2007/04/08

ダイアン・アーバスの死(2) その経緯

七月二十六日、アポロ十五号の宇宙飛行士が月に向けて打ち上げられた。シャーリー・クラークは、
ウェストベスの屋上にカメラを据えつけ、記録映画を撮ろうとしていた。全国のテレビとラジオが報じる打ち上げのニュースが耳についた。
「そのとき、これといった理由もなく、ダイアンの姿が心に浮かびました。彼女に電話すべきだと思いました-電話をしなければならない-
あの人はこの建物にいるのだから、と」


その日の朝、ダイアンは、カンディンスキーのデスマスクの写真をアンドラ・サミュエルソンの部屋の扉の下からすべりこませた。
アンドラに頼まれていたものだったが、ダイアンは彼女が在宅かどうかを確かめなかった。


そのあとで、ダイアンはピー・フェイトラーとラシアン・ティールームで昼食をとった。バッド・オーウェットから仕事の依頼を受け、
『ニューヨーク・タイムズ』の広告写真を撮ることになっていたが、オーウェットによればダイアンを見かけ、
彼女のテーブルへ行ってしばらく仕事の話をしたという。


その後、写真家のウォルター・シルヴァーもダイアンと通りで出会った。「撮影用の遮光幕をもっていた。風邪をひいたということだった。
ニューヨークを引き払ってどこかへ引っ越そうかと思っているなんて言うので、『冗談だろう』と言ってやった」


七月二十七日、ダイアンのアパートでは電話が鳴りつづけていた。ピーター・
シュレシンジャーがその週の後半に予定していた写真のシンポジウムの出席の確認をしようとして、何度も電話したのである。マーヴィン・
イズラエルも何度か電話をかけたが、応答がなかった。七月二十八日、イズラエルはウェストベスへ出かけていった。


そして、イズラエルは、ダイアンが死んでいるのを見つけた。両手首を切り、空の浴槽に横たわっていた。
ブラウスとスラックスを身につけていたが、遺体はすでに「腐敗がはじまっていた」。机の上に開いたままになっていた日記は、
七月二十六日で終わっており、「最後の晩餐」と走り書きされていた。


遺書らしいものは見つからなかった。リゼット・モデルはダイアンから手紙を受け取ったと言っているが、その内容を公表しなかった。
ダイアンが三脚にカメラをセットして、死にかけている自分の姿をとったという噂も流れた。しかし、警官と検視官がかけつけたときには、
カメラもフィルムも見当たらなかった。


叔父のハロルド・ラセックが死体公示所で遺体を確認し、姪がかねてから鬱病で苦しんでいたと証言した。
ニューヨーク市検視官のマイケル・ベイドン博士による解剖の結果、死因は「急性睡眠剤中毒」と断定された。


ガートルード・ネメロフはパームビーチでダイアンが自殺したという知らせを受け、すぐにニューヨークへ出向く手配をした。
ハワードとルネに知らせたのも彼女だった。

リチャード・アヴェドンは、訃報を聞くなり何もかもほうりだして次の便でパリへ飛び、自分の口からドゥーンに母親の死を告げることにした。


ウェストベスでは、ダイアンの自殺をめぐってさまざまな憶測が乱れとんだ。そして、
入居者のあいだでは誰がダイアンのアパートへ入るかをめぐって数人の芸術家がいさかいをはじめた。
「この建物ではいちばん広いアパートだったからな」と、ある劇作家は言う。「おまけに眺めもすばらしい」


ダイアンの葬儀は八十丁目のマディソン・アヴェニューにあるフランク・キャンベル葬儀社で行われたが、参列者は少なかった。
友人の多くは避暑に出かけて留守だったし、通知を受けなかった人もいた。八月一日付の『ニューヨーク・タイムズ』に簡単な死亡告知が出たが、
その他の新聞と、『タイム』、『ニューズウィーク』、『ヴィレッジ・ヴォイス』といった雑誌が死亡記事を掲載したのは、
八月五日になってからだった。


(「炎のごとく」 パトリシア・ボズワース 名谷一郎訳 文藝春秋)