒューマニズムの談義に終始するか、均質なコミュニケーションの保証された「われわれ」
を前提する国語主義への回帰に終わるだろう。そして、まず最初に出会わなければならないのは、
そのようなコミュニケーションの保証のない状況において、人は何をするかという、問題であろう。多言語主義は、なによりもまず、
実践としての社会関係に関する問いとして現出せざるをえない。


非共役性の状況で、まず私たちが行わなければならないのは、そのように共通の基盤に立たない人あるいは人々に向かって、
語りかけること、あるいは、接近し何らかの交流の意思を差し示すことであろう。それは呼びかけであり、
他者に向かって自分の意図を届けるための一定の構えを採ることである。それは自らの発話に宛名(アドレス)
を記入することであると同時に一定の他者に向かってあるいは一定の他者を目指して自からを提示することである。


(「多言語主義と多数性」 酒井直樹)



多言語主義と多数性

言語を可算名詞として考え、
数えられる統一体として捉えられた言語が複数並存する状態を想定することから多言語主義の考察を始めてはならない点は、あらためて、
確認しておかなければならない。この点は、すでに多文化主義の文脈でも私が何度か論じてきた主題にかかわっており、
多文化主義や多言語主義の多数性や複数性を、単純な加算的な統一体の複数の並存と考えるや否や、
ここでいわれている多数性の持つ政治的な意義が見失われてしまうように思えるのである。と同時に、英語、フランス語、日本語といった具合に、
各々の言語を名詞として指定することができるために、世界には言語の名前の数だけの言語が存在し、
世界はこれらの言語の複合体であるかのように理解するのを避けることは非常に難しい。雑種やクレオールを賛美するのはよい。
だが雑種性を理解するときの概念の動きそのものまで干渉し、
最も卑近な文脈でも雑種性を考える仕方そのものを方法論的に絶えず検証し変更してゆかない限り、雑種やクレオールの賛美は、
政治状況が変われば、純血性の賛美へと結局回帰してしまうだろう。


「日本文化の重層性」といった修辞に現れているように、
文化や人種の同一性を強調する議論は必ずしも雑種性を拒絶してきたわけではなくむしろ雑種性を横領し同一性の力学の契機としてきたからである。
だから、雑種性を同一性に横領できないような形で考え抜くことが、多言語主義をめぐる議論ではまず初めにある課題であると私は考えている。


(「多言語主義と多数性」 酒井直樹)