2007/04/10

《それはかつてあった》

最初に、方法について述べると称して気軽に指摘しておいたこと、つまり、あらゆる写真はその指向対象(被写体)
に対していわば共同自然的であるということが、ふたたび、いや新たにと言うべきか、映像の真実性を通して言えるということを私は発見した。
それゆえ、いまや二つの声を混ぜ合わせてみることに同意しなければならない。つまり、平凡な事実の声
(誰もが見て知っていることを述べること)と、特異な事実の声(その平凡な事実を、私だけのものである感動の力をつくして離礁させること)
である。それはあたかも、不定法をもたず、一つの時制と一つの除法においてしか変化しない、ある動詞の本性を探し求めるのに似ていた。


私はまず、「写真」の「指向対象」が、他の表象=再現の体系のそれと、いかなる点で異なっているのかを正確に理解し、したがって、
できうべくんばその点を(たとえそれが単純な事柄であっても)正確に述べるようにしなければならない。私が《写真の指向対象》と呼ぶものは、
ある映像またはある記号によって指し示されるものであるが、それは現実のものであってもなくてもよいというわけではなく、
必ず現実のものでなければならない。それはカメラの前に置かれていたものであって、これがなければ写真は存在しないであろう。絵画の場合は、
実際に見たことがなくても、現実をよそおうことができる。言説は記号を組み合わせたものであり、
それらの記号はなるほど指向対象をもっているが、しかしその指向対象は、たいていの場合、《空想されたもの》でありうるし、
また事実そうである。絵画や言説における模倣とちがって、「写真」の場合は、事物がかつてそこにあったということを決して否定できない。
そこには、現実のものでありかつ過去のものである、という切り離せない二重の指定がある。そしてこのような制約はただ「写真」
にとってしか存在しないのだから、これを還元することによって、「写真」の本質そのもの、「写真」のノエマと見なさなければならない。
私がある一枚の写真を通して志向するもの(映画についてはまだ語らないでおこう)、それは「芸術」でも「コミュニケーション」でもなく、
「指向作用」であって、これが「写真」の基礎となる秩序なのである。


それゆえ、「写真」のノエマは名は、つぎのようなものとなろう。すなわち、《それは=かつて=あった》、あるいは「手に負えないもの」
である。ラテン語で言えば、それはおそらく《interfuit》ということになろう
(ラテン語を使えばさまざまなニュアンスが明らかになるのだから、これは必要なペダンティスムというものである)。つまり、
いま私が見ているものは、無限の彼方と主体(撮影者または観客)とのあいだに拡がるその場所に、そこに見出された。
それはかつてそこにあった、がしかし、ただちに引き離されてしまった。それは絶対に、異論の余地なく現前していた、がしかし、
すでによそに移され相違している。intersumという動詞には、まさにそうした意味がすべて含まれているのである。


写真の日常的な氾濫と、写真が呼び起こしているように思われるさまざまな形の関心のため、《それは=かつて=あった》というノエマは、
抑圧されることはない(ノエマは抑圧されえない)としても、わかりきった特徴として無関心に生きられるおそれがある。「温室の写真」は、
まさにそうした無関心から私の目を覚まさせたところであった。普通は事物の存在を確認したのち、それが《真実である》と言うはずであるから、
私の場合は逆説的な順序に従ったということになるが、私はある新しい経験、強度というもの経験の結果、映像の真実性から、
その映像の起源にあるものの現実性を引き出したのだ。私は独特な感動のうちに真実と現実とを融合させたのであって、いまや私は、そこにこそ
「写真」の本性-精髄があるとしたのである。なぜなら、絵に描かれた肖像は、いかに《真実》に見えようとも、どれ一つとして、
その指向対象が現実に存在したという事実を私に強制しえないからである。


(「明るい部屋」 ロラン・バルト 花輪光訳 みすず書房)