2007/02/28

ベッヒャーの無人世界

超越論的主体の場所、無人風景はこの境位で現れる。それは私と世界に先立つ、非人称的な風景であり、そこにおいて人間は何も見ない。
見るのは風景である(セザンヌ)。無人の「風景」に現れているのは「私」と「世界」(複数形)のあいだの「境界」に「潜在」するものである。
この潜在性・中間性をどのように理解するかが問題となる。これは、写真は何を表現するのかという問題でもある。


無人風景の中間性の第一の理解は、汎神論に接近する。例えば、我々は光そのものを見ることは出来ないが、
偏在する光によって映像を見ている。同様に、我々は質量=物質をその形式(現在態)において認識しているが、物質そのもの(可能態)
を認識することは出来ず、このとき物質とは先天的諸形式の彼方の物自体というよりは、むしろ光のような偏在である。
世界を構成するあらゆるものの存在は、そのままmでは見ることが出来ない。だから問題なのは、水蒸気を水に、水を氷にするように、
それ自体としては不可視のものを目に見えるようにするレンズであり、偏在する物質そのものを映像化するフィルター、つまり、ブレヒトの
「方法」なのである。


この場合、写真には物質の存在感(物の瑞々しい存在感)が表現される、と言うべきなのだろう。そしてその存在感に、さまざまな要素
(例えば歴史や記憶)を連携させ、こうして人は写真を雄弁さで覆い隠す。しかし、たとえこの偏在が、
何か包括的な全体集合ではなくおのおのの存在者への内在であるとしても、これはまさしく神秘主義(汎神論)と言うべきである。
あらゆる記号性の彼方で、宇宙は神(魂、存在、カオス、アウラ)に満たされている。魂はあらゆるものに宿っており、
芸術家の秘蹟によって顕現する、というわけなのだから。


中間性の第二ヴァージョンは反転したイロゾイズムIlozoism(物質生命論)である。イロゾイズムでは、
物質から離脱したり物質へ宿ったりする「魂」を認めず、おのおのの物質は独立して生きていると考える。
人間の生と自然の生は独立した二つの生命であり、さらにある物質の生と別の物質の生は独立した二つの流れである。この考えを反転させると、
すべての生の流れの外にある世界が現れる。そこにおいて、あらゆる生の流動が遭遇し、融和し、また崩壊するような真空地帯。例えば、
人間というシステムという自然というシステムが浸食しあう場所、それはビュスタモントやボルツの、
無表情な無人の風景に相当するかもしれない。ここにはなるほど神秘的な深みのようなものはない。無人風景は、
時間と空間をすり抜けて単に存在し続けるだけの、感動とも絶望とも無縁な宇宙の退屈な有り様にすぎない。定義上、全ての思考可能性、
知覚可能性をすり抜けるこの世界は、人間には絶対的に無関心であるから、「非人間的」でも「無機的」でもない。
原子核と一番内側の電子雲のあいだに広がる距離のように真抜けてはいるが、人を発狂させるには充分なほど絶対的に愚鈍である。


(「白と黒で 写真と・・・・・・」 清水穣 現代思潮新社)



2007/02/24

写真は「言葉にできないもの」「映像にできないもの」の実在を抹消する

いかなるテクノロジー(眼も含めて)によって不可視なものは、例えば思考できるものである。いかなるテクノロジー(脳も含めて)によって思考できないものは、もしかすれば聴取できるものである。さらに全ての思考可能なもの、感覚かのうなものの外部は、任意の他人の思考や感覚にとっては外部ではない。思考や感覚はさまざまな密度と速度の様態をとり、
しかも人間は単独で生きているのではないのだから、これは脱力するほど当たり前のことである。しかしこの当たり前のことが、記号的なものに先立ちその外にある、豊かな「存在」への潜行も、絶対的に貧しい砂漠の彷徨も否定する。つまり、写真は「言葉にできないもの」「映像にできないもの」の実在を抹消する。

Es denkt es blitzt,es sieht. この「es」は超越的なメタレベルでもなく、神秘的な深淵でもなく、異なる複数のもののあいだであつことにすぎない。上で述べたように、我々の日常感覚がすでに横断的なあり方をしている以上、写真は意識化の無意識を写し出したりはしないし、知覚の外部をなす即物的な世界の存在を露出させたりもしない。様々なスタイル(引き算・わり算の構成、モンタージュ)によって写真が表出するものは、あるレベルの知覚と別の知覚が遭遇したときの差異と落差だけなのだ。
この落差がメディアのもう一つの力、すなわち特殊な均質化によってますます困難になっているのは本当である。しかし、写真にもし存在論があるとすれば、その「存在」とはこの差異と落差のことである。というのも、その落差が我々に与える衝撃だけが我々の生を形成し、そのつど一つの個体を痕跡として焼き付けていくからである。

(「白と黒で 写真と・・・・・・」 清水穣 現代思潮新社)

2007/02/23

写真の素朴なリアリズム

上の話は、それをさっと読んでしまえば、多くの写真家にはわかりやすい。写真は「撮る」ものではなく「撮れる」ものだ、
という言い方は、彼らにはごく常識のはずである。そしてこの常識は、人間の主観とは無縁に存在する(
「私が死んでもそのままであり続けるような」)現実世界、という考えに根ざしている。だが、この考えは疑ってみる必要がある。
いつのまにかそこには引き算・わり算の「方法」が抜けているからだ。そして「現実世界」とここで言われるものの内実が実は曖昧だからである。


ベッヒャーにも近い新即物主義の美学は、できる限り人為を切り捨て、客観的な対象の尊厳をそのまま定着させようとする。
人間は見たいようにしかものを見ないから、信頼できるのはカメラ・アイのみである。
芸術家としてではなく科学者としてありのままの世界に向かい合うために、きわめて単調で一貫した方法が選択され、こうして影も反射もなく、
夾雑物を省き、無表情でシャープなピントの白黒写真が正面から撮られるのである。


けれども、もし人間の目は信頼できずカメラ・アイこそが現実世界を写し出すというのなら、当然、
ブレたりボケたりした写真映像もまた現実的であると言わねばならない。
脳でものを見る人間の連続とした視覚は決してブレたりボケたりしないからである。実際、
ブレとボケは写真が初めて教えてくれた映像の質である。だから、映像のシャープネスに客観性を見てとり、
ブレとボケにむしろ主観的な気分を読むのは単なる美学的主観にすぎない。シャープな写真の方がより現実に接近しているわけではないのだ。
さまざまなフィルターやシャッタースピードによる、世界のさまざまな姿や断面(見たこともない角度から撮影され、
見たこともない精度で再現された世界の姿)の発見は、人間とは無縁に存在し続ける(主観的な人間の目では見られない)「現実世界」
の発見とは、似ているが同一ではない。写真のもたらした衝撃とは、カメラが開示した生の現実というよりも、
カメラによってその現実がヴァリアブルなものに変容したことである。


例えば、印象派が写真から受けた衝撃には種々あるだろうが、もっとも本質的なものの一つは、
人間の感覚システムとはかけ離れた自然界の感覚システムの存在であった。点描は、人工的な技法によって自然のシステムを再現する試みである。
印象派とは、その名称とは逆に、人間の感覚(印象)によって曇らされている自然を露出しようとする。逆の言い方をすれば、写真は彼らに、
人間の知覚に対して差異をもつような感覚世界を開示したのである。また、R・クラウスが言うように、
写真は当然のようにまず文字と結びついた。人間の感覚が知覚する自然の彼方の自然を撮影する写真と、人間の意識の彼方で、
意識から漏れたものを書き留めている文字・・・・・・自動撮影と自動書記は同じものである。印象派にとって、
そしてシュールレアリストにとって写真の衝撃は一貫している。それは暴露である。だが、この暴露は真実の暴露ではなく、
あるものの背後に別のものが潜んでいるという認識であり、全てのものを記号としてみることができる、という発見である。つまり、
そのとき世界は二重化したのではなく、多重化・記号化したのである。


「世界」は記号化し、一つでなくなった。もちろん、「私」もまた、複数化するという点を見逃してはならない。同じ一つの私が、
いろいろな解像度でいろいろな世界を見る、と言うのではない。「世界」とはある解像度と情報レベルの「私」に応じて存在するだけである
(そしてその逆)。解像度と情報レベルの数だけ、「世界」「私」がある。一言で言えば、一つの世界の中にいる一つの私、
という前提が崩れたということである。


もっとも、かつて写真がもたらせたこの衝撃は、現在ではきわめて普通のことではないか。テクノロジー(TV、電話、コンピュータ、
ヴィデオ、CDなど)によって、異なる解像度の「世界」、異なる情報レベルの「私」が一つ一つ具体化していった(いきつつある)結果、
現在の「世界」や「私」は複数の解像度や情報レベル間の落差を平気で横断している。急激なメディアの展開によって我々の知覚は多様化・
多層化し、かなり解像度を下げなければ、もはや統合された知覚の主体などというものは考えることすら難しい
(粒子が粗すぎて遠くから見ないと何が写っているのかわからない印刷写真のように)。
これは何もポストモダンやハイテクノロジーの話ではなく、
例えばテレビをつけっぱなしにし雑誌を読みながら電話で友人と話しつつ何か別のことを考えるとか、
テレビゲームで遊びながらBGMをかけ別のウィンドウで遠く(?)のデータベースを検索するといった日常である。日常ではあるが、
そこで行われていることは、情報や知覚データの無意識的(=バックグラウンド処理)で、同時的な処理(=マルチタスク)なのである。


また、写真作品を、カメラとレンズと印画紙で定義することはもはや不可能であろうし、不可能ではないとしても不毛である。
人が写真と見なすイメージは印刷物、絵画、版画、ヴィデオインスタレーション、CG、アニメーションフィルムにまで拡散し、
しかもそれらのほとんどがカメラ・レンズ・印画紙といった技術から大きくはみ出している。さらに、
さまざまな画像加工ソフトの巧妙さと精度が人間の判断可能性を超えてしまっている以上、写真が、
現実を表象しているという前提はもはや成立しえない。たとえそこに拘ったとしても、
現在の写真表現の分析のためには有効であるとは言えないだろう。素朴なリアリズムを越えて、我々は技術的、
認識論的な前提とは独立に写真の本質にあるのは何か、と問わねばならない。


(「白と黒で 写真と・・・・・・」 清水穣 現代思潮新社)


本引用の冒頭にある「上の話」とは、本引用の前段に引用したタイトルが「所与としての光」の内容となる。(amehare)



所与としての光

建築と音楽の例で始めてみよう。現代の建築の一つの理解によれば、建築とは建物を組み立て建造する(建築家=作る人。メーカー)
こととは違う。それは交通、物、人、情報など、さまざまな密度と速度で流れる社会的な流動を操り、制御する空間的時間的な装置である。
しかも建築家は防波堤でも築くようにして流れを抑止するのではない。無意識と関わる存在の常として、そうした社会的流動は背後から、
しかも遅れて来るものであるから、建築家とはその流れに乗りながら、それをコントロールする人である(建築家=サーファー)。


同じ対立を、音列主義とクセナキスのあいだで見るというより明確になるだろう。
セリエリズムとクセナキスの音楽の根本的相違は聴取可能性にあるのではなく、音楽を作るという行為の考え方にある。前者にとって作曲とは、
構成する(construct)ことであり、足し算・かけ算による思考にある。後者の作曲とは配分する(distribute)ことであり、
そこでは引き算・わり算が思考の方法になる。セリエリストは音を組み立て、まとめあげるが、クセナキスは配分し、散らばらせる。
西洋音楽では、ある限定された数の単位がもとになって、そこから多くの派生体が(足したりかけたりして)形成され、
それらが展開されてくる過程で有機体に組み合い、一つの音楽作品を構築する。反対に、クセナキスにとって宇宙は既に音で満ちている。
わざわざ組み立て、構成する必要はない。


世界は所与として音がある。だから、その音=世界を適切に分割、配分し、篩にかければそれが音楽になるのだ。人間、植物、昆虫、
鉱物は等しく音であり、篩の目や配分の度合いによって異なった音楽になる。世界は所与として流動である。だからその流動を適当に制御・
配分すれば建築になる。世界は所与として光である。だからその光に適当なフィルターをかけ、切り取って映像にするだけでよい。
写真は撮るものではなく、写真は撮れるのである。


(「白と黒で 写真と・・・・・・」 清水穣)



Wikipediaから引用「クセナキス」

ヤニス・クセナキス

(ローマ字:Iannis Xenakis、英語圏の発音ではゼナキス、日本語の文献ではイアニス・クセナキスとも、
1922年5月29日 - 2001年2月4日)は、ルーマニア生まれのギリシャ系フランス人の現代音楽作曲家。


建築と数学を学んだ後第2次世界大戦中にギリシャ国内で反ナチス・ドイツのレジスタンス運動に加わるが、負傷して片目を失い、
逮捕され死刑を宣告される。しかし何とか脱出しフランスへ亡命した。以後その生涯の大半をフランス国内で過ごす。


その後建築家ル・コルビュジエの下で働き、建築家として1958年のブリュッセル万国博覧会でフィリップス館を建設する。
このフィリップス館ではエドガー・ヴァレーズの大作電子音楽「ポエム・エレクトロニーク」が演奏され、
後に自作の電子音楽を大規模施設で上演する際の参考となった。


その一方で作曲を学び、パリ音楽院でオリヴィエ・メシアンらに師事する。このときメシアンに「君は数学を知っている。
なぜそれを作曲に応用しないのか」と言われ、その慧眼に強い霊感を受ける。そして数学で生み出されるグラフ図形を元に、縦軸を音高、
横軸を時間と見做し音響の変化を綴る形で作曲したオーケストラ曲「メタスタシス」を1954年に作曲し、
ドナウエッシンゲン音楽祭で鮮烈なデビューを飾る。「メタスタシス」は3部よりなる管弦楽曲「アナステナリア」
(1952-54)の第3曲目であるが、あまりに作風が他とかけ離れて先鋭的であるため、これを独自に作品1とした。


その後も数学の論理を用い、コンピュータを使った確率論的手法(「ピソプラクタ」より採用)で多くの斬新な作品を生み出した。
日本の作曲家・ピアニスト高橋悠治の協力を得て、室内楽や独奏でも「エオンタ」や「ヘルマ」など初期から優れた作品を発表したが、
しかし特に管弦楽曲や電子音楽など多くの音群を自在に扱うことのできる分野でもっとも手腕を発揮した。中期の2つの傑作、
会場内に奏者がランダムに配置される管弦楽曲「ノモス・ガンマ」と、照明演出を伴う電子音楽「ポリトープ」(クリュニー、
モントリオールなどいくつかの版がある)で、彼の作風は一つのピークを迎える。日本の大阪万博では、「ヒビキ・ハナ・マ」(響き、花、間)
(1969年)という日本語の題を持つ多チャンネル360度の再生装置を伴う電子音楽を発表した。


その後作風は変化し、「メタスタシス」
以前の習作に見られるギリシャの民謡に基づくアイデアを混合させた作品を手がけるようにもなった。この分野の代表作では音楽劇
「オレステイア」(1965年)、「アカンソス」、「夜」等がある。
1970年代の作品では方眼紙を用いた直感的なグラフ作法と天性のバルカン半島的な韻律に基づき、
室内楽作品を中心に聴き応えのある作品が多い。


また電子音楽の作曲用コンピュータとして、ペンとタブレットで線形を描くと音響として反映されるUPICを1985年に開発した。
当時としては斬新な技術であり、グラフがそのまま音楽になるこの装置は、グラフィカルな作曲方法をとる彼ならではの発想といえる。
同じくグラフィカルな作曲を行う湯浅譲二もこのUPICを使用し作品を生み出している。


近年Timpani社からのリリースによって全貌が明らかになってきているのが、晩年の管弦楽曲の創作軌跡である。
ギリシャの韻律をそのまま転写したかのような平板なリズムに、クラスター状の音塊をモノリズムで動かすという大胆な癖のある音色に固執した。
「デマーシャイン」ではメロディーを常に半音重ねにしてあるために、凶悪とも言えるノイズィな音色へ傾斜してゆく。「キアニア」では
「ホロス」や「アケア」等の自作の引用なしでは筆が進まなくなっており、圧倒的な大音量の割には聴覚の飽和状態を生み、
技法の手詰まりを感じさせる[要出典]。


生涯を通じて多作であり、現代作曲家としては委嘱や演奏に恵まれた数少ない例といえる。晩年は京都賞を得て来日もしたが、
既に執筆原稿は高橋悠治の校正なくしては読めるものにはならず、徐々にアルツハイマー型痴呆症に冒され作曲が困難となった。
1997年に書いた作品に「オメガ」(ギリシャ語の最後の文字)と題名をつけ作曲行為に自ら終止符を打ち、2001年にその生涯を終えた。


作品はサラベール社より出版されている。唯一の公称の弟子にパスカル・デュサパンがいる。


妻のフランソワーズ・クセナキスは作家。最近作のRegarde, nos chemins se sont ferme's(見よ、
我らの道々は閉じられている)は、夫ヤニスの晩年の闘病記を元にした私小説である。


(Wikipedia 「ヤニス・クセナキス」から)



2007/02/22

退屈の類型

退屈の類型学にはさまざまなものがある。たとえば、クンデラは三つのカテゴリーに分類し、興味を失ってあくびをするときのような
「受動的な退屈」と、余暇の活動にふけるときのような「積極的な退屈」、若者が車やガラスを割るときのような「反抗的な退屈」に分けている。
この類型学は、僕から見るとあまりためにならない。人は退屈に対して受動的か積極的かと言っているだけで、これらさまざまな形の、
質的な違いについては何も光を当てていない。


僕はそれよりも、退屈を四つのタイプに分類するマルティン・デーレマンの方を撰びたい。その四つとは、

(1)状況の退屈-誰かを待っているとき、授業中、列車に乗っているときのような退屈、

(2)飽和の退屈-同じものがありすぎて、すべてが平凡になるとき、

(3)実存の退屈-魂に中身がなく、世界が空回りするとき、

(4)創造の退屈-中身より結果で特徴づけられるもので、たとえば何か新しいことをしなければならないと自分に強いるとき。


この分類は、現実的には漠然としているが、筋は通っている。


ギュスターヴ・フローベル(1821-80)は、「万人共通の退屈」と「現代の退屈」に分類しているが、簡単に言えば、
これは僕の言う「状況の退屈」と「実存の退屈」の分類と同じである。しかし、フローベルの小説に出てくる人物の退屈を分析し、
この二つの分類に当てはめるのはそんなにやさしいことではない。「ブヴァールとペキュシェ」(1881)の主人公たちを襲った退屈は、
「万人共通の」ものなのか、それとも「現代の」ものなのか。二人が具体的な障害にぶつかって退屈するときは「万人共通の」で、
宇宙と地球上に存在するすべてのものについて非常識な勉強にふけりたいと思うのもそうだが、退屈が彼らの実存の中心部に達すると「現代の」
にもなるのだろう。それでも僕は、彼らは二人とも「万人共通の」退屈に苦しんでいると言いたくて仕方がない。一方、「ボヴァリー夫人」
(1857)のエマ・ボヴァリーの退屈ははっきりとした対象-この場合は性欲-があるものの、僕にはむしろ「現代の」に見える。
状況の退屈と実存の退屈を区別するには、前者はなにか確かなものに到達したい、手に入れたいという欲望があるのに対し、
後者は欲望だけでも持ちたいという欲望、と言ったところだろうか。


こう見ると、象徴的な様相で外にあらわれるのは状況の退屈だけということがよくわかる。あるいは、もっと正確に言うと、
状況の退屈はあくびやいらいらした動き、手足の伸びなどであらわされるのに対し、実存の退屈は、もっと深く、
外からわかるサインとしてあらわれないか、あらわれたとしても少しなのだ。そして、状況の退屈では、
身体であらわすことによって人は解放されると思うのに対し、実存の退屈では身体的な反応が何もないということは、
単なる意志の動きだけでは克服できないことを暗に示している。もし、深い退屈をはっきりあらわすものについてあげるとしたら、それは、
社会からはみだす、危険をともなう行動だろう。


(「退屈の小さな哲学」 ラース・スヴェンセン 鳥取絹子訳 集英社新書)



意味と情報

情報と意味は同じではない。簡単に言うと、意味は小さな部分を集めてより大きな一つのものになるのに対し、
情報はその反対と言えるだろう。また、情報はデジタルという理想的な形で伝わるのに対し、意味はもっと象徴的な方法で伝わる。
情報は加工処理され、意味は解釈される。そうは言っても、僕たちは意味のために情報を退去させることはできない。
時代に合わせて生きなければならないからで、あらゆる方向から襲いかかる情報の波から選別するしかたを学ばなければならないのである。
現代は、僕たちが自分であらゆる体験をしたいと思っても、そううまくはいかなくなっている。問題はテクノロジーにあり、
僕たちはますます見物人で受身の消費者となり、ますます行動的に参加しなくなり、それが僕たちに意味を不足させている。


ここで僕が思っている「意味」を説明するのは簡単ではない。哲学の意味論では、とくにゴットローブ・フレーゲ(1848-1925)
の研究の延長上に、意味の理論が無数にあり、言語学的表現としての意味を説明している。しかし、僕が言いたい意味の概念は、
もっと広い視点をカバーし、「何か」が「誰か」にとって意味があるという考え方と切り離せない。先述のペーテル・ヴェッセル・ツァプフェは
「悲劇について」のなかでこの概念を一つ一つつなごうとする。


style="MARGIN-RIGHT: 0px">

「一つの行動あるいは人生の別の一断片に意味があるとしたら、それは正確に認識できるのに、
考えとして言いあらわすのは容易ではない。たぶん、そのような行動に駆り立てた善意のほうでいろいろ探らなければならないだろう。
ひとたび目的に達したら、行動はいわば「正当化され」、バランスが取れ、確認され-そして人は落ち着きを取り戻す。」



この定義はちょっとひとひねりされているが、重要な要素を含んでいる。つまり意味は、
主体と世界との関係のあり方に結びついているという点だ(ちなみに僕たちの考え方はツァプフェとは違う。
彼は歴史より生物学に基づいているからだ)。もう一つ、ツァプフェの考え方で僕たちの興味を惹くのは、すべての行動を他の何か-
実体としての人生と照らし合わせている点だろう。この問題についての彼の長い詳述は割愛するが、僕たちが探し求めている、
いや要求していると言ってもいい「意味」は、最終的には実存または形而上学的な意味の問いだということは知っておいていただきたい。
意味はいろいろな方法で探すことができ、さまざまな形で見つけることができる。何か定められたもののなかにあることもあれば
(たとえば宗教の共同体)、これから実現されるべきもののなかにもある(たとえば階級のない社会)。また、
何かの集団であらわされることもあれば、反対に個人のときもある。西洋ではロマン主義期以降、実存の意味はもっぱら個人の範疇に入り、
個人の計画、個人の信じるものを実現して、初めて意味があることになっている。僕が理解する「個人の意味」は、さしずめ「個人の信条」、
または「ロマン主義的」とでも呼びたいところだ。


正しく機能している社会では、人は人生で意味を見いだす。機能していない社会ではそうではない。前近代社会では、
一般に集団的な意味が存在し、それでうまくいっていた。しかし、僕たち「ロマン主義者」には、それは疑わしい。なぜなら、
僕たちもよく民族主義のような集団的な考え方を取りこむことはあるのだが、結局のところ、非常に限定された考え方だと思ってしまうからだ。
もちろん僕たちの人生にはいまでも意味があるが、密度の濃さは失われてしまったようだ。その代わり、情報は枯渇しそうもない。
メディアによって高速でもたらせる情報は、過剰な知識を与え、それには肯定的な面もあるのだが、
やたらとうるさいだけでじつは誰の耳にもはいっていない。「意味」という言葉をもっと広く受け入れてみると、少なくとも言えるのは、
現在の世界には意味がありあまるほどあるということである。みんな文字通り、意味のなかでもたついている。しかし、
この意味は僕たちが探し求めているものではない。退屈で時間が空虚なのは、行動に中身がないのではない。
壁の絵が乾くのを待っているだけでも、その瞬間必ず何かが起きている。時間が空虚なのは、意味が空虚なのである。


(「退屈の小さな哲学」 ラース・スヴェンセン 鳥取絹子訳 集英社新書)



2007/02/21

シュルレアリスムと写真

シュルレアリストの闘士たちの誤ちは、超現実的なものをなにか普遍的なもの、つまり心理学の問題と想像することにあった。
ところがそれはもっとも地域的で人種特有の、階級にしばられ、日付の付いたものであることがわかるのだ。
こうして一番初期の超現実写真は1850年代のものである。


当時写真家たちは初めてロンドン、パリ、ニューヨークの街をうろつきまわり、その素顔の生活の切片を探したのである。
これらの具体的で、独特で、逸話のある(ただしその逸話は抹消されているが)写真-失われた時、なくなった習慣の瞬間-は、重ね焼き、
押え気味(アンダー)のプリント、ソラリゼーションなどによって抽象的で詩的にされたどんな写真よりも、
いまの私たちにははるかに超現実的に見える。シュルレアリストたちは彼らが探求する映像は無意識に由来するものと考えており、
その無意識の内容は忠実なフロイト信奉者と同様普遍的だけでなく永遠のものと想起していたが、
そのために彼らはもっとも荒あらしく心を動かすもの、不合理で同化しにくく神秘的なもの-時間そのものを誤解したのである。
写真を超現実的にならしめるものは、過去からのメッセージとしてのそのあらがしたい哀愁と、社会の階級に関する暗示の具体性である。


シュルレアリスムはブルジョアの不満である。その闘士たちがそれを普遍的なものと考えたということは、
それが典型的にブルジョアである微候のひとつにすぎない。政治学を憧れる美学としては、シュルレアリスムは犠牲者を、
非体制あるいは非公認の現実の諸権利を撰ぶ。しかしシュルレアリストの美学がおだてるスキャンダルは、一般にはブルジョアの社会秩序-
性と貧困によって覆い隠された、あのありふれた秘密にすぎないことがわかった。
初期のシュルレアリストが復権を計ったタブーの現実の頂点に位置づけたエロスは、それ自体社会の階級の秘密の一部であった。
それは計りの両端で繁茂しているように見えながらも、下層階級と貴族階級は生来ともに放蕩者とみなされていたから、
中流階級の人たちが自分たちの性革命をおこなうためにあくせくしなければならなかった。階級はもっとも深い秘密-
金持ちと権力者の尽きない魅力である一方、貧乏人と浮浪者の不透明な堕落なのである。


(「写真論」 スーザン・ソンタグ 近藤耕人訳 晶文社)



2007/02/20

ベトナム戦争、処刑



このとき撃たれたのは誰か? そして撃ったのは誰?

それは明白にわかっている。犯人は南ベトナムの国家警察長官グエン・ゴク・ロアン、撃たれたのはベトコンのバイ・ロップ。だがこの凶行を、よりによって何人かのジャーナリストが目撃していたことが、ロアンにとって運の尽きだった。テレビ班もこの出来事を撮影していた。

しかしテレビ映像がいかに心を揺すぶられる内容であり、いかに恐怖の場面を写していても-深みはなく、心に食い込むこともない。一瞬にして消え去ってしまう。だが写真はわれわれの頭から離れない。この一枚の写真、ロアンがロップを射殺するシーン、撃つほうと撃たれるほうが同時に写っている一枚。

ライフ誌に初めて発表され、世界中でいく度となく掲載されたこの写真はその後、戦争の残酷さをショッキングに示すシンボルとなりベトナム戦争終結に向けて、数個師団にもまさる働きをした。この写真をみて以降アメリカ人は、こういう戦争で「自由のために」命を賭ける価値があるのかと、自問するようになったのである。この犯人の自由のために?

撮影者であるカメラマンのエディー・アダムスを、われわれ取材班はニューヨークに訪ねた。彼の回想を聞こう。

「兵士たちが捕虜を一人連れて、私たちと同じ方向に歩いてきたんだ。記者というのは誰しもこうした、捕虜がどうなるのか、捕虜が連れてこられるような場合には、その先何が起こるか、まず観察するものだ。ふつうは、捕虜が連れ去られるまでずっと見守っている。
あのときは、兵士たちが街角で立ち止まった。途端にやつが現れた。ジープだったと思うが-さっと姿を現したのだ。何が何だかわからなかった。
私は、捕虜からわずか1メートル半ぐらいのところに立っていた。やつがピストルに手を伸ばした。威嚇だろうと思った。そういうことはよくあったからね。でもやつはピストルを取り出すや、次の瞬間には腕を上げていた。私もカメラを上げた。やつは発射した。

あとでわかったことだが、私がシャッターを切ったのは、ちょうど弾が発射されたときだった。そんなこと、あの瞬間にはわからなかった。やつは相手の頭部を撃っていた。ベトコン兵が倒れ込み-ああいうのは見たことがない-血が1メートル以上の高さまで飛びはねた。
私は顔をそむけた、見ていられなかった。撮影などしてしていられなかった。あとになってようやく、遺体の写真を一枚撮った」

(「戦後50年 決定的瞬間の真実」 グイド・クノップ 畔上司訳 文藝春秋)

補足:
ロアン国家警察長官は当時37歳だった。十一人兄弟の長男で、裕福な、とても裕福な南ベトナムの出身。「一番の馬鹿」というのが彼の口癖だったが、実はフランスの三大学を卒業していた。薬学と自然科学と工学を専攻。そして人にこわれて警察入りした。バカどころではない。ベトナム語同様にフランス語をあやつれるし、アメリカを旅行したことがあり、フランスとイタリアを知っていて4人の子供がいる。

現在も(?)アメリカに潜伏している。商売を何回か始めたが全てうまくいかなかった。CIAに友人がいるため、沈黙を守ることにより彼ら一家のアメリカ滞在は延長される。

一方の撃たれたロップの家族、当時妊娠中の妻がいた、は彼がベトコンである事を全く知らなかった。ベトナム戦争が終わり、生計を立てるため苦労するが、1988年にベトナム共産党がロップを英雄とあつかったため、その後の生活はかなり改善された。彼女はアメリカ人を恨んではいないが、ロアンだけは憎んでいる。(amehare)

赤旗を振ったソ連兵

hspace="0"
src=
"http://amehare.lolipop.jp/quotes//media/img_20070220T130651157.jpg"
align="absmiddle"
border="0" />


この写真を撮られた時の状況はどうだったのか?時は1945年4月。ソ連軍は最後の戦闘に向かっていた。
ドイツ帝国の首都ベルリンでの決戦である。そしてソ連戦車二万両にスターリン・オルガン(ロケット砲)、それに重火器が、かつて
「ゲルマンの世界都市」になるはずだったベルリンを攻撃した。街は廃墟と化す。
スターリン軍団が通りという通りで戦いを繰り広げていく一方で、守勢のヒトラー「総統」が「総統防空壕」から指揮したドイツ軍は、
もはや幽霊軍団でしかなかった。4月30日午後、最初の突撃隊が首相官邸を中心とする官庁街に到着し、ヒトラーは自決。


このときが勝利のクライマックスだったのか?いやちがう。なぜなら、民衆は別なシンボルを求めるからだ。神話が必要になるのだ。


われらが「神話」は、ソ連軍モスクワ博物館の二階に飾られていた。戦勝トロフィーが並ぶホールの中央で、それはスポットを浴びている。
いまなお学校の生徒たちは日に何千人と訪れては、それを見て目を見張る。それとは、
当時ドイツ帝国議会議事堂の屋上で振られた伝説の赤旗であり、ヒトラー・ドイツに対する勝利のシンボルなのだ。そしてこれを振ったのが、
勇敢なグルジア人ミリトン・カンタリアであり、彼の足を支えていたのがロシア人ミハイル・エゴロフである。


(中略)


その二つ先の部屋で、公式のソ連映画「ベルリン征服」が「小説」のほうを宣伝している。何人かの赤軍兵が昂然と頭をもたげ、
銃剣を持ち、旗をたなびかせながら、廃墟を駆けていく-この前庭は現在「共和国広場」という名になっている。荘重なナレーションが入って
「これは4月30日の突撃を映したものです」と解説している-だが議事堂をめぐる戦闘は、実際には一回もなかった。そもそも、
何の隠れ場所もない広大な広場であちこちから砲撃を受けているとすれば、兵士たちが頭をもたげ、直立の姿勢で走りながら、
軍旗をたなびかせているはずはない。


兵士たちはそれから議事堂に突撃していく。だがなぜ議事堂に入っていくのか? この、ヴァロット(ドイツの建築家)
の設計になる1894年完成の建物は、周知のように、1945年当時にはすでに空虚な存在だった。ヒトラーが1933年の炎上でまず最初に
「廃墟」にしたのがこの議事堂だったからである。定例の帝国議会などは、いわゆる第三帝国時代に一度も開かれたことがない。
だから厳密にいえば、ソ連兵は、とうの昔に冒涜された民主主義のシンボルの上で、赤旗を振ったのである。映画では例の旗は最後に、
焼け落ちた丸屋根の上でたなびき、ナレーションが次の言葉で全編を締めくくる。

「スターリンの命令は実行されたのです」


では真相は? まずグルジア人のカンタリアとロシア人のエゴロフが撰ばれた理由だが、
それはどうしてもロシア人がその場にいなければまずかったし、「全国民の父」スターリンはグルジア出身だったからである。話の先をどうぞ、
ミリトン?


「われわれの指揮官はシンチェンコ大佐だった。4月30日、そう昼ごろだったな、大佐はわれわれを大声で呼び止めて、こう言ったんだ。
「おい、議事堂に突撃して、旗を振ってこい。それがすんだら、本官のところへ戻ってこい」われわれは実行した。
最初は旗を中央玄関の上の窓から振ってみたが、晩の九時ごろには丸天井の上で振ってみた」


そういうことだったのだ。だがまだ銃撃戦が続いていたし、この4月30日には現場にはまだ、
カメラマンや映画の撮影技師などは一人もいなかった。あの映画は、ベルリンが陥落したあとに、見栄えを考慮して作られたのである。


それが5月2日だった。ロングショットや逆方向からの撮影をまじえて、公式映画が作られたのだ。そのとき旗は丸屋根の上で振られた-
だが写真撮影用には別な場所で振られたのである。

つまり。カンタリアが旗を振り、エゴロフが彼を支え、軽機関銃カラシニコフ持参の将校一人が写っているあの世界的に有名な写真は、
5月2日に撮影されたのだ。場所は見てのとおり議事堂の東面であり、ブランデンブルグ門の方角を向いている。カンタリアはこのとき、
カメラマン用にポーズをとったのである。


(中略)


この写真は、5月3日付けの何千という新聞の一面に掲載され、世界中に 「見よ、われわれがベルリンに一番乗りした。
勝利はわれらのものだ!」と伝えることになった。


だがカンタリアによれば、このときすでに何百本という赤旗が議事堂のあちこちになびいていた。議事堂は廃墟とはいえ壮観だったから、
ソ連軍はこの建物を重視したのだ。大体が、他のどこで旗を振ればいいというのだ?小さなブランデンブルグ門でに上がっても場所は狭いし、
ラジオ塔では貧弱だ。


「真実と伝説はもっと壮大でなければならぬ」-そういうことだったのだ。あるいはほぼそういう成り行きだったのだ。


(「戦後50年 決定的瞬間の真実」 グイド・クノップ 畔上司訳 文藝春秋)



アーバンの写真における「マスク」

舞踏会で紳士がつける「顔かくし」のマスクは、服装の加上部分の典型であり、老婦人が気取る顔面上の網も又加上に違いない。それらは、
本人において道化の意識を持って用いられているとは限らない。
その点では村々の祭りに際して村人たちがつける手製の仮面とは全く異なった性質を持っている。


村人のつける仮面は、祭礼において一時的変身をとげることによって日常秩序を中断するために道化の自覚を持って用いられた。
だからこそ、祭りが終わった束の間の一瞬には、仮面をつけたままの姿で、
しかも役割の固定から解き放たれた処に露われる存在が出現していたのであった。服装をつけながら服装の隠蔽を脱いだ姿が其処にあった。


舞踏会での紳士の「顔かくし」はそうではない。加上服をつけて遊ぶことの他に何物も無くなった、存在の喪失が恐らく其処にはある。
存在の喪失が彼の存在なのであり、その逆説的な存在がマスクに象徴されている。


現代社会の中枢部を構成する人々の仮面や化粧や顔飾りや総じて服装の加上部分は、こうして、存在の喪失感としての存在が-
すなわち空虚それ自体という存在が-集約された局部的物体なのである。
入れ墨という直接的服装を身体に施した者や道化服のまだら衣装を身につけた奇形者たちが、芸の舞台から降りた時に見せる安息と穏和-
それが存在そのものの表情なのだ-とは逆に、仮面舞踏会の紳士はマスクを取り去る時、
空虚と倦怠と焦燥と過敏の化身となって現われ出るに違いない。それがかれらの存在なのである。


その倦怠の一端は「広大な芝生の庭でダラリと日光浴をする上流中産階級の一家」の写真に現われているし、焦燥の一端は
「ベンチに腰かけて、しかめっ面で諍い合う中流の老夫婦」の写真に現われている。そのいずれもが空虚の存在を物語っている。
そしてそれらも現代社会のコピーとして、物哀しく且つ滑稽なのである。血色よく死んでいるその生態、豊頬を湛えたその屍体は、
仮面をかぶるとき始めて踊り出している。幸福なる屍体は仮面によって動いている。生きた存在は仮面だけなのだ。
だからアーバスは仮面を写した。


そして彼ら紳士は「人間は幸福以上のものである」(ブレヒト)という真理を反対側から立証するために、
すなわち幸福なる非人間と化している状況を自ら提示するために、厳然たる存在喪失態として倒錯的に存在しているのであった。


(「藤田省三著作集9 「写真と社会」小史 文中 「ダイアン・アーバスの写真」 藤田省三 みすず書房)



Wikipediaからの参照「日本の民族問題」より「日本国内の少数民族」

日本国内の少数民族


日本国内で生活し、日本国籍をもつ者にも、日本固有の民族意識(「日本人」としての意識或いは単一思想又は大和民族)
とは異なった民族的自覚を持ち続ける人々がある。在日外国人以外、多くは日本国民としての国籍を有し、多数民族の個人と同等の権利・義務が、
民族としてではなく一国民(個人)として憲法上保障されている。


これらの少数民族の人々は個別の文化と帰属意識を伝承している。在日外国籍の場合(朝鮮人など)は、
永住権を持ち全てが民族的自覚を持つとは限らないが、日本に帰化した人々に比して民族的自覚は非常に強固なものがある。


また、少数民族の人々は民族的出自を理由に就職や婚姻において差別を受けるケースがあった他、特に朝鮮人は、
「代々差別を受けてきた経緯から差別を回避するために朝鮮名を使用しない。朝鮮系であることを隠す」ということが行われるケースもあり、
「民族や出自(系譜)を気軽に公表できない」とする人々が多い反面、
堂々と本名を名乗り日本社会に違和感なく溶け込んでいる人々も多数存在する。


国民としてのナショナルなアイデンティティや帰属意識とエスニックな帰属意識は別であり、必ずしもそれが葛藤を生むとは限らないが、
近代の日本は強い同化主義をとったため、しばしば衝突や多数派エスニシティ(大和民族)による自文化の押し付けを結果した。


主要な少数民族


    * アイヌ民族 北海道(アイヌモシリ)・樺太・千島の先住民族

    * ウィルタ民族 樺太の先住民族

    * ニヴフ民族 樺太の先住民族

    * 琉球民族(独自の民族であるかには異論もある)

    * 小笠原諸島の欧米系島民等 - 開拓・移民の末裔。

    * 在日華僑、華人、華裔(在日中国人、在日台湾人)

    * 在日コリアン(在日韓国・朝鮮人) - 元朝鮮籍など。国籍に関わらず同胞コミュニティが存在。


    * 日系ブラジル人 - 多くの場合国籍やエスニシティはブラジル人であり出稼ぎが多い。


    * 白系ロシア人 ロシア革命による亡命者

    * 元ヴェトナム・インドシナ難民とその家族。政治難民が注目されるが経済難民も多い。


(「Wikipedia 日本の民族問題 日本国内の少数民族」から引用)



アーバスの一連の「ヌーディスト・キャンプ」の写真から考える服装について

そして彼女が多く写した「ヌーディスト・キャンプ」の姿態は、はっきりとその延長線を形造っている。其処での素っ裸の人たちが、
或は靴を履き、或はネックレスをつけ、さらには派手なサングラスを掛けているのを見る時、その可笑しさは、
対極的な二つの根本的懐疑を同時に喚び起こす。そもそも服装とはいったい何なのか。そして同時に裸とはいったい何なのか。
裸につけられた一条の細いネックレス・一足の靴は服装であるのかないのか。少なくともそれは「象徴行動」としての服装ではあろう。しかし、
その象徴的服装を身につけている者は、今、歴然と陰部を露わにしている。そこには、陰部とは何か、
という懐疑が直ちに加わって発生するであろう。そうした連続疑問符の発生は、彼女のヌーディスト写真について言われているように「裸体美」
への否定感を喚起するだけに止まるものではない。そうではなくて遙かに根本的に、通常の社会を物的に支えている中核的慣習法としての服装
(着物)なるものを、意味と無意味の間に宙ぶらりんの空間に放うり出すのである。
そこに生まれる可笑しさとそこに発生する根本的な疑惑の感覚は、社会の俗物的自明性を根底から揺がしている。
全体が裸で微細な抹消局部が服飾している、その不均衡のもたらす「道化性」の可笑しさが発揮する「中断」効果は、
社会の日常秩序性を支えている最も身近かな物品の基礎にまで及んだのである。打ち込まれた楔は大木を裂く。そして楔は常に小さい断片である。
むしろ断片なるが故に裂力を持つ。現実世界の一つの断片としての写真を社会的偏見体系への楔たらしめることが出来た時、
その楔の裂力は同時に社会人への閃光的啓示をも発する。


嘗て原始社会の漁師たちが、舟の遭難の結果、何処かの町や農村の港に辿りついた時、しばしば彼らの礼服としてのフンドシも失ったまま、
港に下り立たなければならなかった。むろん、町は言うまでもなく農村も又 「人工的栽培」 を業とする文明社会であり、
文明社会には文明化された服装があり、服装の序列があり、無服の者は排除される「礼」の体系があった。其処に上陸する時、
フンドシを失った漁師たちはどうしたか。彼らは、素っ裸のチンポコの前に藁しべ一本手でぶら下げてフンドシの印しとしたのであった。
彼らは明らかに服装の持つ」「象徴行動」としての性格を心得ていた。
服装の序列の中に浸っている者よりも遙かに服装の社会的意味をよく知っていた。むろんその姿は滑稽であり軽蔑をも買ったのであろうが、
しかしその滑稽さは「礼儀三百威厳三千」の服装文化の元々の核心を暴露するものであった。星霜移り風俗は変わって、現代アメリカにおける
「ヌーディスト・キャンプ」では、嘗ての漁師のような迫芯力はむろん無いが、
その代わりに派手なサングラスとネックレスをかけた素っ裸の女や不細工に靴をはいた素っ裸の男が坐っている。
服装の中の加上部分だけを強調的に身につけて、防護と防寒の用具は概ねすべて取り払われている。
その姿は現代文明社会における服装過剰を暴露して見せている。脱ぎに脱いだ剥離の結果、残ったものは無用の飾り二個に過ぎない。
ヌードになっても剥ぐことの出来ない現代服の核心としてそれら数個のものが残っている。服装すなわち着物は今や「加上の部」
にその象徴的中心を移しているのだ。


人間は、自ら、哺乳類の一種だと言うにも拘わらず、他の全ての哺乳類から遙かに遠ざかって、奇妙な一、
二の部分にだけ少しばかりの体毛を残して、ほぼ全身的にツルツルになって了って以来、
(他の動物から見ればさぞ奇妙奇天烈でゾッとするような気味悪い姿であろうが、しかもそれに些かも気附かぬ無自覚さを以て)
他の哺乳類一統を「毛之(ツ)物」とか「毛だ物」とか呼びながら、自らのツルツルの傷つき易い劣弱な身体を傷害や寒気から防護するために、
着物(服装)を着用するに至った。そして服装は服装を呼んで、加上に加上を重ね、その重量的加上の裡に序列を生み、
社会秩序の区分機能を果す地位・職能の象徴となり、位階勲等を始め官位身分の誇示記号と成り、漁師的「象徴行動」
が示した象徴本来の意味への素朴な忠実さを忘れ去り、そうした過程の行きつく果てに、今日の末端装飾主義へとその「象徴行動」
の意味中心を移動させて了ったのである。「象徴」自体の意味中心が重大部位から抹消局所へと逆転し、ますます逆進している。とすれば、
服装における加上部分は現代的現実の最も鋭い断片として注目するに値する筈である。


(「藤田省三著作集9 「写真と社会」小史 文中 「ダイアン・アーバスの写真」 藤田省三 みすず書房)



2007/02/19

硫黄島の星条旗



1945年以降、かれはしばしば控え目にせざるを得なくなる。名前はジェームズ・V・フォレストール・ローゼンソール。ユダヤ系ロシア移民の子である。その彼が1945年2月23日、アメリカ国民にとってまさに伝説的なこの戦争写真を撮影した。

(中略)

海兵隊は上陸後四日間で、摺鉢山守備隊の日本軍をけちらし、山頂を占領した。ハロルド・G・シャイアー少尉率いる兵士40人は、山頂に大隊旗を立てた。硫黄島の真のヒーローたちが、星条旗に鉄の棒にくくりつけて地面に押し込んだのだ。その光景を撮影していたのは、海軍雑誌「海兵隊」のカメラマン、ルイス・ロウリーだった。これが本来の国旗掲揚だったのだ。だがロウリーにとって不運だったのは、旗が小さすぎたこと。

(中略)

これが、歴史的な「国旗ドラマ」の第一幕になる。時は現地時間で十時二十分。ローゼンソールが山頂に這い上がったとき、そこには海兵隊員がうようよしていた。

(中略)

その後の次第は、目撃者のリチャード・ウィーラーに語ってもらおう。

「最初に旗が立ってから三時間くらいして、ジョンソン大佐が旗の交換を決定したんです。大隊旗は、遠くからだと双眼鏡がなければ見えなかったんです。縦60センチ、横135センチしかありませんでしたからね。勝利の旗がどう見えるか、その見栄えは兵士の士気に重大な影響を及ぼします。ジョンソンは、もっと大きな旗が必要だって思ったんです」

当のジョンソン大佐は、自分のこのときの決心があとあと、どのような熱狂的愛国心を巻き起こすことになるか、つゆ知らなかった。ともあれ彼は、戦車揚陸艇LST779にあったかなり大きめの旗を調達し、山頂まで運ばせた。

ちょうどそのとき、ローゼンソールが息を切らしながら山頂に到着したのである。彼は、海兵隊員がその旗(縦142センチ、横244センチ)を拡げているところを注目する。

(中略)

そして海兵隊員5人と船員1人が、旗を立てはじめる。旗ざおを何とか持ち上げ- この棒は前のと同一 -、石の山に突き刺す。

「私はカメラを持ち上げて撮ったんだ」

こうしてあの写真ができあがった。星条旗は確かにアメリカ製だったが、皮肉にも旗ざお(折れた鉄の棒)は日本製だった。摺鉢山にあった日本帝国の、破壊されたレーダー局から持ってきたのだ。

(中略)

彼が「ポーズをとらせたんですか?」と聞かれたのは、これが最後ではなかった。もちろん私もその質問をした。彼の答えは、何十年もの「トレーニング」を経て磨きがかけられていた。

「あのな、ああいう写真はヤラセじゃできっこないんだ。やろうとしても、うまくいかなかっただろう。あのときは条件が整っていたんだ。風はいい方向に吹いていたし、男たちの動きも決まっていた。それにタイミングもピタリ。もう一度言うが、まったくの偶然の仕業だ」


加えて「天の配剤」もあった。神はローゼンソールの写真にご加護を与えたのである。実は、硫黄島の写真十二枚のうち、二枚は露出が過多だった。あの旗の写真だって、そうなる可能性はあったのだが、

「運よく、そうならなかった」

(中略)

話を1945年に戻す。第二次大戦のアメリカ全面勝利は、もう目前に迫っていた。だが最後の戦闘が残っていた。そこで七回目の、最後の戦時国債が発行されることになった。これをさばくためには、印象の強い写真を使う必要がある。これにかなう一枚がなかった。

アメリカは国家を挙げて、写真のヒーローを探した。被写体は一体誰か?

ローゼンソールはすでに摺鉢山の山頂で、六人の名前を聞き出そうとしていた。だがごった返していたため不可能だった。そこで海兵隊の調査班がまず写真の腕と手を数え、やっとのことでその六名を突き止めた。

名前を挙げよう。六人のうち三人は、調査時点ですでに戦死していた。フランクリン・ススリー(ケンタッキー州ユーイング)、マイケル・ストランク(ペンシルベニア州コーンモー)、そしてハーラン・H・ブロック(テキサス州ウェスラコー)である。

生き残ったのは、ジョン・ブラッドリー(ウィスコンシン州アップルトン)、レネイ・ガニョン(ニューハンプシャー州ハウクセット)、そしてアイラ・ヘイズ(アリゾナ州バプチュール)である。

(中略)

この三人はいまやVIPになった。大将扱いで歓喜の故国に戻った。ワシントンでは、感激している議員と将軍たち、そして市長やそのほかの愛国的なファンから、議会とホワイトハウスのあいだで祝福を受けた。勝利に陶酔していた国民は、なかの一人にとりわけ注目していた。それはインディアンのヘイズである。

彼は、インディアンが最終的に白人と和解したことの、生きた証人ではなかったろうか? 彼は善良な「母国アメリカ」の人種統合政策の、生きたシンボルだったのではなかろうか?

(中略)

ヘイズはピマ族だった。アリゾナ州の種族で、十九世紀にはまだ平和的なことで有名だった。農業をやって、綿花を栽培していた。 
「白人開拓者の群れを襲って女性を強姦し、男たちの頭皮をはぎ取る」なんて、考えたこともなかった。それをやったのは、好戦的なスー族とアパッチ族である。ピマ族はこの二部族とかかわりをもたないようにしていた。

だがそこへ白人がやってきて、ピマ族に殺人を教え込んだ。第一次大戦と第二次大戦で、ピマ族は米軍兵として戦う。ヘイズは1942年に十九歳で入隊した。海軍初のインディアン兵である。当初から部隊のなかで最高の射手だった。
エリート部隊の好戦的なところを身につけ、模範的な兵士となった。

(中略)

だが、運命の1945年2月23日が訪れ、その後は国家が感謝をこめて彼を英雄扱いした。だが本当は英雄ではなかった。
摺鉢山征服に参加していなかったからである。ローゼンソールが写真を撮ろうとしたあの瞬間、たまたま近くにいただけなのだ。だがこのことが、その後の彼の人生を暗転させる。

しかし戦争直後のアメリカには、そんな裏話を聞こうとする人なんて一人もいなかった。

「彼はヒーロー。それでいいじゃない」

高級ホテルに泊まり、トルーマン大統領と握手し、ハリウッドのスターたちにキスをし、パーティで次々に人に紹介された。酒を飲む回数が必然的に増え、ヒーローを大事にする国家のために乾杯し続けた。戦時国債でヘイズを広告に使った委員会はどこも、彼にウィスキーを三本贈った。

そうこうするうちに、あの国旗掲揚をめぐるプロパガンダはいっそう激しさを増した。世間は、弾丸で破れたあの旗が集中攻撃のなかで立てられたのかどうかを知りたがったし、ジョン・ウェイン主演の映画「硫黄島の砂」にはヘイズ自身が出演した。この映画はもちろん、戦争の実際を描いたものではない。アメリカ人好みの筋書きになっていた。

こうして真実は脱落していった。ヘイズはそれを感じていたので、当初は小声で抗議していた。宣伝ツアーでローゼンソールと会ったとき、彼はしみじみ嘆いた。

「みんな、私に酒を勧めて、こう言うんです。「ヒーローよ、おめでとう」私はうんざりです。そのたびに、本当のヒーローたちが死んだことを、考えさせられるからです。私はヒーローなんかじゃありません。あなたがあの写真さえ撮らないでくれたら」

戦争は終結した。彼の「ニセの凱旋」が日に日に輝きを失っていくころには、ヘイズはアル中になっていた。酔っぱらっている間は少なくとも、「アメリカで誰からも愛されている初のインディアン」という役柄を忘れることができたからである。酩酊から覚めると、彼は二重に恥じた。

(中略)

1946年、彼はアリゾナ州に戻る。インディアンが優しく迎えてくれ、彼のために、軽食堂付きのガソリン・スタンドを建ててくれた-観光客相手の商売である。

実際、観光客はやってきた。スタンドの入口前には、ヘイズが旗を立てようとしているところを模した記念碑が建った。夜になると、その記念碑にライトが当てられた。何マイルも離れたところにもう「ヒーロー近し」の看板が立っていて、彼はここでも、まるで遊園地並みに商品化されていた。

(中略)

すぐに彼は泥酔者として警察に保護される回数が激増した、急速に落ちぶれていったのである。

彼を救おうという動きは二つあった。まずインディアンのソーシャル・ワーカーが何人か、フェニックス(アリゾナ州)からやってきた。彼らはヘイズをシカゴに送り、ある会社で職業訓練をさせようとした。

(中略)

だがシカゴでも、有名人であることが災いして落ち着けなかった。カメラマンにいつも追いかけられた。旋盤の仕事を覚えようとしたのだが、会社から出るとすぐに、ファンたちが酒をおごろうともちかけた。全国どこへ行っても、陰謀が張りめぐらされているみたいな状態。結局彼は仕事に就けず、バーと警察の泥酔者保護室を往復することになる。

社会復帰の二度目のチャンスは、サン・タイムズ紙(シカゴ発行の朝刊紙)のキャンペーンだった。これは1953年に、この国家的英雄を救おうとして始まり、同紙は何週間も、「アイラ・ヘイズを誰か救ってくれませんか?」と広告を出し続けた。

結局、ロサンゼルスのマーティン夫妻(俳優のディーンと歌手のベティ)が、ヘイズを運転手として雇うことになった。だがビバリーヒルズの大通りでも、カメラマンが何人か、しつこく彼を追いかけた。そしてある日、硫黄島の突撃に参加していた海兵隊員からぶちのめされ、「この嘘つき野郎め!」と罵倒されたのである。

ヘイズに真の復帰チャンスはなかった。マーティン夫妻も、彼が死ぬほど飲むのを止められなかった。1954年11月、彼はロサンゼルスを去ってアリゾナ州に戻ったが、1955年1月23日の夜、アル中で死亡した。発見時には、軍隊のヘルメットに海兵隊の長靴といういでたちだった。

(「戦後50年 決定的瞬間の真実」 グイド・クノップ 畔上司訳 文藝春秋)

参考として以下の書籍を挙げる。

・硫黄島の星条旗 (文春文庫)

ジェイムズ ブラッドリー (著), ロン パワーズ (著), James Bradley (原著), Ron Powers
(原著), 島田 三蔵 (翻訳)

映画「父親たちの星条旗」の元となった書籍で、ヘイズと同様にヒーローの一人になった、ジョン・ブラッドリーの息子が著者になっている。

2007/02/18

アーバスの透明人間性

「彼女は異形の人たち一人一人の存在に対して彼女の存在を以て相い対した。たしかに「パスポート」としてカメラを携えてはいたが、
そのカメラは彼に対する彼女の直接対面を回避させる道具としては決してならなかった。彼女の写真が何よりも明かに示しているように、
写真の視線はカメラの側から彼らの方に向って放たれているのでなく、
逆に彼ら一人一人のの方から視線がこちら側に向って放たれているのである。
この点で通常の写真とまるで反対になっているのがアーバスの写真の特徴である。写真は物を写すものである。そこで当然、
写真における眼のベクトルはカメラから被写体に向って発射されている。
その通則に対してアーバスの写真は驚くべき反体例を提出しているのである。写真史上の大事件と言ってよいであろう。
写っている例外者の眼がその写真を見る私たちに向って入り込んで来るのであり、試されているのは私たちなのである。


そのことは何を物語っているか。写真家ダイアン・アーバスが、巧く写して見せようとする虚栄の自意識を捨てて、一個の存在として、
彼ら社会的辺境人の一人一人の存在に対して向い合っていることを示している。
この直接的対面性は撮られた写真の中にはっきりと現れているのものである。何故かと言えば、写真では写真家自身は写らないから、
写真家は言わば透明人間となって「被写体」(アーバスの場合にはこの言葉はまったく不適切なものだが)の眼や表情は、
写真家をエックス線の如く通過して、直接、私たちに届くことになる。
だからアーバスの写真の視線が真直ぐ私たちに向かって差し込んでくると言うことは、
アーバスが写真における写真家の透明人間性を百パーセント生かし切ったとうことを示しているのである。そうして、
写真における撮影者の透過性を十二分に生かし切った時には、顕示的な技巧が消える代わりに、逆に、撮影者の接近態度における精神的姿勢が、
無形なるが故の純粋さを以て胡麻化しようなく写真の中に出現するのである。


通常の写真家は完全に透明人間化することを恐れ且つ避けて何とかして自己を表現しようと工夫を凝らす。角度をつけたり、
わざと暈かしたり、色をつけたり、褪色させたり、光と陰の対照を極端にしたり、して自分の眼の審美的特徴を誇示しようとする。
世俗的には無理からぬ表現欲と出世意慾の現れである。しかし自分の特徴的な美意識を写真の上に技巧を以て表そうとすることは、同時に、
被写体(この場合にはこの言葉が適切なのだ)のある特徴・ある要素を協調的に描き出すこととなるのであり、
被写体を個々の要素の集合物へと分解していることなのであり、外側から被写体を処理していることなのであり、従って、
存在そのものに対して一個の存在として直接対面してはいないということを物語っている。


アーバスは -特に晩年のアーバスは尚のこと直接対面以外にそれら各種の技巧を些かも弄することをしなかった。そうして、
自己の美意識の表現を意図せずに世界の辺境(すなわち此の世の中の他界)との対面だけを志したということは、
彼女が自分の写真の展覧会を余り好まなかったことや、自分が写した写真の記念碑的保存に殆ど全く執着しなかったことにも通底している。
彼女が求めたのは、此の世の中の他界の存在に対する対話の瞬間だけであり、
その瞬間が産み出す存在と存在との関係の世界が今もまだありうることを、写真を通じて確認することに他ならなかった。」


(「藤田省三著作集9 「写真と社会」小史 文中 「ダイアン・アーバスの写真」 藤田省三 みすず書房)



ダイアン・アーバス その言葉

私が好きなのは今まで行ったこともない場所を訪ねることです。
たとえば私にとって誰かほかの人の家を訪ねることはとても特別な意味を持っています。約束の時間が近づいてきて、
バスに乗らねばならなくなったり、タクシーをひろわなければならなくなると、まるで見知らぬ人とのブラインド・
デートに出かける前のような不思議な気持ちになります。いつもそうなのです。時には不安になって、時間だわ、でも出かけたくない、
という気持ちになることもあります。けれど一度、決心して外に出ると、何か素晴らしいことがその不安をとりはらって、
心がワクワクしておさえきれなくなってしまいます。


私がどんなに好奇心旺盛でも、見知らぬ人に、あなたの家でお話をしを聞かせてくれませんかと頼むことはできないと思います。
そんなことをしたら、相手は、この女は頭がおかしいんじゃないかと思うでしょうし、
そうでないにしても強力なガードを張りめぐらしてしまうでしょう。でも、カメラはいわば許可証のようなものなのです。
多くの人が実は他人から何か特別な注目を浴びてみたいと思っていますし、写真を撮るのなら許してもいいということになってしまうのです。


実際、そうした人々から私は好かれました。私には二つの顔があるように思います。私はご機嫌とりがうまくて、
そのことが気をめいらせることもあります。調子がよすぎて、すべてが素晴らしいと言ってしまうのです。なんて素晴らしい、
という言葉が口グセのようになってしまって、異常な顔をした女の人を前にしても、その言葉が口をついて出てしまう。でも、
私は本当に素晴らしいと思っているのです。しかし自分がそんなふうに見られたいと思っているわけではありません。
子供たちにそんなふうになってほしいとは思いませんし、個人的にそういう人にキスをしてみたいとも考えません。けれども、
それは本当に驚くべき、否定できない何か素晴らしいものなのです。


いつも二つのことが同時に起こります。ひとつは見慣れて、知っているという気持ち、もうひとつは、
それがほかのものとは決定的に異なる特別なものだという気持ちです。でも、
私にはいつもその二つのことを一緒にしてしまうようなところがあります。


こう見なければならないのに、違うように見てしまうことが誰でもあると思いますが、それが人間のものの見方なのです。
街で人と出会った時、あなたが最初に気づくのはその人の欠点や短所なのです。
そうした特性が私たちひとりひとりに与えられているということは異常なことですが、それだけではなく、
その人のまったく違う全体像をつくりあげてしまうことさえあります。
人間の外観はその人を理解するために世界に示されるサインのようなものですが、
他人にそう思ってもらいたい自分と他人が実際に見てしまう自分との間には大きな隔たりがあります。
それはつまり意図と結果の間のギャップとも関係があるでしょう。現実に正確に対応し、厳しく見つめ、
何らかの方法でその内部に入りこむことができれば、それは本当に素晴らしいことなのです。
われわれ自身がそんなふうに見えていること自体がよく考えるととても素晴らしいことです。それは時々、
写真のなかにはっきりとあらわれることがあります。世界は皮肉で、
その皮肉は自分の意図したものがそのままあらわれてはこないという事実と密接に関わっているのです。


私が言おうとしているのは、あなたが他人になり変わることは不可能だということです。こうしたことは小さなことなのかもしれませんが、
他人の悲劇は決してあなた自身の悲劇ではないのです。


写真というのは特別なものでなくてはならないと思います。写真を始めたずっと昔、私はこんなことを考えていました。つまり、
世界にはたくさんの人がいてそのすべてを撮影するのは不可能だから、通常「一般人」(コモンマン)
と言われているようなごく普通の人間を撮ればいいのだろうと。ところが、私の先生であるリゼット・モデルはより特殊で、
より個性的であればあるほど、その写真というのはある普遍性を持つのだということをはっきりと教えてくれたのです。
この事実には特に注目しなければなりません。ある種の逃避や安逸さをどうしても乗り越えねばなりません。


写真を撮るというプロセス自体に、われわれが普段はほとんど経験しないある厳しさや正確さが要求されます。
つまりわれわれはお互いに日常生活ではそうした緊張関係を持っていないということです。カメラという機械が入りこまなければ、
もっとなごやかにいられるのに、カメラはいささか冷たく厳しいものなのです。


でも、私はすべての写真がそうした悪意のあるものだと言っているわけではありません。
時には写真はわれわれが感じている以上の素晴しさを事実のなかに垣間見せてくれたり、完全に異質なものを見せてくれたりします。しかし、
ある意味で結局、写真のこの厳しさは、事実から逃げないこと、実際に目の前に見えているものから逃げないということと関係があるのです。


奇形の人々の写真を数多く撮りました。それは私が写真を撮った最初の題材のひとつですし、私に非常に強い興奮をもたらしたのです。
私はただ彼らを崇拝したものでした。今でもそのうちの何人かの人々にはそうした感情を持っています。親密な友人というのではないのですが、
彼らは私に羞恥と畏怖の入りまじったような感情をもたらせてくれます。
奇形の人々には伝説のなかの人物のようなある特別な価値がそなわっているのです。たとえば人を呼びとめては、
なぞなぞを出すお伽噺の主人公のように。ほとんどの人たちは精神的に傷つくことを恐れながら生きていますが、
彼らは生まれた時から傷ついています。彼らは人生の試練をその時点で超えているのです。彼らはいわば貴族なのです。


私はよく知られてしまった人や物を撮りたいとは思いません。そんなことは聞いたこともないという時点では彼らに魅了されますが、
一度広く知られてしまうと、とたんに興味をうしなってしまうのです。


写真や絵画を見ている時、これは違うのではないかと感じることがあります。その写真や絵画が嫌いだという意味ではありません。
どんなにそれが素晴らしくても、何かが違う、そんな感じです。私自身の事実に対する感覚の問題だと思うのですが、どうしても違う!
 絶対に違うのよ! という感情が湧きあがってきてしまうのです。それは真実とはかけ離れているという非常に私的な感情なのです。


嫌いなものだけからそうした感じを受けると言っているのではありません。とても好きなものからも同じように感じることがあります。
外に出るとその写真と自分が離ればなれになってしまったように思えて、ああ、あれは絶対に違うんだって思うのです。
事実をそのままとらえられるとは思ってはいませんが、でももう少しそれに近づくことはできると思えるのです。


子供の頃の私は、一度口にしたら、それはもう真実ではなくなってしまうという考えを持っていました。
もちろんそれをそのまま信じていたら、たちまち気が狂っていたでしょうが、でも今、私が言おうとしていることはそれにとてもよく似ています。
ひとつのことがなしとげられてしまうと、別のところへ行きたくなってしまいます。どうしてもそう思ってしまうのです。


ヌーディスト・キャンプは私にとって最高の題材でした。何年かの間に三つのキャンプを訪ねています。初めて行ったのは、1963年で、
1週間滞在しました。それは本当にスリリングでした。とてもみすぼらしいキャンプで、そのことが(ほかにも理由があったのでしょうが)、
そこをとても魅惑的にしていました。殆ど朽ち果てていて、廃墟寸前で、カビくさく、草一本生えていない、そんな土地だったのです。


ヌーディスト・キャンプにはずうっと行ってみたいと思っていたのですが、そんなことを言う勇気はありませんでした。
私には車がなかったのでバス停でそこのディレクターと会い、彼の車で連れて行ってもらったのですが、その車のなかで私は緊張して、
ナーバスになっていました。「これからヌーディスト・キャンプに行くのだということをよく理解しておいてください」と彼が言い、
私自身もそう考えていたので、その点ではわれわれは完全に意見が一致していたのです。そして彼はこうも言いました。「ヌーディスト・
キャンプの方が外の現実の世界よりもずっと道徳的だということが今によくわかりますよ」
つまり人間の裸体は言われているほど美しくも魅力的でもなく、一度見てしまえば神秘というものは消え失せてしまうと彼は考えていたのです。


キャンプにはいろいろな規律がありました。あるキャンプでは除名に関する二つの規律が決められていました。
ひとつは男の人が勃起してしまうこと、もうひとつは男女を問わずお互いをじっと見つめるということです。つまり人々を見ることはできても、
ジロジロ見続けることは厳禁なのです。


それはまるで何もわからずに幻想の世界へ入りこんだようなものでした。初めは本当に驚いてしまって、アタフタしていました。
そんなにたくさんの男の人たちが裸で歩いているのを見たことがなかったし、そんなに多くの裸を一度に見たこともなかったのですから。
一番初めに見た男の人が芝を刈っていたことを憶えています。


カメラだけぶらさげて裸で歩きまわっている姿を想像すると笑われてしまうかもしれませんが、それがなかなかおもしろいのです。
裸になって最初の一分で、どうすればいいのかだいたいわかります。それでもういっぱしのヌーディストになっているわけです。
自分ではそうではないと思っていても、もうすでにそうなのです。


キャンプの人々は、外の世界よりも身につけているものが多いのではないかと思うことがあります。男たちは湖に降りてゆく時には、
靴下をはき、靴をはき、タバコをその靴下にはさみこみます。女たちはイヤリングやブレスレットや帽子や時計などを体につけ、
さらにハイヒールをはきます。でも、おかしいことに、時にはバンドエイドを一枚はっただけの人に会うこともあります。


キャンプのなかでしばらくいると、いろいろと考えてしまいます。というのも、地面には空びんやさびた空缶が散らばり、
湖底には腐敗したような泥が淀んでいて、離れの便所は臭いし、木々はむさくるしい。まるで楽園追放のあとにエデンの園に戻って、
アダムとイブが神に許しを乞い、神は怒って「わかった、それではとどまるがよい。この園に残って、文明を得て、子孫を増やし、
汚れてしまうがよい」と言い、その通りになってしまった、そんなふうに思えてしまうのです。


子供の頃、悩んだのは自分が不幸だと感じたことがないということでした。私はいつも非現実的な感覚にとらわれていました。そうした、
何かから免れているという感覚は、ほかの人からみれば、ばかげたことだと思われるかもしれませんが、私にとって苦痛以上のものだったのです。
まるでずうっと自分が受け継ぐべき王国を受け継ぐことができないままでいるような感覚なのです。
世界は私には無関係に世界にだけ属している。 ものごとを学ぶことはできても、
それらは決して自分の体験のなかに入ってこないように思えたのです。



私は夢多き少女ではありませんでした。ヒーローというのも好きではなく、ピアノも弾きたいと思わず、
特に何がしたいということのない女の子でした。絵は描いたのですが、嫌いになって、高校を卒業したときにやめました。というのも、
描くたびに賞賛され続けていたからです。当時はいわば自己表現の時代で、私は私学にいたので、いつも「何をしたいですか」と尋ねられ、
何かをするとすぐに「素晴しい」という言葉が返ってきました。これにはうんざりでした。私は絵具のにおいと絵筆が紙にあたる音が大嫌いで、
ある時は絵も見ずにこのシャッシャッシャッという身の毛もよだつような音だけを聞いていたことがあります。 「素晴しい」
と言われるのがとてもいやでした。私の絵がそんなに素晴しいのだったら、もうこれ以上絵を描く必要なんてない、そう思ったのです。


私は映画は虚構と関係が深く、写真は事実を扱う傾向にあると考えています。いちばんいい例は、映画で、
男と女がひとつのベッドにいるシーンを見たとします。その時、われわれは彼らが決して二人きりでベッドにいたわけではなく、
その回りに監督やらカメラマンやら照明係やらがいたことをよくわかっているのですが、一応、そうしたことを除外して映画を見ています。
けれども、写真を見る時は、そんなことは決して考えないと思うのです。


知りあいの娼婦が、ひっかけてきたお客をポラロイドで撮ったカラー写真帳を見せてくれたことがあります。いかがわしいものではなく、
ただ男たちがモーテルのベッドに腰かけていました。そのなかにブラジャーをつけた男の写真がありました。彼は妙なところは少しもなく、
ごく普通の、平凡な男で、ただブラジャーをつけているのです。まるで自分にはないものを何気なく身につけるように、
まるで誰もがブラジャーをつけているかのように。それは息を呑むような写真でした。本当に美しい写真でした。


視覚的ではないにもかかわらず、まるで写真のように印象づけられている経験を何度かしました。
そのことをうまく伝えられるかどうか自信がないのですが、ともかくとてもセンセーショナルなことだったのです。それは身体障害者のダンス・
パーティーの時のことでした。カメラは持たすに出かけたため、初めのうちはとても退屈だったのです。自分のなかに閉じこもって、
いったい今夜はどうなるんだろうと不安でした。写真を撮ることはできないし、撮りたいとも思いませんでした。
参加者はみな何らかの障害を持った人たちでした。ある女性が、脳性麻痺の人は小児麻痺の人を嫌い、
脳性麻痺の人と小児麻痺の人はまた精神薄弱の人たちを嫌うといったことを私に話しかけてきたりしました。
しばらくして踊ってくれという人があらわれて、私はたくさんの人と次から次へと踊りました。うまく説明できませんが、
何かとても感動的な時間が始まりかけていました。ただひとつ不快になったのは、自分がジーン・
シュリンプトンみたいに突然目立つ人間になってしまったように思えることがあったことです。回りの状況のせいで、
こんなふうになるのだと思いました。でもうれしかったのは、私とそこに来ていた人たちとの関係が変わってしまい、
まったく素晴しい時間が過せたということです。


そして私をこのパーティに連れてきてくれた女性が一人の男の人を指さしてこう言いました。 「あの男を見て。
彼は踊りたくてどうしようもないのに、恐くてたまらないのよ」 彼は60歳で精神薄弱だったのですが、外見的にはまったく普通で、
そのために私は興味が持てませんでした。彼は見かけはただのあたりまえの60歳の老人だったのです。私たちは踊り始めました。
彼はとても恥ずかしがりやで、まるで11歳で成長が止まってしまったかのようでした。どこに住んでいるのかと尋ねると、
彼は80歳になる父親とコニーアイランドに住んでいると言いました。働いているのかと聞くと、
夏の間だけビーチでアイスキャンデーを売っていると答えました。そして、それから彼は信じられないようなことを口にしたのです。 
「ぼくはずうっと心配し続けて」 とてもゆっくりとした話しぶりでした。 「ぼくはこんなままでいいんだろうかと心配し続けて。
何も知らないし。でも、もう-」 そして彼の瞳がキラリと光りました。 「もう絶対に心配なんかしないや」
 それで完全に私はノックアウトです。


いろんなものをベッドの回りの壁にはっておくのが好きです。自分の好きな写真やらを毎月はりかえしたりしています。
するとそれらが無意識のうちに影響を与えてくるのです。ただ見るというのではありません。見ていない時でも見ているのです。
まったく奇妙な方法でそれらは作用をおよぼしてくるのです。


こうしたことは自分を動かす方法などないという事実に関係していると思います。壁に美しいイメージをはったり、
自分を知ったからといってそれで自己を動かすことなどできないのです。自分というものをどれだけ知ったところで、
それがあなたをどこか別の場所へ連れて行ってはくれないのです。逆にそのことである空白に置き去りにされることもあります。ここに私がいる、
私には過去や歴史がある、世界には私が知らない神秘があるし、私を悩ますこともある。しかし、
そうしたすべてのことが役立たなく見えてしまうような場合があるのです。


本を読むことから仕事を始めたこともあります。本を読んで、
すぐに飛びだして写真を撮るというようなことを言っているわけではありません。そうした詩を解説するようなことは好きではありません。
けれども非常に写真に近いもののように思えながら、写真に撮っていないものがあります。カフカの小説の「犬の回想」で、
ずうっと昔に読んで以来。何度も読み返してきたものです。犬が書いたという形式のこの小説は、本当に素晴しい作品で、
犬による犬の現実の生活を見事に描きだしています。


実際、私が写真を撮り始めた頃の写真には犬をテーマにしたものがあって、
それはたぶんこの小説を読んでいたことに関係していたように思います。もう20年も前の話で、
私はマーサのブドウ畑で夏を過ごしていましたが、黄昏時になると毎日犬がやってきました。大きな犬で、雑種でした。
バイマー犬特有の灰色の目をしていて、本当に頻繁にやってくるのです。そして私をじっと神秘的な眼差しでみつめていました。
犬は吠えることもなく、手をなめたりもせず、ただだまってみつめているのです。でも私を好いていたとは思いません。
その犬の写真を撮りましたが、そんなにいい写真ではありませんでした。


犬は特別に好きだというわけではありません。でも、人間を嫌っている野良犬は好きです。だから写真を撮ったのも野良犬です。
決して撮りたいと思わないのは、泥のなかに寝ころがっている犬です。


写真を撮り始めの頃、私はざらざらした粒子の荒い写真を撮っていました。粒子のつくりだす世界に魅了されていたのです。
小さな点が集まってつづれ織りのようになり、それですべてのものが点の集合を通して物語られる、そのことに魅せられました。肌は水と、
水は空と同じになり、血と肉ではなく、明と暗の世界のなかですべてが取り扱われるのです。


けれども、しばらくそうして点と格闘していると、ある時から急にそこから抜けだしたいと思うようになりました。
物と物との間の本当の違いをはっきり見てみたくなったのです。表面的な質感のことを言っているわけではありません。
そんなことどうでもいいことで、写真は表面的な調子でおもしろくなるなどという考えはおろかなことです。
表面的な質感のどこがおもしろいのかわかりません。とても退屈です。けれども私は肉体と物質の差異を見てみたかったのです。さまざまなもの、
たとえば空気や水や光などの密度の違いを見てみたかったのです。
そしてだんだんとそうした違いをはっきりさせるテクニックを学んでゆきました。そして、
いつのまにか私は明晰さというものに大きな重きを置くようになっていきました。


写真を撮ることに関するひとつのセオリーを私は持っていました。
つまり二つのアクションの間に入りこむことこそが撮るということなのだと。
あるいはひとつのアクションと休止の間に入りこむことと言ってもいいかもしれません。大げさに語るつもりはないのですが、それはつまり、
私が見なかった、あるいは見ようとして見えなかった表情に似ています。ストロボのおもしろい特質のひとつは、写真を撮った時、一瞬、
盲目のようになってしまうことでした。光が大きく変わって、見えなかったものがあらわになるのです。
そのことが理由でストロボがいやになったこともあります。何の加工もされていないありのままの光が懐かしくなり、
普通の曖昧な状態には必ずある、ある種の曖昧さを大切にしたいと思い始めたのです。


最近になって、写真のなかでは見えないものを深く愛していたことに気づいてとても驚いています。それは現実の本当に物理的な暗さです。
暗さを繰り返し繰り返し見るということはなんとスリリングなことでしょう。


いわゆるテクニック(この言葉は、何かを隠し持っていることを連想させて嫌いなのですが)について私が興味深く思うのは、
それが神秘的な奥深いところから生じてくるからです。つまりテクニックは、印画紙や現像液などのさまざまなものと関係するわけですが、
最も大事なのは誰かが長い時間をかけて悩み、うみだしてきた深い選択の集積だからなのです。


創造というのは複雑で重要なものです。人々は彼らが創造したものの美しさに近づこうとします。そうしてだんだんとその溝がうめられ、
彼らは非常に注意深くなります。写真の創造は照明とプリントの質と主題の選択に深く関わってきます。
それらの選択の種類は何百万とあるでしょう。ある意味でそれは運不運の問題なのです。ある人は複雑さを嫌い、別の人は複雑さを求める。
でもそれは意図的なものではなく、その人の性質、つまりアイデンティティから生じるものなのです。
われわれすべてがこのアイデンティティというものを持っています。それは避けることができないものなのです。
ほかのすべてが取り去られたあとも残るものがアイデンティティなのです。私は最も美しい創造は作者が気づかなかったものだと考えています。


撮った人が気づかないのに実験的な試みになる写真があります。そしてそれらは方法となってゆきます。
だから悪い写真を撮ることも大切なのです。悪い写真は、今まで撮ったことのなかったものと深く関わっています。
そうした写真はあなたが今まで見なかったものを気づかせ、それを再び見た時にあらためて気づかせてくれるでしょう。


構図という考えが嫌いです。いったい何がいい構図なのでしょう。多くの写真を撮ったり、自分の感情をこめたり、
好きなように撮っていったりするうちに、何かがわかるかもしれませんが、
私にとっては構図は時に応じてある明澄さや安らぎやおかしな失敗といったものと関わってきます。
構図の正確さや不正確さというものがありますが、私は時には正確さを好み、時には不正確さを好みといろいろなのです。
構図とはそんなものです。


こうした経験は前にもあるのですが、そのなかから写真を撮りました。最近、何枚かのラフなプリントをつくりました。でも、
そのすべてがよくないのです。何かが欠けているように思えて、もう一度やりなおさなくてはと思ったりします。しかし、
そのなかに一枚だけほかの写真とは違う特別なものがありました。ひどく時代遅れの写真なのです。
私にはまるではるか昔の貴婦人の夫君が撮った写真のように思えました。それはまったく異様で、醜く、でもなぜか素晴しいのです。
私はだんだんその写真が好きになって、今ではほとんど夢中と言っていいくらいです。


カメラはある意味ではやっかいな機械です。こちらの言うことをきかないのです。あなたがほかのことをしたいのに、
カメラは別のことをしてしまいます。カメラの要求とあなたの要求をまず溶けあわせなくてはならない。まるで乗馬のようです。
私は乗馬などできないので悪いたとえだと思うのですが、ともかくそれがどんなふうに動くか学ばねばならないのです。
私は2台のカメラを使ってきました。ひとつはある状況下では素晴しい動きをするカメラ、素晴しくすることのできるカメラです。
もうひとつのカメラはまぬけなカメラなのですが、時々、私にはその不器用さが好ましく思えることがあります。
それがとてもうまくゆく時もあるのです。私にはカメラが自分とはまったく違ったものだという感覚があります。
カメラという機械と合体することなどできないのです。でも、それを、非常にうまくというわけではないにしても、
けっこううまく使いこなすことはできるのです。フィルムを巻きあげる時など、何かのはずみでひっかかったり、具合が悪くなったりしますが、
そんな時、何度も繰り返しシャッターを押したりしていると、突然また動くようになります。機械とはそうしたものだと私は思っています。
ちょっと視点を変えて使ってみると、直ってしまう。例外というのはもちろんあるのですが。


ファインダーグラスをのぞいていて、すべてが醜くみえてしまい、
何が悪いのかわからないというようなパニックの瞬間に襲われることがありました。時々、
まるで万華鏡をのぞいていているかのようにもなります。でもそれをうまく動かそうとしてもできない。それをごちゃごちゃにしてしまえば、
ファインダーグラスの向うのものはすべて消え去ってしまうだろうなどと考えたりもしました。でもそういうわけにはいかないから、
たとえば後ろへさがったり、話しかけたり、別の場所へ行ったりするわけです。でもそうしたことは計算してできることだとは思いません。
そうしたことの過程には常に神秘的なものが潜んでいるのです。


写真を撮るためにイベントに出かけることがよくあります。たとえば美人コンテスト、そんな時、
頭のなかでいろいろとイメージを思い描いたりします。審査員がいて、彼らが優勝者を決め、
その時その場にかけよって撮ろうなどと考えたりするのですが、そのとおりに事が運ぶことなどめったにありません。
ものごとはばらばらに同時に起こり、頭のなかではストレートで写真に撮りやすいと思うのですが、実際には一人はむこう、
一人はこちらとという具合で、なかなか一緒にはなりません。ある家庭を訪ねた時でさえ、一家全員の写真を撮ろうと思っても、
無理を言って頼まない限り両親と二人の子供が部屋の片隅に一緒にそろうことなどまずないのです。


私は自分の不器用さを仕事の原点にしています。つまり私はものごとをアレンジするのが好きではないのです。何かに向う時、
それをアレンジするかわりに自分自身をアレンジしようとします。


ワシントン・スクエア公園をある夏に精力的に撮ったことがあります。たぶん1966年だったと思います。
公園はいくつかの区画にわかれていました。雲間からもれる強い光のように遊歩道が枝わかれしていて、そのなかにテリトリーがあり、
杭で囲われていました。若いヒッピーの麻薬常用者たちがこちらに群がり、あちらには根っからの同性愛者といった女たちがたむろしています。
そしてその間にはアルコール中毒者たちがいるのです、彼らは受付け係のようなもので、
ブロンクスからヒッピーになりにやってきた女の子たちはまずアルコール中毒者たちと寝ることで、
この公園のなかのジャンキーの仲間に加わることができるのです。それは本当に驚くべき光景でした。とても恐いと思いました。
私はヌーディストにもなれましたし、何にでもなってきたのですが、でも彼らの仲間にはなれないと心底思いました。
彼らの人間性がどのようなものであれ、です。写真は撮れたり、撮れなかったりでしたが、少しずつ進んでゆきました。
そのうちに何人かの人々と知りあい、彼らとずいぶんうろつきました。ある意味で彼らは彫刻に似ていました。
私は彼らに近づきたいと思いました。そこで写真を撮らせてくれとたのまなければなりませんでした。
普通の人にあれほど近づいてゆきながら言葉ひとつかけないなどということはできないと思います。でも、
私はいつのまにかそうしたことをしていたのです。


奇妙なことにファインダーグラスをのぞいている時は恐いと思ったことは一度もないのです。銃を持った人が近づいてきても、
ファインダーをのぞいている限り、自分が弱い存在であることなど考えもしないのです。今、起こっていることが素晴しいと思うだけです。
もちろん限度はあります。兵隊が近づいてくる時など、殺されるのではないかと、しめつけられるような気持ちがこみあげてきます。


けれどもカメラには不思議な力があります。カメラを持っているとまるで何か特別な位置にいるような気がするのです。
何か特別な魔力を行使して、世界をうまくおさめてしまうのです。


自分のことをとても恥ずかしがりやだと思っていて、また恥ずかしさにとてもこだわり続けてきました。だから何かが延期されたり、
待たされたりする状況を楽しんできました。今でもそうです。そうした時間をとても神経質になったり、心を落ち着かせたり、
ただただ待ってみたりして過ごします。それは生産的な時間ではありません。本当に退屈な時間です。昔、女装ショーに行った時、
楽屋で4時間も待たされたあげく、写真も撮れず、また別の日に来るようにと言われたことがあります。でも、
退屈だけれども心を奪われてしまったようなそんな経験をいつか好きになるようになりました。退屈だったのですが、
同時にそれは普通の人々が見過ごしてしまうような神秘的な時間でもあったのです。
実際には写真に撮れないのだけれども写真に撮るべきものがあるような感覚、私はそうした感覚に強く魅きつけられました。


中国に退屈を過ぎると魅惑の域に入るということわざがあるそうですが、本当にそうだと思います。
自分にとってそれがどんな意味を持つかとか、自分がそれをどう考えるかといった目的のために主題を撰んだことはありません。
まず主題を撰ぶことが大事で、それについてどう考えるかとかそれが何を意味するかなどということは、主題を撰んで、
それを十分に消化することができればおのずとあらわれることなのです。


何度も繰り返し写真を撮った人がいます。彼女とはある日街で会いました。3番街を自転車で走っていた時で、彼女は友人と一緒でした。
彼女たちは二人ともとても大きくて、6フィート近くあり、太っていました。私は大きなレスビアンだと思っていました。
彼女たちは食堂に入って、私も後を追いかけて、写真を撮らせてくれないかと頼んでみました。 「明日の朝だったらいいわ」
 と彼女たちは言いました。ところが私と別れた後で、官女たちが逮捕され、その夜は警察で過ごしたのだそうです。
翌朝の11時頃に彼女たちの家を訪ねると、私のすぐ後を彼女たちが階段をのぼってきました。そして最初にこう言いました。 
「あなたに話しておかなくてはならないことがあるの」 どうして彼女たちがそうした義務感に駆られたのかよくわかりませんが、
彼女たちはこう続けました。 「私たちは男なの」 私はそれを聞いてもとても平静だったのですが、
内心はとてもうれしくてゾクゾクしていました。


彼女たち(彼ら)の一人と仲よくなりました。彼はいつも女装していて、女として売春をしていました。
私は彼女を男だと思ったことはありません。どう見ても女だったのです。男だとわかってはいても、
女装した男だというそぶりを何ひとつ見つけることができなかったのです。彼女とレストランに入ると、男たちはみなふり返って彼女を見、
足をならしたり、口笛をふいたりしあmした。彼女に向けてです。私にではありません。


最後に会ったのは彼女の誕生パーティの時でした。彼女が電話してきて、誕生パーティだから来ないかと誘われた時、「なんてすてき」
 と叫んでしまいました。ブロードウェイの100丁目にあるホテルでパーティは行われました。
一生のうちであんな場所に足を踏み入れたことはありません。かなりいろいろな恐ろしいところには行ったことがあるのですが、
そのホテルのロビーはまるで地獄のような光景でした。紫がかった白眼の、どすぐろい顔をした人たちがそこにはブラついていて、
背筋が凍ってしまうような雰囲気が漂っていました。エレベータは壊れていて、歩かねばならなかったのですが、
4階の彼女の部屋にたどり着くまでに、階段にたくさんの人たちが横たわっていたため、
一階にのぼるたびに数人の人を踏みつけることになってしまうのです。ようやく部屋にたどり着くと誕生パーティの出席者は私と彼女と、
娼婦の友人とそのヒモの男と、そしてケーキでした。


知っておかなければならない大切なことは、人間というものは何も知らないということです。
人間はいつも手さぐりで自分の道をさがしているということです。


ずうっと前から感じていたのは、写真のなかにあらわれてくるものを意図的に入れこむことはできないということです。
いいかえれば写真にあらわれてきたものは自分が入れこんだものではないのです。


自分の思いどおりに撮れた写真はありません。いつもそれらはもっと良いものになるか、もっと悪いものになってしまいます。


私にとって写真そのものよりも写真の主題のほうがいつも大切で、より複雑です。プリントに感情をこめてはいますが、
神聖化したりすることはありません。私は写真は何が写されているかということにかかっていると思っています。
つまり何の写真なのかということです。写真そのものよりも写真のなかに写っているもののほうがはるかに素晴しいのです。


ものごとの価値について何らかのことを自分は知っていると思っています。ちょっと微妙なことで言いにくいのですが、でも、本当に、
自分が撮らなければ誰も見えなかったものがあると信じています。


(「ダイアン・アーバス作品集」 ドゥーン・アーバス、マーヴィン・イズラエル編集 伊藤俊治訳 筑摩書房 1992年)


注)本文は「ダイアン・アーバス作品集」の冒頭に掲載している。写真集の先頭ページには以下のことが書かれている。

「以下のページの本文は、ダイアン・アーバスへのいくつかのインタビューと、彼女自信が書き記したもの及び、
1971年に行われた彼女の一連の講義の録音テープをもとに編集されました」

また邦訳「ダイアン・アーバス作品集」はすでに廃刊となっているが、邦訳の元となった写真集は現在でも米国のアマゾンで購入可能
(ただしペイパーバック)である。この写真集は1972年のニューヨーク近代美術館での「ダイアン・アーバス回顧展」の展示写真集でもある。
(amehare)


2007/02/16

アメリカ「ライフ」誌における第二次大戦での戦争の描き方

数あるグラフ雑誌のなかでも、1936年にアメリカで創刊された「ライフ」がプロパガンダ活動で果たした役割は大きい。「ライフ」
の創刊にはナチスの迫害を逃れてアメリカに渡った写真家や編集者たちがかかわっていて40年には毎週三百万部の売り上げを誇るまでに急成長を遂げていた。
キャパやユージン・スミスなどに代表される戦争特派員たちは、小型カメラを携えて前線に赴き、
兵士たちが戦う様子やその表情を間近に撮影した。「ライフ」の編集者たちは、
戦争特派員たちが捉えた写真に航空写真や前線の状況を撮影した写真などを組み合わせて、戦局のフォト・ストーリーを仕立て上げていった。
編集企画にかかわるさまざまな段階で、編集者側がすべての決定権を握っており、
写真家はテーマについての選択権をもつことも独自の解釈を加えることもできなかった。また、
政府当局からも写真の掲載に関して厳しい規則が課せられていた。


たとえば太平洋戦争が始まって最初の二年間、アメリカ政府は、
死亡したり重傷を負ったアメリカ兵の写真を一般に公開することを禁止していた。当局側は、
戦争の現実をさらすことによって国民の士気がくじかれるのではないかと恐れていたのである。しかし敵軍の兵士であれば、
重傷を負っていようと瀕死の状態や死体であろうとも、恐ろしいほど克明な写真が掲載された。ガダルカナル戦線の戦局を伝える記事(「ライフ」
 1943年2月1日号)では、現地でのアメリカ軍兵士の活躍を紹介するフォト・ストーリーの最後のページに、
爆撃された日本軍の戦車の上に置かれた日本軍兵士の焼けただれた首を捉えた写真がページ全体を覆うほどの大きさで掲載されている。
このように敵軍の兵士の、見るも無惨な状態の死体を掲載することによって、戦争の代償を支払っているのは敵だけであり、
アメリカ軍にとって戦局は有利に展開しているというメッセージを巧妙に伝えていたのである。


しかし次第にアメリカ国内の士気が緩んで、配給制や賃金・雇用の規制に対する不満が高まると、
当局も規制の方針をせざるをえなくなった。フランクリン・ルーズヴェルト大統領は軍部に対して、
アメリカの犠牲と苦痛を捉えた写真を公開するように要請した。ジョージ・ストロックが撮影した「ブナ・ビーチのアメリカ兵の死体」(
「ライフ」 1943年9月20日号掲載)は、アメリカ兵の死体 - 顔を判別できないような角度から撮影されている -
 を初めて誌上で公開したものである。この写真は、戦時国債の購入を促進するための広告も添えられていた。
つまり死という高価な犠牲を払って戦った戦死者を見せることが読者の感情を揺さぶったのである。
結果として国債の売り上げが伸びることになった。


敵国である日本軍の兵士の死体とアメリカ兵の死体を捉えた写真の取り扱い方を比較してみても、
自国の兵士と敵国の兵士の描き方に大きな違いがあることがわかる。また、
このような違いは第一次世界大戦期のポスターに見られた兵士の描き方、すなわち英雄的な自国の兵士と、
怪獣としての敵軍の兵士の描き方を継承したものと言えるだろう。


(「写真を<読む>視点」 小林美香 青弓社)



小型カメラの登場

「写真機材の発達で画期的な一歩を記したのが、小型カメラの登場である。
1924年にエルマン社が発表した小型カメラのエルマノックスは、当時としてはコンパクトかつ軽量なボディで、
容易に持ち運びができるものであり、大口径の明るいレンズが採用されていたため、
マグネシウムのフラッシュを使わなくても暗い場所で撮影ができるようになった。翌25年にはライツ社が小型カメラのライカⅠ型を発売した。
これは、三十五ミリ版の映画用フィルムを使って本体を小型化するとともに、連続撮影を可能にした革命的なカメラである。
これらの小型カメラは、開発当初は従来のカメラに比較して画像の粒子が粗く、鮮鋭性に欠けるなどの欠点があったものの、
それまでにはありえなかった視点や状況での撮影を可能にした。小型カメラによって撮影された写真は、
フォトジャーナリズムに大きな転換をもたらした。つまり、小型カメラで捉えられた写真は、
記事を説明するために添えられる補助的な図版としてだけでなく、それ自体が読者の注意を引き付けるものとなり、
掲載された新聞や雑誌の売り上げを左右するほどの位置を占めるようにもなっていったのである。」


(「写真を<読む>視点」 小林美香)



楽園への歩み、写真展「人間家族」

hspace="0"
src=
"http://amehare.lolipop.jp/quotes//media/img_20070215T175717549.jpg"
align="absmiddle"
border="0" />


「この写真は、ユージン・スミスが第二次世界大戦で負傷した後の新しい生活を象徴したもの、
闇のなかから光あふれる世界へと踏み出そうとする彼の内面性を表すものとして位置づけあれている。「楽園への歩み」は、
1955年にニューヨーク近代美術館で開催されそのご世界各地を巡回した写真展「人間家族」展にも出品された。この写真展では、人生の旅-
世界中の人々が同じように生まれ、成長し、学び、働き、対立や問題を乗り越えて生きていくこと-が、
世界中の写真家が撮影した写真のシークエンスと言葉によって表されていた。「楽園への歩み」は会場の出口付近に展示され、
幼い子どもの後ろ姿は、世界中の人たちに向けられた希望のメッセージ - 暗闇のなかから光の方へ、
すなわち戦争という暗い過去から明るい未来へと歩んでいこうというメッセージ - が込められていた。ユージン・
スミスが父親として撮影した幼い子どもたちのスナップショットは、「楽園への歩み」
という題名の作品として発表されたり展覧会のなかに位置づけられることによって、特定の子どもを捉えたものとしてだけでなく、
彼の心情や希望や未来という抽象的な概念を表象するような図像として読み取られるようにもなったのである。」


(「写真を<読む>視点」 小林美香 青弓社)


「ホイットマン流の国家のエロチックな抱擁の最後の溜息は、それを普遍化して一切の要求を剥ぎ取った形ではあるが、
スティーグリッツの同時代人で、フォト=セセッションの共同設立者であったエドワード・スタイケンが1955年に組織した写真展、
「人間の家族」の中で聞かれた。68ヶ国、273人の写真家の503枚の写真は一点に集中し、人類は「一つ」であり、
人間は欠点もあれば卑劣でもあるが、やはりいいやつだということを証明することになっていた。写真にはあらゆる人種、年齢、階級、
体型の人びとが写っていた。多くはとりわけ美しい肉体をしており、あるものは美しい顔をしていた。
ホイットマンが彼の詩の読者に彼とアメリカに同化するように迫ったように、スタイケンは個々の観客が描写されている多数の人間と、
そしてできることならどの写真の主題とも、つまり世界の写真術の市民全員とも同化が可能になるようにその展覧会を構成したのである。」


(「写真論」 スーザン・ソンタグ 近藤耕人訳 晶文社)



2007/02/15

アーバスの写真の主題

アーバスは最も厳密な意味で、「個性派作家」なので、近代ヨーロッパ絵画史では半世紀間瓶の静物ばかり描き続けたジョルジォ・
モランディがやはりそうだが、写真史では異例のことである。
彼女はたいがいの意欲的な写真家のように手広く題材を扱うということはいささかもしなかった。それとは反対に、
彼女の主題はすべて等価である。そして奇型人、狂人、郊外に住む夫婦、ヌーディストたちを平等に扱うということは強力な判断であり、
教育あるリベラル左派のアメリカ人の多くに共通に認められるある政治的気分と共犯関係にある。
アーバスの写真の被写体は全部同じ家族の構成員で、ただひとつの村の住民なのである。ただ、あいにく白痴の村がアメリカなのである。
異なるものの間の同一性(ホイットマンの民主的展望)を示すかわりに、だれもが同じに見えるように示されている。


(「写真論」 スーザン・ソンタグ 近藤耕人訳 晶文社)



労働観の変遷 古代ギリシアの労働観

古代ギリシアにおいては、労働とは、忍従の奴隷労働、非植民地の人々の苦しい労働を意味し、
具体的には各ポリスの市民たちの消費物質の調達といった行為を指し、人間の行為としては卑しいものとされてきた。それは、
他のあらゆる動物にも共通する生命維持のための生活物資の供給に過ぎず、ポリスの市民には二義的な意味しか持たなかった。


「ただ単に生きることではなく、善く生きることが大切である」
という思想はソクラテス以来常に語られてきたギリシア人の人生論の基本であった。単に生きることは物質的、生理的意味での生を指す。
しかしポリスの市民は生の営みだけに拘束される私的領域を離脱して、公的領域に積極的に参加する義務を持つ。たしかに生産労働は、
あらゆる高次の生の不可欠の条件ではあるが、それは人間から自由な時間とエネルギーを奪い、その結果人々の「徳」(arete)や政治的、
文化的活動に携わる力を奪う。それゆえにポリスの市民は、この生産労働を奴隷に強制したのである。アリストテレスは「政治学」
の中で次のように言う。


「仕事のうち、偶然の働く余地の最もすくないものが最も技術的なもので、身体の最も害われるものが最も職人的なもので、
身体の最も多く使用されるものが最も奴隷的なもので、徳を必要とすることの最も少ないものが最も卑しいものである。」


「・・・・・無条件に正しい人間を所有している国においては、
国民は俗業民的な生活も商業的な生活も送ってはならないことは明らかである(というのは、このような生活は卑しいもので、
善と相容れないからである)


徳が生じるために必要なのは労働ではなく、閑暇である。アリストテレスは人間のみが理性を持つと考え、
この閑暇において人間が理性を働かせる場合のみ、家や国家をつくりうるとする。
古代ギリシア人にとっては閑暇のなかで達成する政治的行為が最も価値ある行為だったのである。なぜそうなのだろう。


われわれの行為、思考、言論はすべて何らかの善を目的にしている。ある行動の目的はさらに高次の行動のための手段であり、この目的-
手段-目的の系列を最後まで推し進めていくと、他の目的でなくそれ自体のために追求されるべき最高の善に達する。人間にとって最高善とは
「幸福に生きる事」であり、それを目指す学ないし術をアリストテレスは「政治」(politike)と名づけた。「政治」は、
共同体全体の幸福の実現を目的にし、その目的の追求によって人間が自分とその属する共同体を道徳的に高める場としてあった。
その中で人間は自分を磨くのである。人間の幸福は自分の能力または徳を全体の幸福のために発現させることにある。
ポリスの目的は人間の倫理的卓越性の実現と、それによる人間としての完成にあり、市民の一人一人が人間として完成することが、
個人にとっても全体にとっても最高善、つまり幸福につながるというのである。


一方でアリストテレスは、職人の活動(アーレントによれば「仕事」)について、次のように語る。職人の活動は奴隷の活動
(アーレントによれば「労働」)より上位にはあるが、やはりそれは「制作」(ポイエーシス、poiesis)であるかぎり、「自由な活動」
(プラークシス、praxis)、にはなりえないとする。


(「ハンナ・アーレント入門」 杉浦敏子 藤原書店)


引用中のアリストテレスは、「政治学」から



闘技的民主主義の可能性

つまり、ここでは政治は、合意に基づく秩序の固定化に間断なく異議を申し立て、差異性を許容する抗争として理解されている。
アーレントの政治的活動は、「討論」(debate)と「熟慮」(deliberation)によって公的精神を涵養し、
同時に同一の争点における意見の多様性に価値を置く。闘技的エートスを欠いた空間には真の政治は生まれないのである。「法律尊重主義」
(legalism)や「立憲主義」(constitutionalism)は、政治の闘技的エネルギーを消滅させているといえる。
コミュニタリアンの言う共同体への郷愁(地域の紐帯、帰属性への要求)ではなく、
自由な未来のための生き生きとした抗争の場を求めることで政治的空間は涵養される。たしかにそこでは完全な合意や、
調和的な集合意志という理念は放棄せざるをえないであろう。つまりあらゆる理性的な人間が合意できるような「善き生」
の理念などといったものはもはや存在しない。むしろすべての本質の偶然性と曖昧さを承認し、分裂と対立を認め、必然性、真理、正常性、効用、
善性に抗する逸脱、齟齬、矛盾をもつ本質的な革新性を肯定すべきであり、アーレントの思想の革新性もその点にある。


しかし、アーレントの「闘技」(agon)を包含した公的世界の構想は、われわれに「自分の私的な幸福以上のものに気を配り、
世界の状態を憂慮する(care for the world)こと」の基盤を与えるのである。つまり、
自分自身への配慮のみがすべてを支配するとき、政治の場はまさしく単なる抗争の場となってしまうが、アーレントは、あくまでも「判断力」
という歯止めをかけたうえで闘技的民主主義というものを主張するのである。民主主義の要求する同質性が、
異質性の排除をもって実現されているとすれば、その中に闘技的な契機を持ち込むことによってのみ、
民主主義の活性化は実現されるのではないだろうか。


(「ハンナ・アーレント入門」 杉浦敏子 藤原書店)



コノリーが提示するリベラルな個人主義の問題点

この点、コノリーは、リベラルな個人主義の問題点を次のように語る。


「第一にリベラルな個人主義は、正常な個人を中心に据えるために、多様性の主張に対して冷淡なものとなり、非合理性、無責任、不道徳、
非行、倒錯というような異常と定義された空間に、多様性のための空間をあてはめるように個人に強いる。

第二にリベラルな個人主義は、正常な個体性の基準に固執するため、ルサンチマンを一般に醸成するのに手を貸す。そのため、
「実存の豊穣な多様性」-ニーチェならそう呼ぶだろう-を評価する倫理を肯定することは、
正常な個人にとっても異常な個人にとっても困難となる。

第三に、その法的な政治の概念は、リベラルな社会に個体性のための空間を設けるのに必要な政治的行為、戦闘。
闘争の度合いを軽視するきらいがある。」


(「ハンナ・アーレント入門」 杉浦敏子 藤原書店)


コノリー:Connolly, William E.、ウィリアム・コノリー、

引用文は、「アイデンティティー/差異 他者性の政治」 杉田敦也訳 岩波書店 から

参考:"http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/dw/connolly.htm">ウィリアム・
コノリー



アーレントは政治の純粋性になぜそこまで固執するのか

では逆に、アーレントは政治の純粋性に、なぜそこまで固執するのであろうか。それは「自由」のためである。
自由こそが政治の存在理由であり、自由は「意志」の中にあるのでなく、「活動」の中にある。
すなわち自由であることと活動することは同じである。「活動」において「自由」を定義づける彼女の議論は、
活動の役割をその人らしさの表現と定義する。その「活動」を通して、われわれは「世界」に入り込み、それに変え、そこに先例のない、
予見できない新しさをつくり出す。「活動」が「複数性」を生み出すのはこのゆえであり、公的な舞台に立つことで、人々の違いは明らかになる。
この、新しいものと、相違をもたらす能力をアーレントは「出生」(natality)と名づけ、「必要性」(necessity)
の圧力や効用の計算からは説明できないものとする。「活動」を効用や配慮に従属させては、自発性や創意を破壊することになるだろう。「自由」
とは、やはり「政治」を手段的権力的なものから純粋化する過程そのものに存在する。「政治のための政治」、
つまり政治が自己目的的であるというのは、人々が差異を保ちつつ共存できる世界を建設し、
維持すること自体が政治の目的であるということを意味するのであり、この政治的自由は経済やイデオロギーに妨げられてはならないのである。
すなわち公正な分配についての経済的問題と、
集団としてのわれわれが自分たちを統治する制度を形成するという政治的問題を別の問題として区別することが、
自由な市民であるための条件なのである。


しかし実際に、経済的問題と政治的問題をそのように厳然と区別することは可能だろうか。たとえば、M・
アグリエッタは次のように述べている。


「個人が資本に服従するのは、労働力の売り手としてだけではない。無数の社会関係(文化、余暇、病気、教育、性、さらには死さえも)
への編入を通じてなされる。資本制諸関係から逃れられるような個人生活や共同生活の領域はほとんど存在しない。」


つまり、資本の論理はすでに私的領域のすべてに浸透しているのであり、
このような状況下で経済的問題をすべて政治的問題から排除することが果たして望ましいことなのか、と問うことも可能であると思われる。


(「ハンナ・アーレント入門」 杉浦敏子 藤原書店)


M・アグリエッタ:ミッシェル・アグリエッタ、「資本主義のレギュラシオン理論」

参考:"http://cruel.org/econthought/schools/neomarx.html">"3">新マルクス学派(ラディカル政治経済)



「明るい部屋の謎」 日本語版序文 写真を撮る幸福

シャッター・ボタンを押すという動作にとって、瞬間を停止させたいという欲望は本質的なものである。しかしこの動作の意味は、
世界の絶えざる運動が私たち一人一人に否応なく惹き起こす並外れたフラストレーションと切り離して考えることはできない。私たちは実際、
新しい経験によって惹き起こされるさまざまな感覚、情動、身体状態を(充分に)「展開させる(デヴロベ)」時間を欠いていることが多い。
あらゆることがかくも早くも過ぎ去っていく。しかも楽しい瞬間こそがまず最初に! それゆえ、私たちが写真を撮るのは、
過ぎ去っていく瞬間に「防腐処理」を施すためでも、それを「凍結させる」ためでもない。むしろ逆なのだ! (カメラという)
箱に映像を閉じ込める私たちがなによりもまず望んでいるのは、撮影の瞬間に感じられたさまざまな感覚、情動、身体状態-だが、
あまりにも速く別の感覚、情動、身体状態によって追い払われてしまう-を、のちに再び見出したいということなのである。写真を撮るとは、
たしかに「閉じ込める」ことではある。しかしそこには、あとで「展開=現像する」という意図が伴っている。映像を眺め、
それについて語ることによって、私たちは、自分たちがあまりにも性急に生きた出来事の記憶を呼び起こし、
そうして自分のリズムでその出来事を消化=同化することができるようになる。幸福は、
ゆっくりと噛みしめることでいっそう味わい深いものになる。そして私たちが写真を撮るのは、しばしば、
のちにそのような幸福を得ようと期待してそうするのである。写真を撮るとは、まずもって、
時間があまりにも急速に流れ去っていくことに対する抵抗の行為なのである。


もちろん、その大部分は、錯覚にすぎない。時間は停止することもなければ戻ってくることもない。しかしこの錯覚は、
社会的な関係を創り出してくれる。私たちは、写真が現像されてくると、それを眺め、それを人に見せ、それについて語るからである。その瞬間、
私たちが過去において一度放り捨てた生が、再び力を取り戻してくるように見えてくる。このように、対立しあう二つの傾向性-
それは生において対立しあう二つの傾向性でもある-がつねに一緒になって写真を撮る欲望を煽りたてている。実生活の場合、私たちは、
一方では目新しい事象をできるだけ多く経験したいと望むため、そうした事象の一部は自分たちの内奥に閉じ込め、
あとでじっくりそれを検討しようと考える。

しかし同時に私たちは、新しい経験に制限を加え、それによって自分たちがすでに行ったことを消化なく、
写真を撮る動作においても絶えず競合しあう。これら二つの態度こそが、写真を撮るという動作に私たちを向かわせるのであり、
その動作はつねに、より多くの事象を-のちにそれを現像=展開したいという欲望との中間に置かれるのである。写真を撮ることは、
必ずしもつねに、死体に防腐処理を施すことに似ているわけではない。ときにそれは、
将来花が開くことを期待しながら種を播くことにも似ているのである。


とはいえ、幸福と昂揚のなかで捕らえられた映像が、現像されてきたとき、期待したような成功を収めていることは稀である。
私たちを魅了した風景や身体の前に立って、私たちはその映像を定着することでのちにその感覚に再び辿りつこうと望んでいた。
しかしプリントされてきた写真に直面すると、そのような感覚へと私たちを導いてくれる道は、
すでに取返しようもなく失われてしまっているように見える。現像されてきた映像をはじめて見るときの経験は、したがって、
もし私たちが誰かにどんな夢を見たかを伝え、
次にその人にその夢を逆に自分に語り直してほしいと頼んだとすれば起こるであろうようなことにどこか似ている。その人が、
私たちに語ったこととまったく違うことを言い出すであろうことは、まず間違いない! 写真のプリントをはじめて眼にするときにも、
同じ失望感が生じることが多い。私たちはそこに、シャッター・ボタンを押すときに感じていたものをほとんど何も見出すことがないのである。
失望した私たちは、新たなテクノロジーのうちに、次にもっと上手く成功する可能性を探ろうとするかもしれない。
カメラの売上が高性能化によって大きく伸びることになるのは、こうしたフラストレーションが底にあるからである。しかし、
自分の夢を語った相手とのあいだに豊かな交流が築き上げられることがあるように、
カメラと私たちとのあいだにも真の対話が根を下ろすことがある。(現像されてきて)
はじめて眼にした写真と期待していた写真とのあいだの隔たりは、そのとき、新しい世界像を得るための出発点になってくれるのだ。
たしかに期待と現実とはつねに食い違うものである。しかし、世界はそれ自体、
私たちが想像しているものとつねに食い違っているのでないだろうか?私たちが撮った写真をあるがままに受け容れること、それは、
世界に付き添う行為となる。そのとき写真を撮ることは、まるで、花々を摘み集めることに似たものになる。そうした行為を私たちは、
この世界の美しさに讃辞を捧げるという幸福のためにだけ行うのである。


(「明るい部屋の謎」 セルジュ・ティスロン 小山勝訳)



2007/02/14

ニーチェとポストモダニズム

西洋形而上学は常に、実体論を前提とし、そこではある存在は他の存在物から区別された同一性(A=A)を具備した実体とみなされ、
存在するものは、その本質に従って、それがいかにあるべきかを規定される。そしてあらゆる規範の妥当性も、そのものが実体として存在する
(A=A)ということを基盤にして判断される。しかし、ソシュールの言語論に見られるように、言語は認識のあとにくるのでなく、
言語があって初めて事象が認識され、言語と認識が同一現象であるとすれば、意味はそれ自体に備わる同一性にはよらず、
他のものとの差異による恣意的なものとなる。意味はそれ自体に根拠の有する実体としてではなく、
常に何者かとの差異的関係のもとに与えられる。あらゆるものの意味が他のものとの差異によってしか規定されないとすれば、
それを根拠づける同一性は保証されない。そこでは個人もまた、私は私である、という同一性を備えた自我ではありえず、
他者との関係によって変化するものとなる。このように主張するポストモダニズムの思想は、ニーチェの思想の復権と言えるだろう。


(「ハンナ・アーレント入門」 杉浦敏子 藤原書店)


今では誰もが知っている内容ではあるが、短くまとまっているので引用した。
逆にソシュールの言語論はあくまで一般論としての言語論であることも忘れてはならない。いずれ竹田青嗣の「言語的思考へ」
を再読し引用として掲載する。(amehare)



アーレントとトクヴィルの相違点

ではアーレントとトクヴィルの最大の相違点は何だろうか。それは「社会」の捉え方にある。
周知のようにアーレントはギリシアのポリスに倣って、公的領域と私的領域を明確に分離する。その私的領域とは「家政」(household)
の領域であり、公的領域に比して、二義的なものである。

そこでは、生物的水準において生命の再生産を図ることが第一の目的とされるため、この領域は、生命の必然に拘束されているという点で、
「人間的意味」を持ちえない。つまり、そこには公開性と世界性が存在しないのである。他方、
公的領域とは生命の再生産から解放された自由な人間が織り成す政治的空間なのである。この私的領域の国家大への拡大がアーレントの言う
「社会」である。つまり政治と経済の境があいまいになり、
巨大な民族大の家政問題を解決するのがあたかも政治の役割であるかのような事態が出現したのである。
「経済的に組織された諸家族の集合体が一個の巨大な家族に模写されたものが、われわれのいう「社会」であり、その政治的諸形態が「国家」
と呼ばれているのである。」 そして「社会」の前提は「平等性」ではなく「同一性」(sameness)であるため、
まさに社会的なるものは政治的なるものとは敵対する。

「社会は常に単一の意見と単一の利害をもっている一つの巨大な家族のメンバーであるかのようにふるまうことを要求する。」
社会的なものが公的なものを凌駕している近代社会には、自由のための空間はなく、「顔のない支配」(non-man rule)、「活動」
の軽視、複数性の無視、単一で集合的な利害の重視、標準化と画一化の強制があるのみである。


つまりアーレントは、政治的なものから社会的なものを排除し、政治をより「純化」(purify)しようと努めているのである。
政治という営みには、その戦略的有効性や手段-目的連関性の側面を越えて、それ自体に固有の尊厳があるのであり、
同時にそれは複数の人々の自由な行為の総体なのである。この行為こそが、近代的政治機構が生み出す「規則性」(regularity)を、
その特異性と予見不可能性によって、「分裂」(disrupt)させるのである。
そのようにして彼女はトクヴィルが政治を構成する要素として考えた事柄を、ことごとく政治の外におく。


(「ハンナ・アーレント入門」 杉浦敏子 藤原書店)


文中の引用部分は、「人間の条件」 ハンナ・アーレント 志水速雄訳から



アーレントとトクヴィル

アーレントの大衆社会、全体主義批判が、トクヴィルの、「個人主義」(individualism)、「画一性」
(conformity)、「暴政」(despotism)についての考察にその多くを負っていることは明らかである。
彼女の思想的系譜としては、アリストテレス、カント、ニーチェ、ハイデガーなどが挙げられるが、トクヴィルの影響も決して小さくはない。
アーレントとトクヴィルの共通点はまず差異性や多様性の肯定と、画一性や多数の専制への批判にある。また絶対的真理の否定と判断力
(カントの言う、具体的個別的条件のもとに、恣意とは異なる一般性を持つ決定を行う力)の重視においても両者は共通する。



2007/02/13

60年代のアメリカの状況

アーバスが真剣に仕事をした10年は60年代、すなわち奇型人が公然と認知され、
芸術の安全で承認された主題となった10年と符合する。


(中略)


60年代の初めにはコニーアイランドで繁盛していた「奇型人ショー」が禁止された。圧迫はさらに進んで、
女装の女王や売春婦のたむろするタイムズ・スクエアの芝生を徹底的に破壊して摩天楼で覆ってしまう。
逸脱した下層社会の住民は彼ら専用の区域から立ち退かされ-見苦しい、公的不法妨害である、猥褻である、
あるいはたんに利益にならないとして禁じられると、彼らはますます芸術の主題として意識に浸透するようになり、ある広い合法性と、
いよいよもって距離を生むことになる比喩的な近接を獲得する。


(「写真論」 スーザン・ソンタグ 近藤耕人訳 晶文社)


現代のセオリーでは、「奇型人」の言葉は死語であり、「異常」は「正常」を導くために作り出されたものであり、両者に境界線というか、
差などどこにも存在しない。驚くのは、そのセオリーが「写真論」出版時の30年ほど前に存在しなかったということであり、
それをいみじくもスーザン・ソンタグのアーバスを巡る評論で証明されている。

ただ、スーザン・ソンタグは「奇型人」のことを書こうと思ったわけではなく、あくまでアーバスが活躍した当時の状況説明を行うために、
これらの言葉を使っている。それにしても、現代に住む僕としては、ただ引用するだけにおいても、これらの言葉を使うことに強く抵抗感を持つ。
(Amehare)



アーバスの現実感覚の獲得法はカメラ

「子供のころの悩みのひとつは、わたしが一度も逆境というものを味わったことがないということでした。
わたしは非現実感のとりこになっていたのです。(・・・・・・)そして自分は免除されているという感覚が、滑稽に思えるかもしれないが、
苦痛でした」。ウェストも同じ様な不満を感じて、1927年マンハッタンの安ホテルで夜勤事務員の職についた。
アーバスの体験と現実感覚の獲得法はカメラであった。ここでいう体験とは、物質的な逆境ではないにしても、少なくとも心理的な逆境-
美化することのできない経験をすることのショック、タブーとなっている倒錯や悪との遭遇であった。


アーバスの奇形人に対する関心は自分の無垢を犯したい。自分が恵まれているという感覚を掘り崩したい。
自分が安全であることに対する苛立ちに吐け口を与えたい。そういう願望を表わしている。


(「写真論」 スーザン・ソンタグ 近藤耕人訳 晶文社)


ウェスト:ナサニエル・ウェスト、写真家、アーバスと同様の写真対象を撮った。



勝者のキス



「その高揚とした幸福感を、ニューヨークのタイムズ・スクエアで一カメラマンがとらえた。
彼の写真は一冊の本よりも雄弁に状況を物語っている。偶然にこの場にきたとおぼしき看護婦に、一水兵がキスをしている。
ほとんどアクロバット的な熱烈な抱擁。精力的にして大仰な「勝者のキス」である。この一瞬の情景に、いつ訪れるかもしれなかった死の終焉に対する、世界の安堵が見て取れる。

この日の陶酔をこれほど見事に表現している場面はない。これを演出したのは偶然と幸運であり、カメラマンの醒めた目である。

われわれはまず、そのカメラマン探しから行動を開始した。彼の名はアルフレッド・アイゼンシュテット。1898年生まれで、1935年にニューヨークに移住したドイツ人。プロイセン生まれのユダヤ人である。愛称はアイジー。ベルリンで育ち、第一次大戦では砲兵として出陣して重傷を負った。二十年代末、ベルリン・イルストリールテ紙とAP通信で有名になり、ゲルハルト・ハウプトマン(ドイツの劇作家)やマルレーネ・ディートリッヒといった有名人の写真を撮った。1936年にライフ誌が創刊されたとき、そのカメラマンの一人。

以来彼は二千にのぼるルポルタージュに写真を載せた。雑誌の表紙を飾った回数も九十回以上もある。もう九十歳を越えているが、いまなお、マンハッタンの七番街にあるタイム・ライフ・ビルの十五階に、小さなオフィスを構えている。窓のない小部屋だが、どこをみても有名人の写真だらけ。ケネディ家の人たち、キング牧師、ソフィア・ローレン、マリリン・モンロー、トーマス・マン、アルバート・アインシュタイン、いずれもスナップ写真だ。額のしわが何本も見える写真もあれば、口元を吊り上げている写真もある。
とりすました文章を読むより、よほど被写体の人格がにじみでている。

彼の秘密?

「私は大勢の人を撮ってきた。自分の好きな人たちばかりだが、嫌いな人も何人かはいたな。私はいつも本質を引き出そうとしてきた、被写体の最良の面をな」

フォトジャーナリストであるアイゼンシュテットの、これが共感の基本姿勢なのだ。かつてイギリスの外相アンソニー・イーデンは彼のことを「優しい死刑執行人」と評した。彼の優れた写真には、時代が濃密に表現されている。
雰囲気のエッセンスがこめられているのだ。アイゼンシュタットの天賦の才はおそらく、一瞬の象徴的な内実を本能的に知覚すること、あるいはそれを予感するところにあるのだろう。

彼はこう言う。

「いい情景というのはな、向こうからやってくるものなんだ。さっと写せば瞬間がとらえられる。それが永遠に消えてしまう前にな」

この言葉はとりわけ、この伝説的な写真「勝者のキス」に当てはまる。写真の成り立ちを聞こう。

「ライフ誌から「タイムズ・スクエアに行って、お祭り騒ぎを写してこい」って言われたんだ。五、六人のカメラマンがニューヨーク市内の各地に、いろんな指示を受けて飛んでいった。私はライカ二台とポケット一杯のフィルムを持って、タイムズ・スクエアに行った。何千人、何万人という人々が駆けまわっていて、そりゃすごかった。なかでも目立ったのは水兵たちだ。連中はあちこちでキスの雨を降らしていた。誰も彼も有頂天。私はひっきりなしに撮った。フィルムをどのくらい使ったかわからない。


そのあと、一人の水兵が通りを走ってきて、出くわした女性全員にキスをしているのが目に飛び込んできた。そして彼は何か白いものをさっとつかんだ。それが何か全然わからなかった。結局は女の子だったんだが、もちろんその娘が太っているのかやせているのか、背が低いか高いかなんて全然。でも私は四枚写した。そして私は駆け出した。
同行していた女性記者は、その男女の名前すらメモできなかった。晩の八時に現像した。翌日、編集者がこう言った。

「おい、アンジー、こりゃ素晴らしい写真だな!」」

実際そうだった。結局、ライフ誌でも一番多く掲載された写真になったが、それだけじゃなかった。記念碑的な「世紀の写真」になったのだ。

(中略)

彼の名はジョージ・メンドンサ。ロードアイランド州ミドルタウンの漁師である。当時は水兵だった。

彼とはニューヨークのホテル、マリオネット・マーキスで会った。歴史的な現場を眺めるのに格好の場所。

「ジョージ、あのときの状況を説明してください」

「俺たちは全員、太平洋の戦争に戻るって思っていたんだ。あれはニューヨーク最後の日だった。ラジオ・シティ・ミュージック・ホールにいたんだ。あとで結婚した女性と二人でな。急にドアを外から激しく叩く音がした。ホールの支配人がショーを中止させ、戦争が終わったって言った。日本が降伏したって」

(中略)

「相手の女性の顔はよく見えたのですか?」

「いや全然、アッという間だったからね。彼女にキスしたとき、俺は目をつむっていたんだ。だからアイゼンシュテットの姿も見えなかった。以後二十年間、あんな写真があることすら知らなかった」

(中略)

だがライフ誌は最後の最後まで抵抗した-「メンドンサ」があの写真の当人だとは証明されていない」と言い張ったのである。

メンドンサは四枚の写真を持って、エール大学のリチャード・ベンソン教授を訪れた。教授はアメリカで、写真判定の絶対の権威だった。


(中略)

メンドンサはシャツの袖をたくし上げて、私に前腕部を見せた。何かが太く浮き出ている。

「教授はこれに特に注目した。神経節っていうんだ。ライフ誌から渡された写真には、それがはっきり写っていた。俺は今日、ベンソン教授が作成・サインしてくれた書類を持っているが、そこで教授は、百パーセント私があの水兵だと断言してくれた」

「ジョージ、さっきあなたは、あとで妻になる女性とラジオ・シティ・ミュージック・ホールにいたって言いましたよね。その女性は、あのキスの現場にいたんですか?」

「いたどころか、彼女こそ私の証拠になってくれたんだ。実はアイゼンシュテットの三枚目の写真でうしろのほうに写っていたんだ-全身がね」

 見てみると、本当にいた。彼女の現在名はリータ・メンドンサ。もちろん笑顔で写っている。

「となると、のちの奥さんになる女性とロマンスが始まっていたのに、別な女の子にキスしたんですか?」

「いや、彼女とは知り合ってからまだほんの一週間だったんだ。あの日はみんなが興奮してたけど、俺たちはまだ別にどうということもなかった」


(中略)

では写真の女性は一体誰なのか?これも、候補者が何人も名乗りを上げた。

(中略)

本物は現在ボルチモア在住のグレタ・フリードマンだった。ヴィーナ・ノイシュタット(オーストリアのウィーン南方の町)の生まれで、1938年のオーストリア併合後、第二次大戦が勃発する直前に、一家といっしょにアメリカに移住した。

(中略)

「私は歯医者の手伝いでしたが、当時は看護婦みたいな服を着るのがふつうだったのです。白い帽子もかぶっていましたが、でもお昼を食べに行くときはとりました。あの日は午前中に、患者さんの間でいろいろな噂が広まりました。
戦争が終わったとかおっしゃった方も、何人かいました。私は本当はどうなのかを確かめに、タイムズ・ビルまで行きました。蛍光板には「日本に勝利! 日本に勝利!」と書かれていました。周囲の人たちがお祝いを始めていました。赤の他人が抱き合っていましたし、
通りではみんながキスしていました」

「そこへあのキスの水兵がやってきたんですね。ドギマギしましたか?」

「ええ、本当に。最初は、抱き締められたこともわかりませんでした。急に起こったことなんで。私は身を振りほどこうとしましたが、そのとき急に彼はキスをしてきたのです」

「何としても彼から離れたかったんですね?」

「ええ、もちろんです! 何だかひどくヘンな感じがしましたからね!」

彼女はフォト・ジャーナリストが、しかもあの高名なアイゼンシュテットがそのキスの瞬間を撮影したことなど、気づいていなかった-気づくはずもない。彼女はいま、この写真を見てどう思っているのだろうか?

「これは人生の特別な瞬間を反映していますね。この写真は平和のシンボルになりました。この写真の一部分になってるなんて、すばらしいと思いません?」

これ以上の言葉はない。

(「戦後50年 決定的瞬間の真実」 グイド・クノップ 畔上司訳 文藝春秋)

アルフレッド・アイゼンスタット:(Alfred Eisenstaedt, 1898年12月6日 西プロシア・ディルシャウ
Dirschau (現ポーランド・トチェフ Tczew) - 1995年8月24日)はドイツ領ポーランド出身のアメリカの写真家・
フォトジャーナリスト(報道写真家)。1935年アメリカに移住。30年以上、「ライフ Life」誌の専属カメラマンとして活動した。

アメリカにおける報道写真家の草分け的存在。報道写真を芸術的な形式まで高めることに貢献した。(Wikipediaから引用)

無論この日は日本が降伏を世界に向けて宣言した日でもある。光と陰、勝者と敗者の一方の姿がこれほど表現されている写真もないかもしれない、日本が敗者となった象徴的な写真の一枚を問えば、僕はアメリカが落とした原爆のキノコ雲の写真を挙げる、そしてその写真も、それ以降の世界を象徴的に現している。(Amehare)



2007/02/12

写真は行きたいところに行き、したいことをするための免許でした

「写真は行きたいところに行き、したいことをするための免許でした」とアーバスは書いた。カメラは道徳の壁や社会的禁忌を取り払い、
写真家の撮影した人びとに対する一切の責任を免除する一種のパスポートである。人間を撮影することの眼目はすべて、
あなたは人間の生活に介入しているのではなく、ただ訪問しているのだということにかかっている。写真家は並はずれた旅行家であり、
考古学者の延長であって、原住民を訪れ、彼らの風変わりな行いや珍しい道具のニュースをもち帰る。写真家はいつも新しい経験を植え付けたり、
見慣れた被写体を新しい眼で見ようとする。退屈と闘おうとしているのである。退屈は魅惑の裏返しであって、
ともにある状況の内側よりも外側に依存しており、一方は他方へ通じている。「中国人は退屈を抜けると魅力に通じるという理論を持っています」
とアーバスは記している。ぞっとするような下層社会(とうらわびしいにせの上層社会)を撮影しながらも、
彼女はそういう世界の住民たちが経験する恐怖の中に分け入る気持ちはなかった。彼らは風変わりなまま、したがって「ぞっとする」
ままでいることになる。彼女はいつも外側からものを見る。


(「写真論」 スーザン・ソンタグ 近藤耕人訳 晶文社)



カメラの視線

「写真は憐憫の情を場違いなものに感じさせる。動転しないこと、恐ろしいものを冷静に直視できることが主眼なのである。しかし
(主として)同情心のないこの視線は特殊な、近代の倫理の構成物であって、不人情というのでなく、ましてや皮肉などではなく、ただ単純に
(あるいはまちがって)無邪気なのである。その痛ましい、悪夢のような現実に対してアーバスは「ぞっとする」「おもしろい」「信じられない」
「すばらしい」「きわものの」といった形容詞を当てたが、それは俗なあたまの子供っぽい驚きである。
写真家の探求についての彼女のわざと無邪気なイメージによれば、カメラはそれを一切とらえ、
被写体に自分たちの秘密を打ち明けるように誘惑し、経験を拡げる装置である。アーバスによれば、人間を撮影することは当然ながら「残酷」で
「卑劣」なことである。大事なことは、見て見ぬ振りをしないことだ。」


(「写真論」 スーザン・ソンタグ 近藤耕人訳 晶文社)



日本の公共

「ここで改めて、「公共」の語の意味を考えてみよう。山本英治は次のように述べている。

「公共性とは人間の生の営みにおける共同性を前提とし、その共同関係を普遍化したものにほかならない。」

ここに言う共同関係の普遍化とは生活と生産を共同の価値のもとに営んでいくことを意味する。したがって公共性とは、
その共同の価値を根底において支える理念である。また真木悠介が言うとおり「歴史の主体-実体は「個人」でも「社会」でもなく
「つながりのある諸個人」の「相互につくり合う関係」そのもの」である。この点、わが国の状況をみると、個人の相互関係という意味ではなく、
もっぱら「公共性」は、単に公権力という意味で理解されてきたように思われる。そして我が国の歴史は国家がこうした公共性を占有し、
個人の相互関係は単なる「私」的なものとして貶められてきた。


その点を安永寿延は次のように述べる。

「日本の近代は、伝統的な公私の観念を基本的に越えることなく、いわゆる「衆の同共する所」としての「公」
性が一方的に拡大されて国家へと凝結するとともに、「私」性がもっとも一面的に縮小されて個人と癒着する。一方、
公として国家の意志を現実化する行政レベルにおいては、「公」性が天皇を最高の頂点とする、階層的な官として人格的に具象化されるとともに、
「私」性は、個人の集合体とされる民へ流しこまれる。・・・・・こうして、国家ないし官が公的原理を独占することによって、個人ないし民の
「公」性を剥奪するとともに、個人や民に対して一方的に「私」性の烙印が押される」


そしてこの「公」と「私」の関係に善悪の関係がもちこまれ、「公共」的なものは公正であり、「私」
的なものは恣意的であるとされるのである。ここに我が国独特の公共性の概念が見られる。しかし、真の意味の公共性とは、まさに、真木のいう
「相互につくり合う関係」、あるいは共同の利害関係のうちにあるのであり、アーレントの言う、
人々が相互の関係の中から紡ぎだしていくものの総体なのである。共和国の構成員は国民でなく「公民」なのであり、共和主義の国家とは、
自由な討論を通じてつくり上げていく公共的意志決定によって成り立つものである。その意味で、この公共性の概念は、
ナショナリストの主張するような民族的、共同体的な公共概念とは、遠く隔たっているといえる。アーレントが提示した、
公共性の豊穣なイメージに喚起されながら、共同体への回帰ではない、新たな公共性の空間を創造することが急務であるように思われる。


(「ハンナ・アーレント入門」 杉浦敏子 藤原出版)


山本英治編:「現代社会と共同社会形成」(1982年 恒内出版)

真木悠介:「現代社会の存立構造」(1982年 筑摩書房)

安永寿延:「日本における公と私」(1976年 日本経済新聞社)



アーレントとスキナーの親和性

「一方で、Q・スキナーも自由主義を評価しながらも、共和主義的概念を蘇らせることを主張する。
もしわれわれが自分たちの自由を確保し、自由の行使を不可能にするような隷属を避けたいと思うなら(これは自由主義の言う消極的自由)、
市民としての徳を陶冶し、共通善のために尽力する必要があると。つまり私的利害よりも上位にある公共善の観念は、
個人が自らの自由を享受するための必要条件であるというのである。言い換えれば、自己増殖への必然的な傾向を常にもつ政治権力は、
これに対していくら制度的、機構的制約を施しても、いつでもこれを突破する危険を内包しており、それゆえに、個人の自由を、
いかなる犠牲を払っても守ろうとする「公民」の自覚的努力なくしては、各人は自らの自由すら守ることはできないということである。「公民」
が私的自由を確保するためにこそ、「公民的徳」(civic virtue)を持ち「公的世界」に参加し、公共への奉仕を果たす
「公民の義務」(civil duty)の遂行の必要性が説かれるのである。ここにもアーレントの思想の親和性が見られる」


(「ハンナ・アーレント入門」 杉浦敏子 藤原出版)


Q・スキナー:クェンティン・スキナー、Quentin Robert Duthie Skinner、1940-、
イギリスの政治学者

「マキアヴェッリ――自由の哲学者」(1981)、「自由主義に先立つ自由」(1998)



アーレントとムフの共通点

「アーレントの主張はラディカル・デモクラシーの論者であるC・ムフの議論と多くの共通点を持つ。ムフは次のように述べる。
自由主義の主張するシチズンシップは、各人で自らの善の定義を形成し、修正し、合理的に追求する能力のことであり、彼らの考える共同体も
「道具的」な共同体、つまりあらかじめ利益もアイデンティティも定義されている諸個人が、
自分たちの利益を促進したいがために参入する共同体である。これに反して共和主義の主張する共同体は個人的な欲求や利害に先立って存在し、
しかもそうした欲求や利害から独立して存在する公的な善の観念を強調する共同体である。ムフは、
すべての個人は生まれながらに自由かつ平等であるという主張に基礎付けられた、
普遍的なシチズンシップの概念を定式化した点において自由主義を評価する一方で、個人が国家に対抗して持ち出す権利を重視することによって、
シチズンシップを単なる法的権利にすぎないものにしてしまったことを批判する。同時に、もっぱら生産力を向上させ、
各人の個人的成功を助けるものとしてのみ社会的協同といったものをとらえる点において自由主義を批判する。さらにムフは、
参加を重視するシチズンシップの観念の強調は、個人の自由を犠牲にする形でなされるべきではないという点において共和主義をも批判する。
「個人」は「市民」のために犠牲にされてはならない。つまり、ムフはシチズンシップの内実を個人主義的自由主義が損なってきたことを批判し、
古典的共和主義の伝統の中に保たれている参加を重視するシチズンシップの観念を取り戻す必要があるとしながらも、
それを近代における多元主義を無にする形で行ってはならないと主張する。ここでムフの主張する多元主義がまさにアーレントが強調する
「複数性」なのである。」


(「ハンナ・アーレント入門」 杉浦敏子 藤原出版)


C・ムフ:シャンタル・ムフ、Chantal Mouffe、1943-、ベルギー出身の政治学者

「民主主義の逆説」(2000)、「政治的なるものの再興」(1993)



アーレントの「評議会制度」

「ここまでアーレントの共和主義の内実を検討してきたが、では彼女は具体的にどのような政治制度を構想していたのだろうか。彼女は、
アメリカ革命の革命精神を制度化するようなものとして、ジェファーソンの主張する「ウォード」(ward)
という小規模な共和国が政治の基本単位となり、それがピラミッド型に積み重なるような政治体制を構想した。この延長線上に有名な
「評議会制度」(council-system)がある。フランス革命時の「革命協会」、1871年のパリ・コミューン、1905年、
1917年のロシア革命におけるソヴィエト、1918-19年のドイツ革命におけるレーテ、
1965年のハンガリー動乱における評議会などが歴史上有名である。彼女は政党制や代議制を批判する。
政党制や議会制は代表によって成立する。しかし、「利害や福祉」は代表できるが「活動や意見」は代表できないのである。評議会制度とは、
政党制や代議制に代わるものであり、その特徴はその成立における自発性にあり、そこは市民が意見を戦わせる自由で公的な空間であった。
この評議会制度は連邦制の原理とも結びつく。」


(「ハンナ・アーレント入門」 杉浦敏子 藤原出版)



アーレントとルソーの異なる点

「アーレントがルソーと異なるのは、人民が結合するのは、共通の意志によってではなく、共通の世界を共有することによって、
とする点においてである。自由と平等の観点を維持しながら、人々が一緒に暮らすために、同じように存在し、
同じように思考することは必要でない。

市民が結びつくのは、彼らが同じ公的空間に住み、関心を共有することによって、また方を認め、
意見が対立するときは調停するという取決めによってであって、単一の意見の形成によってではない。


「すべての意見が同じになったところでは、意見の形成は不可能になる。そして意見を全員一致のものにつくり変える「強い人間」
が待ち受けられるようになったとき、すべての意見は死ぬ。」


「全員一致の意見」といったものは、アーレントにとってはそもそも危険の兆候であり、人々が考えることを止めたサインである。
「大衆の全員一致は、同意の結果ではなく、狂信とヒステリーの表現である。」
ここに全体主義への転落という民主主義の陥穽が待ち受けているのである。」


(「ハンナ・アーレント入門」 杉浦敏子 藤原出版)


引用は、ハンナ・アーレント 「革命について」 志水速雄訳 ちくま学芸文庫



2007/02/11

父性権下での女性の位置としての「ファグ・ハグ」という言葉

「もし父権制下における男女関係が男性の同性愛としか帰結しないのであれば、
もし父権制下では男性同士の関係は異性愛を口実とした同性愛関係でしかないならば、このとき女性の位置は、男性同性愛者を愛する<ファグ・
ハグ>あるいは<おこげ>でしかない。


<ファグ・ハグ>は、ある種のクィアな傾向を持つ女性のことではなく、父権制下での男性のホモソーシャル体制において、
すべての女性がひとしく享受させられる場となる。ホモソーシャル関係の管理体制のなかでは、女性はすべて<ファグ・ハグ>なのである。
そしてもし、ここでしばしば使用している「父性権下での」人間関係あるいはホモソーシャル体制が、
あたかも<旧体制>時代のことであるように語れる時代がくるならば-その時代はかぎりなく近いともいえるし、また、
はてしなく遠いとも両方の規定ができるのだが-、そのあかつきには<旧体制>のホモソーシャル体制の典型的な-おそらく悪しき-表象として、
この<ファグ・ハグ>もまた特権的な地位を享受するかもしれない。


(平成8年11月1日発行 第28巻第13号 「ユリイカ」 11月号 「ご主人を拝借」 大橋洋一)



「ファグ・ハグ」という言葉について

英語としてのfaghagは、ミソジニックなヘテロよりも、ナルシスティックなホモの間で流通するきわめて差別性の高い用語であって、
これを記述用語として使用できるのは、英語以外の文章に限られるかもしれない


(平成8年11月1日発行 第28巻第13号 「ユリイカ」 11月号 「ご主人を拝借」 大橋洋一)



セジウィックの「密林の野獣」解釈

「この目撃者の女性、当惑する/嫉妬する女性こそ、父権制下において同性愛を選択する男性どうしの人間関係の中で、
女性が置かれている立場の表象にほかならない。これはホモソーシャル理論において、
ミソジニックでホモフォビックなヘテロとナルシスティックなホモとの挟み打ちのなkで、居場所を失う女性の、まさに位置(付け)
の政治学の問題ともからむ。


そしてまたこれは、
正装の男性ふたりのあいだに裸体の女性を配したマネの<草上の昼食>を表紙に選択したセジウィックの Between Men から、
セジウィックの次著「クロゼットの認識論」への移行とも重なりあうだろう。はたせるかな「クロゼットの認識論」
へと成長した議論の原基ともなった、「密林の野獣」(ヘンリー・ジェイムズ作の中編小説)論であつかわれている当の作品そのものが、
セジウィックによれば、傍観者へと追いやられた女性と男性同性愛との関わりを軸に展開するものだった。
ならば同性愛的欲望の力学において女性が、男性主体の欲望の容器となっている可能性をも考慮しつつ、
ホモソーシャル関係を異性愛的女性を中心にして反復され生産されていることを一瞥してみよう。


「密林の野獣」は数年ぶりに再会した男女が親密な交際をつづけながらも、男のほうが自分の人生にはカタストロフ
(密林に潜んでいつ何時襲ってくるかわからない野獣)があると確信しているため、結婚にも肉体関係にもいたれないまま終わる。
ふたりは年老いて、女のほうが死ぬ。男は、この女性の友人の死こそがカタストロフであり、手遅れになった時点で女性への愛を確認し、
自分の人生には情熱が欠けていたことを知る(ただしジェイムズのこの作品は、他の作品の例にもれずきわめて曖昧なため、
このような一義的解釈を拒むところはあるが)。


従来の解釈は、この作品あるいは主人公の自己解釈を複製し、彼は彼女を愛していたにもかかわらず、自分では認めようとしないまま、
彼女を失い、いっぽう彼女も彼を愛していたが、それを理解してもらえずに終わるといった類の異性愛言説を君臨されてきた。


いっぽうセジウィックは、これを同性愛をめぐるものに読みかえる。状況証拠を参照し、作者の性的傾向をも参照しながら、
主人公の男性は同性愛者かもしれないし、そうでないかもしれないが、
自分が同性愛者であるかもしれないという可能性に怯えるホモセクショナル・パニックがあるというように。


セジウィックの解釈に対してはデイヴィット・ヴァン・リーアの批判がある。このゲイ批評家が、その反論のなかで
(ただし反論の全体像はここではとりあげないが)、セジウィックの議論では、ここにいる女性は、
ゲイの差別的スラングでいうところの男性同性愛者を愛する女性、「ファグ・ハグ faghag」(いわゆる「おこげ」)
ではないかといっているところが興味深い。「密林の野獣」は男女一組の物語で、第三の男は存在しない。だがヴァン・リーアのひとことで、
この作品は同性愛男性と女性の三人組(スリーサム)の物語へと変貌をとげる可能性にも開かれた。


また「ファグ・ハグ」問題にふれたとおぼしき一節で、セジウィックは、ホモセクショナル・パニックにある男性、
あるいは危機的状況にある男性に対して、女性はかぎりない魅力を感ずるものだと論証ぬきで述べ、「わたしたちはみな、
それを知っているのではないか」と、直感的・経験的同意を読者に求めている。


(平成8年11月1日発行 第28巻第13号 「ユリイカ」 11月号 「ご主人を拝借」 大橋洋一)



2007/02/10

欲望の三角形

「父権制下における男性集団の結束は、女性の交換を基盤としていることは、レヴィーストロースが「親族の基本構造」
のなかで説いたとおりである。ただし、人間社会に普遍的にみられるとされる族外婚と近親愛タブーは、
父権制集団におけるローカルな画一化と同質化を避ける差異化と開放の原理であるかにみえて、その実、
レヴィーストロースも暗示しているように、男性どうしをより緊密に結束させる同性愛的原理の別名である。花嫁がいっぽうの家父長から、
いまいっぽうの家父長に財産あるいは贈与物として交換されることで家父長どうしの関係が強化される。これを「ドン・キホーテ」
から現代の小説に至る近代西欧小説の恋愛関係の基軸としてみたのは、ルネ・ジラールの「欲望の現象学」だった。
ジラールのいう<欲望の三角形>、あるいは<模倣的欲望>は、男女の愛が直接的・無媒介に生起するのではなくて、つねに間接的に触媒され、
三角関係という迂路をたどることのグラフィックな顕現である。愛の対象への欲望は、
同じ対象を欲望する第三の人間の存在をまって初めて生じるのであって、わたしの欲望と思えるものは、その実、他者の欲望(あるいはその模倣、
反映)にほかならない(これは西欧における恋愛の起原を「不倫関係の発生」に求めたルージュモンの「愛について」とも繋がるが、また、
これを家族関係に適用したのがフロイトのエディプス三角形でもあった)。ふたりいるところ、かならず第三の人物がいる。2は3であって、
恋愛とは三角関係なくして生じない。しかもライヴァルは憎まれると同時に愛されもするという二重の両義的存在となる。だが、
これをさらに敷桁し、レヴィーストロースやジラールが思いもよらなかった方向に傾斜させ、
異性愛関係を同性愛関係によって説明する理論が登場する。いうまでもなくイヴ・コソフスキー・セジウィックのホモソーシャル理論である。


男と女のヘテロな恋愛関係が、つねに男ふたりと女ひとりの三角関係に対する重ね書きであるなら、
男ふたりが同じ女性を求めるという三角関係は、頻出するが同時に一要素にすぎないものから、すでにいつも存在する常態そのものへと移行する。
このとき、どちらの強度がまさるかが問題になる-男性にとって女性への絆か、ライヴァルの男性の絆か。
男性のホモソーシャル関係が女性への愛に優先する父権制であって、この三角形は、
最終的に女性の排除と男性どうしの絆の強化に奉仕するだけである。ただ三角関係がつづくあいだ、主導権は女性へと移行する。
女性はいっぽうで男性どうしをライヴァルというかたちで結合させたり、反目させたりするため、
女性は結合と分離とをつかさどる危機的可能性そのものとなる。もし最終的に男性が女性を、
排除するか報摂するかたちで首尾よくコントロールできれば、男性のホモソーシャル関係は強化されるが、
これに失敗すると男性どうしの絆は断ち切られてしまう。女性は男性にとって魅惑の対象であるとともに恐怖の対象となる。
したがってホモソーシャル体制は異性愛体制でありながら、女性への嫌悪と恐怖に色濃く染め上げられているのだ。
またさらにミソジニーから生じる同性愛的可能性を消去すべく、ホモソーシャル体制は同性愛的可能性を消去すべく、
ホモソーシャル体制は男性同性愛者への嫌悪を強化する。ホモソーシャル体制下では、同性愛は男性集団の結束の鍵となるが、
この公然たる秘密の同性愛の汚名から逃れるためにホモソーシャル体制は男性同性愛を徹底して嫌悪する。かくして、ホモソーシャル体制は、
異性愛体制であることを名目としながらも、女性を嫌悪し、なおかつ男性同性愛者をも嫌悪する。ミソジニーとホモフィビア。
ホモソーシャル体制を支える二大原理である。」


(平成8年11月1日発行 第28巻第13号 「ユリイカ」 11月号 「ご主人を拝借」 大橋洋一)



ダゲレオタイプとポートレート

「ダゲレオタイプとは、1839年にフランス人のルイ=ジャック=マンデ・ダゲールが発明し、
その製法が公表された世界最初の写真術であり、金属板(銀メッキを施した銅板)を使用した1点限りの画像を作り出す技術である。
ダゲレオタイプはポートレート写真を制作するための手段として欧米を中心に広まっていき、
都市部を中心として肖像写真が次々と開設されていった。人々は肖像写真館や地方を巡業する写真師に依頼するなど、
こぞってポートレート写真を撮影してもらったのである。ダゲレオタイプの発明と普及を契機として、
それまでは王侯貴族などの限られた階級の人しか所有できなかったポートレートが、広く人々の手に行き渡ることになった。


ダゲレオタイプの撮影に使われる金属板のサイズは通常5×6センチから16.5×21センチくらいであり、
ポートレート写真はほとんどの場合、手のひらに収まるような大きさだった。ダゲレオタイプの特徴は、
細密画のような鮮明なディテールと階調の豊かさにあり、顔や衣服の写っている部分に彩色を施すことによって、
よりリアルな印象を作り出すような試みもおこなわれていた。表面を覆う被膜はきわめて薄く傷つきやすかったため、
表面にはガラスがかぶせられ、紺色やえんじ色のような深い色合いの革やベルベットの布を内側に貼ったケースの中に収められていた。


ダゲレオタイプのなかには、ボタンに埋め込んだり、指輪やブローチ、ペンダントのようなアクセサリーに仕立て上げられるものもあった。
つまりダゲレオタイプのポートレート写真は、壁に掛けて眺めるというよりも、手鏡やアクセサリーのように肌身離さず持ち歩いたり、
身につけたりすることができるものだった。ダゲレオタイプを手に取って見る人は、
写っている人に接近したり触れたりするような親密な感覚を感じ取っていたのだろう。」


(「写真を<読む>視点」 小林美香 青弓社)



不愉快なものの敷居を低くする芸術

「アーバスの作品は資本主義国での高級な芸術のひとつの指導的な傾向、つまり道徳的・感傷的な吐き気を抑える、
あるいは少なくとも減少させる傾向の好例である。近代芸術の多くは不愉快なものの敷居を低くすることに熱心である。
あまりにショッキングだったり、痛ましかったり、当惑させたりで、以前は見聞きするに耐えなかったものに私たちを慣らすことによって、
芸術は道徳-情緒や自然感情からいって、我慢できるものとできないものの間にあいまいな線を引く、あの精神の習慣と公衆の是認という代物-
を変えるのである。次第に吐き気を抑圧することによって、私たちはいくぶん公式的な真理-
芸術と道徳が構築したタブーは気まぐれなものだという真理に近づけられる。しかし、映像(映画と写真)
と印刷で増大する一方のこのグロテスクはものを、私たちが消化する能力をもつことは途方もなく高いものにつくのである。
結局それは自我の解放ではなく、自我からの控除、つまり恐ろしいものへのいいかげんな慣れが疎外を助長し、
現実生活に反応しにくくさせるのである。今日のテレビの暴力シーンや近所のポルノ映画を初めて見せられた人びとに起こる感情は、
アーバスの写真を初めて見たときに起こる感情とそう違ってはいない。」


(「写真論」 スーザン・ソンタグ 近藤耕人訳 晶文社)



肝試しの芸術

「アーバスの写真を見ることが文句なく試練であるかぎりは、それらの写真はちょうどいま、
洗練された都会人の間で人気のある芸術の典型的な種類、自ら志願した肝試しであるところの芸術なのである。彼女の写真は、
人生の恐怖は吐き気を催さずに対面できるのだということを実証する機会を提供している。この写真家は一度は自分に向かって、よし、
引き受けた、といわなければならなかった。写真を見る人にも同じように請け負うことを求めている」


(「写真論」 スーザン・ソンタグ 近藤耕人訳 晶文社)



2007/02/09

スーザン・ソンタグ「写真論」 プラトンの洞窟で


  •  人類はあいもかわらずプラトンの洞窟でぐずぐずしており、昔ながらの習慣で、
    ひたすら真理の幻影を楽しんでいる

  • この飽くことを知らない写真の眼が、洞窟としての私たちの世界における幽閉の境界を変えている。
    写真は私たちに新しい視覚記号を教えることによって、なにを見たらよいのか、なにを目撃する権利があるのかについての観念を変えたり、
    広げたりしている。

    写真は一つの文法であり、さらに大事なことは、見ることの倫理であるということだ。そして最後に、写真の企画のもっとも雄大な成果は、
    私たちが全世界を映像のアンソロジーとして頭の中に入れられるという感覚をもつようになったということである。

  • ゴダール「カラピニエ」(1963)

  • クリス・マイケル 映画「ひとこぶらくだが四頭あれば」(1966)

  • 写真は証拠になる。

  • 1871年6月、パリコミューン支持者の残虐な検挙の際にパリ警察が写真を利用したのに始まって、
    写真は近代国家がそのますます流動的になっていく人口を監視・統御するための有用な道具になった。

  • 写真のもうひとつの利用法に記録写真による正当化がある。一枚の写真はある事件が起こったことのゆるがぬ証拠となる。
    写真は事実を歪めているかもしれない。しかし何か写真にあるようなものが存在する、あるいは存在した、という推定はつねにあるのである。

  • アレフレッド・スティーグリッツやポール・ストランドのような崇高なる大家にしても、まずなによりも「そこにある」
    ものを写して見せたいのであって、その点では写真は手っ取り早い筆記の形式と考えるポラロイド・カメラの持主や、
    ブローニー判カメラで日常生活のスナップを思い出のためにぱちぱち撮る写真狂いと変わらないのである。

  • 絵画や散文で描いたものは取捨選択した解釈以外のものではありえないが、写真は取捨選択した透かし絵として扱うことができる。

  • およそ写真に権威と興味と魅力を与えるものは真実らしさであると仮定してみても、
    写真家のやる仕事は芸術と真実の間でおこなわれる、えてしてあいまいなやりとりの、特別例外というわけではない。
    写真家が現実を鏡に写すことに心を奪われているときでさえ、やはり趣味や良心が命ずる無言の声につきまとわれている。

  • 写真をどう写すか、どの露出を選ぶかを決めるにあたって、写真家はつねに自分の主題に対していろいろな基準をはめている。
    カメラは実際に現実をとらえるのであって、それをただ解釈するのではないという意味もあるが、
    写真は絵画やデッサンと同じように世界についてのひとつの解釈なのである。

  • 写真の撮影が比較的対象を撰ばぬ無差別的なものだったり、自分が表に出ない場合でも、
    計画全体の教訓的傾向が減るというわけではない。写真の記録がもつこの受動性-それと偏在性-こそが、写真の「メッセージ」であり、
    攻撃性である。

  • カメラを使うときはどんな場合でもある種の攻撃性が内在しているものだ。

  • 技術の進歩によって、
    世界を一組の潜在的な写真と見る思考性がますます広がったその後の何十年間にもわたってもそういえる

  • 写真を撮ることの主眼は画家の狙いから大きく逸脱するものであった

  • 写真家は当初からできるだけ多数の主題をとらえることを含みにしたが、絵画はそれほど壮大な視野をもつことがなかった。

  • カメラ製作技術の産業化の結果は、写真術がそもそもの始まりから受け継いできた約束、
    つまりあらゆる経験を映像に翻訳することによって民主化するという約束の実現にほかならなかったのである

  • 写真はその産業化をまって、初めて芸術としての地位を得るようになった

  • 産業化の結果、写真家の動きに社会的効用が生まれたが、そういった効用に対する反動が、
    芸術としての写真の自己意識をよび覚ますことにもなった

  • 最近では写真はセックスやダンスと同じくらいありふれた娯楽になった。そのことは、大衆芸術というものはどれもそうだが、
    写真が大部分の人にとって芸術ではなくなったことを意味している。それは主として社交的な儀礼であり、不安に対する防御であり、
    また権力の道具なのである

  • カメラは家庭生活とともにある

  • どこの家でも肖像写真による年代記-一家をめぐっての証言となる一冊の写真帖がつくられる。
    どういう活動が写っているかは問題ではなく、写真が大事にされていればいいのである

  • ちょうどヨーロッパとアメリカの工業国で、家族制度そのものが根本から揺らぎはじめたときに、
    写真が家族生活のひとつの儀式になったのである。
    あの密室恐怖症的な単位である核家族が大家族集合体から刻み出されたところへ写真がやってきて、ぎくしゃくした家庭生活や、
    薄れていく親戚付き合いを記念写真に撮って、あらためて象徴的に明示したのである。そういった亡霊の痕跡である写真は、
    散らばった縁者の存在の証拠となっている。

  • 写真はいまは現実味のない過去を、想像の中で人びとに所有されるが、それはまた定かでない空間を人びとに所有させる役にも立つ。
    こうして写真は現代人の活動のなかでももっとも特徴のある観光にともなって発達する

  • 当然ながら、カメラをもたない観光旅行は不自然に思われる。写真はその旅行がおこなわれ、予定どおりに運び、
    楽しかったことの文句のない証拠になる

  • 写真撮影は経験の証明の道ではあるが、また経験を拒否する道でもある。写真になるものを探して経験を狭めたり、
    経験を映像や記念品に置き換えてしまうからである

  • 旅行は写真を蓄積するための戦略となる。写真を撮るだけでも心が慰み、
    旅行のためにとかく心細くなりがちな気分を和らげてくれる。観光客は自分と、
    自分が出会う珍しいものの間にカメラを置かざるをえないような気持ちになるものだ。どう反応してよいかわからず、彼らは写真を撮る。

  • おかげで経験に格好がつく。立ち止まり、写真を撮り、先へ進む。
    この方法はがむしゃらな労働の美徳に冒された国民であるドイツ人と日本人とアメリカ人にはとりわけ具合がよい。
    ふだんあくせく働いている人たちが休日で遊んでいるはずなのに、働いていないとどうも不安であるというのも、
    カメラを使えば落ち着くのである。彼らにはいまや労働を優しく模倣したような手仕事ができた-彼らは写真を撮ればよい

  • ライカの広告

    「・・・・・・プラハ・・・・・・ウッドストック・・・・・・ヴェトナム・・・・・・サッポロ・・・・・・ロンドンデリー・・・・・・
    ライカ」

  • 一枚の写真はたんに写真家がひとつの事件に遭遇した結果なのではない。写真を撮ること自体がひとつの事件であり、
    しかもつねに起こっていることに干渉したり、侵したり、無視したりする絶対的権利をもったものなのである

  • 私たちの状況感覚そのものが、今日ではカメラの介入によって明瞭になっている。カメラの偏在は時間が興味ある事件、
    つまり写真を撮るに値する事件からなっているということの、説得力ある示唆となっている。

  • どんな事件もひとたび動き出せば、その倫理性がどんなものであれ、その完結を持つべきであり、その結果なにかべつのもの、
    つまり写真が、この世にもたされるというふうに思いやすくなるのである。事件が終わったあともその写真は存続し。
    その事件にそうでもなければえられなかったような一種の不滅性(と重要性)を付与するのである。ほんものの人間がそこにいて自殺したり、
    べつのほんものの人間を殺したりしている間に、写真家は自分のカメラをうしろにいて、もうひとつの世界-
    私たちみんなよりも長生きすると宣言している映像世界-の小片をつくっているのだ。

  • 写真撮影は本質的に不介入の行為である

  • 写真家が写真と生命のどちらを選択するかというときに、
    写真の方を選択することが認められるようになったのだという感慨に根ざしている。介入する人間は記録することができない。
    記録している人間は介入することはできない。

  • ジガ・ヴェルトフ 映画「カメラを持つ男」(1929) 革命後ロシア

  • ヒッチコック 映画「裏窓」(1954) アメリカ

  • 身体的な意味での介入とは相容れないにしても、カメラを使うことはやはり参加のひとつの形式である

  • カメラは一種の監視所であるにしても、写真を撮る行為は消極的な監視以上のものである。性的な覗き見趣味と同じ事で、
    それは少なくとも暗黙のうちで、またしばしばあからさまに、
    進行中のものはなんであろうとそのまま起こり続けるように奨励する方法である。

  • アントニオーニ 映画「欲望」(1966)

  • マイケル・パウエル 映画「血を吸うカメラ」(1960)

  • それでいてやはり、写真を撮る行為にはなにか略奪的なものがある。人びとを撮影するということは、
    彼らを自分では決して見ることがないふうに見ることによって、
    また自分では決して持つことができない知識を彼らについてもつことによって、彼らを犯すことである。

  • それは人びとを、象徴的に所有できるような対象物に変えてしまう。ちょうどカメラが銃の昇華であるのと同じで、
    だれかを撮影することは昇華された殺人、悲し気でおびえた時代にふさわしい、ソフトな殺人なのである

  • 人びとが弾丸からフィルムに切り替えることによって見られる状況のひとつに、
    東アフリカでは写真のサファリが銃のサファリに取って代わりつつあるということがある

  • サミュエル・バトラー 「どこの藪にも写真家がいて、ライオンのように喉を鳴らして獲物を探し回っている」

  • 私たちは恐ろしいと思えば銃を撃ち、懐かしいと思えば写真を撮る

  • いまはまさに郷愁の時代であり、写真はすすんで郷愁をかきたてる。写真術は挽歌の芸術、たそがれの芸術なのである。

  • 写真に撮られたものはたいがい、写真に撮られたということで哀愁を帯びる

  • 美しい被写体も年をとり、朽ちて、いまは存在しないがために、哀愁の対象となるのである

  • 写真はすべて死を連想させるものである。写真を撮ることは他人の(あるいは物の)死の運命、
    はかなさや無常に参入するということである。まさにこの瞬間を薄切りにして凍らせることによって、
    すべての写真は時間の容赦のない溶解を証言しているのである

  • カメラは人間の風景がめまぐるしいほどの変化をこうむりはじめた時点で、世界の写しを作りにかかった。数知れぬ生物的、
    社会的生活形式が短期間に破壊されている一方で、ひとつの装置が消えていくものを記録するのに役立っている

  • 写真は偽りの現在でもあり、不在の徴しでもある。暖炉の薪の焔のように、写真、とりわけ人物や遠い風景、はるかな都市、
    失われた過去の写真は空想を誘う。写真によって喚び覚まされた、手の届かないものへの想いは、
    離れているためにますます望ましくなる人びとへの恋情をじかにかきたてる

  • ダイアン・アーバス 「わたしはいつも、写真はやくざなものだと思っていました。
    それがまたわたしが好きなところのひとつでした。それではじめて写真を撮ったときは、自分がひどく倒錯しているような気がしたものです」

  • 欲望には歴史がない-少なくともそれは個々の事例において、すべてが前景の直接性として経験される。
    それは色々な原型によって喚び起こされ、そういう意味では抽象的である。しかし道徳感情の方は歴史にはめ込まれており、
    その登場人物は具体的で、その場面はいつも特定である。

  • どこか一般に知られていない地域での窮状を訴える一枚の写真は、それにふさわしい心情や態度の文脈がないと、
    世論に感銘を与えることはできない

  • 写真は道徳的立場を作り出すことはできないが、それを強化することはできるし、
    生まれ出ようとするものに力を貸すことはできる

  • 写真は時間の明快な薄片であって流れではないから、動く映像よりは記憶に留められるといえよう。
    テレビは選択度の低い映像の流れであって、つぎつぎと先行のものを取り消していく。スチール写真はそれぞれ、
    特権的な瞬間をきゃしゃな物体に変じたもので、人はそれを自分のものにして、もう一度眺めることができる

  • アメリカ人はたしかにヴェトナム人の苦難の写真に近づきはした。
    その事件は相当数の人たちから野蛮な植民地戦争と定義されていたので、
    ジャーナリストはそういった写真の入手努力を支持されていると感じたからである。朝鮮戦争は自由社会のソ連・
    中国に対する正当な闘争の一部として、ちがったふうに理解されていたので、そう性格づけをされれば、
    アメリカ軍の無制限火力の残虐性を示す写真も関係なかったであろう

  • ひとつの事件がまさしく撮影に値するものを意味するようになったとしても、
    その事件を構成するものがなんであるかを決定するのは、(もっとも広い意味で)やはりイデオロギーなのである

  • 事件そのものに名が付けられ、性格づけられるまでは、事件については写真であろうとなんであろうと、なんの証拠もありえない。
    そして事件を構成しえるもの-もっと正しくいえば、認定しえるものは決して証拠写真などではない。
    写真の寄与はいつも事件の命名のあとでおこなわれる。写真によって道徳的に影響される可能性の決め手は、
    それに関連した政治的意識があるかどうかということである

  • 写真はなにか目新しいものを見せているかぎりはショックを与える。不幸なことに、
    賭金はこういう恐怖の映像の増殖そのものからもだんだん釣り上がっていく。

  • 苦悩することがひとつ。苦悩の映像と暮らすことはまた別である。それは必ずしも良心や同情心を強めることにはならないし、
    それらを堕落させることもある。いったんこういう映像を見てしまうと、あとはつぎからつぎへと見る羽目になる。映像は立ちすくませ、
    麻酔をかける。写真を通して知った事件は、写真など見なかった場合よりはたしかに現実味を帯びる。しかし何度も映像にさらされると、
    それも現実味を失ってくる。

  • ポルノグラフィーに対すると同じ法則が悪に対しても通用する。初めてポルノ映画を観たときに覚える驚きと困惑も、
    あと数本も観れば薄れていくように、残虐な場面の写真が与えるショックも、繰り返し眺めているうちに薄れていくものである。

  • 我々を憤慨させたり悲しませたりするタブーの感覚も、
    猥褻なものの定義を規定するタブーの感覚にくらべてとくに根強いというわけではないのだ

  • この三十年の間に、「社会派」の写真は良心を目覚めさせもしたが、少なくも同じくらい、
    良心を麻痺させてもきたのである

  • 写真の倫理的内容はもろいものである。そういったナチ収容所のような恐怖の写真で、
    倫理上の参照基準の地位を獲得したものについて考えられる例外を除けば、たいていの写真は心情の電荷を維持してはいない。
    1900年の写真でその主題ゆえに影響力のあったものが、今日ではむしろ、
    それが1900年に撮られた写真であるがゆえに私たちを感動させるという次第であろう

  • 写真の特別な性質とか意図は、過去の時間の一般化された哀愁の中に呑みこまれてしまう傾向にある。美的距離というものは写真を、
    いますぐにではなくても、ならばいかにも時間の経過とともに、見るという経験そのものに組み込まれているようである。
    時間というものは結局はたいがいの写真を、およそ素人ふうのものであろうと、芸術と同列の高さにおくことになる

  • 写真の産業化の結果、写真は急速に現行の社会の合理的な-つまりは官僚的な-方法に吸収されていった。
    写真はもはや玩具の映像ではなく、環境の一般的な家具の一部、現実的と考えられる。現実へのあの還元的なアプローチの試金石であり、
    確認となったのである。写真は重要な管理制度、すなわち家族と警察の務めに、記号的物体と情報物件として組み入れられた。

  • 官僚主義と両立する「現実的な」世界観は、知識を技術と情報として再定義する。
    写真が重んじられるのは情報を提供するからである。

  • 文化史のなかでは、写真が提供する情報は、だれもがニュースとよばれるものをえる権利があるとかんがえられた時点で、
    大いに重要視されだすのである。写真はなかなか字を読もうとしない人たちに知識を与える方法と見なされるようになった

  • 写真映像をめぐって新しい感覚の情報の観念が構築されてきた。写真は時間だけでなく、空間の簿片でもある。
    写真映像に支配された世界では、境界(「フレーミング」)はすべて任意のものに思われる。

  • 要するに主題を違ったふうに切り取ることがかんじんなのである

  • 写真術は唯名論者が社会的現象を、見たところ無限にある小単位から成り立っていると考えるのに力を貸している。
    なににつけ撮影可能な写真の数は無制限だからである。写真を通じて世界は一連の無縁で自立した分子となり、過去・
    現在の歴史は一揃いの逸話と雑報となる

  • カメラは現実を原子的な、扱いやすい、不透明なものにする。それは相互連結や連続性を否定するが、
    各瞬間に神秘性を付与する世界観である。

  • どんな一枚の写真にも多様な意味が含まれている。

  • 写真映像の基本的な知識

    「そこに表面がある。さて、その向こうにはなにがあるのか、現実がこういうふうに見えるとすれば、
    その現実はどんなものであるはずかを考えよ、あるいは感じ直観せよ」

  • 自分ではなにも説明できない写真は、推論、思索、空想へのつきることのない誘いである

  • 写真の含意は、世界をカメラが記録するとおりに受け入れるのであれば、私たちは世界について知っているということである。
    ところがこれでは理解の正反対であって、理解は世界を見かけ通りに受け入れないことから出発するのである。
    理解の可能性はすべて否といえる能力にかかっている。厳密に言えば、ひとは写真から理解するものはなにもない。

  • もちろん、写真は現在と過去のわれわれの心的絵巻図の空白を埋めてくれる。

  • それでもカメラによる現実描写はつねに明かすよりも隠すものの方が多いに違いない。

  • あることがどう見えるかに基づいている恋愛感情とは対照的に、理解はそれがどう機能するかに基づいている。
    そして機能は時間の中でおこなわれ、時間の中で説明されなければならない。
    物語るものだけが私たちの理解を可能にしてくれるのである

  • 写真による世界の認識の限界は、それが良心を刺激しながらも、結局は倫理的あるいは政治的認識にはなりえないということである。

  • スチール写真を通して得た知識は皮肉なものであろうとヒューマニストのものであろうと、つねにある種の感傷主義となるものだ。
    それは割引の知識-見せかけの知識、見せかけの智慧となる。写真を撮ると言う行為が私物化のまねごと、強姦のまねごとなのであるから。

  • 写真では仮定としては理解できるものが黙しているというそのことが、その魅力でもあり挑発的なところでもある。
    写真の偏在は私たちの倫理的な感受性にはかり知れない影響を与えている。

  • 写真はこの既に雑多な世界に複写の映像を一枚提供することによって、
    世界は実際以上に利用できるものだという感じをわれわれに与えるのである

  • 写真によって現実を確認し、経験を強めてもらう必要があるということは、
    いまやだれもがその中毒にかかっている美的消費者中心主義である。産業社会は市民を映像麻薬常用者に変えている。
    それはもっとも抵抗しがたい形の精神公害である

  • 美に対する、表面化を探るのをやめることに対する、世界の身体の瀆罪と祝福に対する、痛切な憧れ-
    こういった恋慕の情の要素はみな、私たちが写真に抱く喜びの中に認められる。

  • しかしほかの、それほど開放的でない感情も同じく表現されている。撮影したい、
    経験そのものを見る方法に転じたいという衝動をもった人たちについて話すことは間違っていないだろう。

  • けっきょく、ある経験をもつということは、その写真を撮ることと同じになっており、公の行事に参加するということは、
    写真の形でそれを見ることとますます等価になっている

  • マラルメ

    「世界のあらゆるものは本になるために存在する。今日、あらゆるものは写真になるために存在している」



苦痛を求めること

「こうして結局、アーバスの写真で一番心を乱されるのはその被写体ではさらさらなく、その写真家の意識が累積していく印象、つまり提示されているものはまさに個人的な視像、なにか任意のものという感覚なのである。アーバスは自己の内面を探求して彼女自身の苦痛を語る詩人ではなく、大胆に世界に乗り出して痛ましい映像を「収集する」写真家であった。
そしてただ感じたというより調査した苦痛については、およそはっきりとした説明などないものだ。ライヒによれば、マゾヒストの苦痛の趣味は苦痛を愛することからくるのではなく、苦痛によって強烈な感覚を手に入れたいという期待からくるという。
情緒とか感覚の不感症を患った人たちは、ただなにも感じないよりは苦痛でも感じた方がいいのである。しかし人びとがなぜ苦痛を求めるかについては、ライヒとは正反対のもうひとつの説明があって、それもぴったりくるように思える。つまり彼らはもっと感じるためではなく、もっと感じないために苦痛を求めるというのである。」

(「写真論」 スーザン・ソンタグ 近藤耕人訳 晶文社)

ライヒ:ヴィルヘルム・ライヒ(Wilhelm Reich、1897年3月24日-1957年11月3日) 、オーストリア・ハンガリー帝国ガリチアレンベルク近郊ホロドク西部ドブリャヌィ出身の精神分析家。(amehare)

アーバスの自殺

「アーバスはおそらく、異形人たちと親しく交わることの魅力、偽善、不快を至極単純に考えていたのだろう。
発見して大いにもえたあとには彼らの信頼をかちえたこと、彼らを恐れなかったこと、嫌悪感を乗り越えたことの震えるような喜びがあった。
異形人の写真を撮ることは 「わたしにはぞくぞくするような興奮でした。わたしはただもううっとりしていました」
 とアーバスは説明している。


ダイアン・アーバスが1971年に自殺したときは、写真関係者の間では彼女の写真はすでに有名になっていた。しかし、シルヴィア・
プラスの場合と同じく、彼女の作品が彼女の死後集めた注目はまた別種のもので、一種の神格化であった。彼女の自殺の事実が、
彼女の写真は誠実なものであって覗き趣味ではなく、またいたわりのあるものであって冷たいものではないことを保証しているように見える。
彼女の自殺はまた、その写真が彼女にとって危険なものであったことを証明するかのように、その写真を一層恐ろしいものにしているようだ。


彼女は自分でもその可能性をほのめかしていた。 「なにもかもがそれはすばらしく、息を呑むようです。
わたしは戦争映画でやっているように、腹這いになって進んでいるんです」。

写真はふつうは遠くから神の視点で眺めるが、ひとが写真を撮ることで殺される状況がひとつある。
人びとが互いに殺し合っているのを撮影するときである。戦争写真だけが覗き趣味と危険を結びつける。
戦争写真家は彼らが記録する死の活動に参加しないわけにはいかない。彼らは階級章はつけないが、軍服さえ着用する。人生は 
「ほんとうにメロドラマ」 だということを(撮影を通じて)発見すること、カメラを攻撃の武器として理解することは、
人的損害もあるということを意味する。 「もちろん限界はあります。部隊がこちらに向かって進撃開始しようものなら、
それこそあの絶体絶命の感じに近づきます」 と彼女は書いた。アーバスの回想の言葉は一種の戦死について述べている・・・・・・
ある限界を超えたところで、彼女は自分の誠実さと好奇心の損傷という精神的待ち伏せに会ったのである。」


(「写真論」 スーザン・ソンタグ 近藤耕人訳 晶文社)



人種主義に関する提言(4)

もちろん、本提言におけるわれわれの中心的関心は(歴史的に限定されたいい方をしはじめれば)ヒューマニズムとその批判である。
人間主義的ヒューマニズムは--あるいはその審問形態としての「哲学的人間学」が同定しようとしてきた人間性のように--
特殊的に人間的な本質、その本質を認知することによって人類(正確にいえば人間・種)
を非人類から弁別することをわれわれに可能にするような本質の存在を前提してきた。と同時に、人間主義的ヒューマニズムは、時と場所の違いを超越して普遍的な人類の共通性を指示し、「人間・種」をその共同性において統合するような本質の存在をも前提してきた。
すでに人間主義的ヒューマニズムの批判者の多くが主張してきたように、こうした人間本質観の結果として、ヒューマニズムは、人間の他者性、他なる人間の外部性、即ち、「人間」という普遍的本質性に対する外部性を認める能力を失ってしまったのである。つまり、人間主義的ヒューマニズムはその普遍主義的姿勢のために、われわれが他者に出会う可能性を潰してきたのである。
ところがその裏返しとして、人間主義的ヒューマニズムの普遍主義的憧憬を拒絶するその反対者の多くはしばしば特殊性に固執し、「文化的」、「国民的」あるいは「人種的」な特殊体験の究極の価値にしがみついてきた。しかし、こうした反対者は、文化、国民、国民国家、そして人種といった観念は(時にこれらの観念は同一のものとされ区別されないこともある)人間中心主義の語彙と全く供約的であり、ヒューマニズムの謳歌する普遍的価値を分節化するための概念装置と考えられているものであることを忘れてしまっているのだ。
そうである以上、こうした観念は、特殊な「文化」「国民」「国民国家」あるいは「人種」のなかにある差異、他者性、そして外部性を密閉してしまうのだ。


再び、われわれの企画は外部性の問題にかかわるものであることがわかる。われわれは、ヒューマニズムや、特殊主義や、あるいはそれらの立場が一見対立しているという認識の「外部に」またが「超えて」自分たちがいる、という立場から出発することはできないように思える。しかし、あまり上手にではないかもしれないが、人種主義の問いにどうにか肉迫しようとしてわれわれが採用した概念装置が有効性をもつものであるならば、われわれの問いかけは歴史に向かっての問いかけであり、ひとつの歴史ではなく複数の歴史の試練を受けるべき問いかけであることがわかるのではないだろうか。つまり、ひとつ確認しておかなければならないのは、人間中心主義的ヒューマニズムの「人間」は歴史現象である、すなわち、人間中心主義的ヒューマニズムの「人間」は歴史において歴史の効果として現出したものである以上、「人間」は外部性に取り憑かれ・所有されていて(したがって、けっして「所有され」えないものによって所有されている)、歴史の外部性によって取り憑かれているのであり、「人種」も「人種主義」も同じように歴史の外部性によって取り憑かれている、という点である。ということは、ヒューマニズムとその批判と人種主義のあいだには歴史的に分節された関係があるのだ。しかし、これは、これらの項の間に因果的な関係が存在するということではなく、これらの項の間に共犯関係の可能性を予測し警戒することからわれわれの企画を始めざるをえない、ということなのである。「人間」「国民」「国民国家」「人種」といった、同一性と共同体の異なった構築体は、分かち難く歴史に結びついており、一定の歴史性、歴史の不可避性の支配下にある。歴史性は、批判のための必要条件であるかぎりにおいて、人種主義の批判という政治的実践の可能性の必要条件になっているのであり、それらの構築体はすべて、この歴史性によって支配されている可能性をまず認めることからわれわれは始めなければならない。なぜなら、人種主義を非難する必要はけっして無くなったわけではないことを知りつつ、しかし、われわれは非難の単調さの先へ赴くべく考察することをめざすからだ。

(付記 ウイリアム・ヘイバーおよびナオキ・サカイによって共同執筆された。

なお、日本語訳の文責はナオキ・サカイにある)

人種主義に関する提言(3)


人種主義が侵略的でありつつとらえ難く偏在するという事実、つまり、人種主義が言説の場全体を飽和してしまうことができるだけでなく、
ある種の言説の実践にとって欠くことのできない可能性の条件を構成しうるのではないかという事態をわれわれはこれまで強調してきた。
ここで含意されているのは、人種主義とは、たんに、
知識を自らの都合に合わせて誤魔化して利用する一定の心理的態度や偏見のことであるのではないという点である
(人種主義が分節化できないでいるのは、なぜ、またいかに、
人種主義と知識の制度の間の連帯がこれほど明白な説得力をもってしまっているか、なのである)。別の言い方をすれば、人種主義は、
それ自身は無罪である知識や言説の実践に後から押し付けられた、
曲解あるいは誤用とする立場をわれわれはもはやとることはできないのである。たとえば、
一定の学問的作業の制度的構成と実践の特定の概念化--例としては「人類学」、アメリカ合衆国で、「地域研究(エリア・スタディーズ)」
と呼ばれる学問分野、「日本学」など、がただちに挙げられるが--
はその学問分野の成立時において打ち立てられた認識論的態度のために、 最終的には、
人種主義に取り込まれ荷担していると考えざるをえないだろうし、また、この認識論的態度のために、
これらの学問分野を構成する実定性やこれらの分野で表象される事実において、人種主義は再生産されつづけるのである。しかし、
事態は一段と複雑である。というのも、この認識論態度や、学問的表象の結果と形態の批判それ自体が、
人種主義に反対の立場をとっているからといって、ただちに人種主義から自由になっているわけではないからである。







人種主義の批判が本来の意図を裏切って人種主義を再生産してしまうこの矛盾は、
特殊性への固執によってヘゲモニー的支配に対抗しようとする場合にとくに顕著になるだろう。ヘゲモニー的支配は、
自らの産出の可能性の条件を普遍的なものとみなす言説の実践によって支えられている。
自らの普遍性の顕現であると主張するような言説の徹底した批判は、正当であるだけでなく緊急に必要であることはいうまでもない。しかし、
特殊なものの原初的な正統性に依拠するヘゲモニー的支配の批判は、そうした特殊性「自体」
を構成する概念装置を受け容れてしまうことによって、特殊性のなかにある差異の弾圧をしばしば正当化する結果になる。さらに、
特殊性の分節化を可能にする概念装置そのものが自らの普遍的妥当性を前提しているという点を、
特殊性に固執する批判はしばしば忘れてしまうのである。
特殊性への固執も相対主義への固執も自動的に人種主義からの自由を保証するわけではないのである。



人種主義に関する提言(2)


他方、だからといって人種主義を対象化する試みを素朴に拒否するわけにもゆかない。そのような拒絶は、対象としての「人種主義」
が存在しないというだけではなく、人種主義「そのもの」も存在しないと、ほのめかすことになるだろう。さらにもっとひどいことに、
「人種主義」は、その外部を欠いている以上、必然的であり、存在に内在し、自然なものである、とほのめかすこと
(われわれには実になじみのある「ほのめかし」ではないか)になるだろう。このように、拒絶は、
人種主義をその固有の文節化に従って特定することを不可能にしてしまい、
批判の実践を不可能にさせてしまう政治的冷笑主義にわれわれを追いやってしまうだろう。人種主義の真剣なかつ厳密な批判は、
少なくとも人種主義には「外部」があるという希望を必ず設定しなければならず、人種主義の「外部」への希望を維持するためには、
基本的にその希望がたんなる信仰の問題であってはならず、人種主義の外部はたんなる虚構や「観照的な」
ユートピアであるわけにはいかないのである。







われわれが潜在的なかたちと顕在化されたかたちの両方の人種主義に対する告発を行うためには、
われわれは対象としての人種主義を一方的に拒絶し、そのとらえ難い偏在性を諦めて受け入れるわけにもゆかないし、かといって、
冷笑主義の諦観の立場からも禁欲主義(ストイシズム)の自己正当性に硬直した立場からも、
われわれの考察は出発するわけにはゆかないのである。







したがって、人種主義を一方では可能な対象としてまた他方では不可能な対象として産み出すさまざまな公式、すなわち、
人種主義に関する言説を知識として産み出し学問的領域として確立するための公式と、
そうした公式をひるがえって追認する役割を果たす知識に則って、人種主義の「外部」をつくり出すわけにはゆかないのである。むしろ、
必要なのは対象化可能性が構成されるさいに動員される基本概念装置、対象化一般、そしてとくに「人種主義」
の対象化を可能にする基本概念装置を、あらためて問題視することなのである。「内部」と「外部」、「主観」と「対象」
といった対立項の妥当性に挑戦し、これらの項がたがいに本当に排除的な関係にあるのかどうかを問うことも必要だろう。
こうした再検討の作業の過程で、
他者の外部性を内部性に対立する外部性とは違った仕方で考えることがわれわれに要求されてくるかもしれない。
もちろんこうした関心は永らくある種の哲学的実践にとっての関心でもあったわけだが、われわれがこの再検討において求めているのは、
哲学的問題への解答ではなく、そうした哲学問題がわれわれの政治的実践においても有意義である事実を明示することなのだ。







まさにこの意味で、われわれの企画はある種の理論的責務を自ら引き受けるひとつの投企(希望の可能性の探求としての未・来、
つまり未だ来ないものへの投企)であることがわかるだろう。いうまでもなく、理論的であることへのこの責務は、
同じ理論用語を使うといった同意の場面に固執することでも、またその対象に十全な「人種主義の理論」
をつくり出すことだとも了解されてはならない。あるいはまた、この理論的であることへの責務は、一般性においてのみ思考すること、
人種主義的弾圧の特殊例に関する特定の議論を拒絶することを、われわれに要求するわけでもない。この企画においては、
われわれは理論的に現実に関わることによって政治的に現実に干渉することをめざす。そして、この企画が政治的干渉を意味しうるのならば、
特殊な事実に関する特殊性が構成されるさいに動員される概念装置を、その事実的な特殊性の側面と同時に特殊性一般の側面においても、
問題視するのでなければならないだろう。つまり、われわれは、
人種主義の特定の例に固有の特殊な状況あるいは環境に注目しなければならないが、と同時に、そうした特定の例をひとつの
「人種主義の例証あるいは審級」として、ひとつの事例として構成する在り方へも注目しなければならない。



人種主義に関する提言(1)



人種主義に関する提言


人種主義に関する委員会




1987年3月20日 於シカゴ

ウィリアム・ヘイバー、ナオキ・サカイ(日本語訳文責 ナオキ・サカイ)



まず最初に、ここで人種主義と呼ぶ現象あるいは一群の現象を考察し、
人種主義の政治においてこの考察を成し遂げようとするわれわれの企画には、
一定の困難さが不可避に伴うであろうことをあらかじめ認めておかなければならない。われわれは人種主義について考察し、
人種主義について論証し、人権主義を告発するわけだが、この困難さはわれわれのこうした言説と実践の対象となる「人種主義」
の地位にかかわっている。
確かにわれわれは広範にわたる人種主義のまったく見粉いようのない悲惨な効果をたえず目撃しているわけだが、だからといって、
人種主義とは何であるかをすでにわれわれは確信をもってあるいは躊躇せずに知っていると安易に前提にするわけにもゆかない。また、
おそらくより意識的ではあっても結局は自己反省的な懐疑を含まない、つまり「人種主義」を孤立した概念的対象として設定する、
人種主義の定義を提案するわけにもゆかないのである。さらにまた、だからといって、「人種主義」の不可避な曖昧性を確認したという、
いかにも教育的な身振りを思わせる建前に自足するわけにもゆかないのである。
われわれの企画の全体は対象としての人種主義のもつ多義的な性格に呪縛されており、
その意味で一定の不可能性に制約されていることをわれわれは認知しなければならないのだ。しかし、この不可能性の認知を経なければ、
人種主義的な弾圧をしばしば正当化する言説をたんに再生産する代わりに、
そのような言説を告発することができるようになることは望むべくもないだろう。







一方で、もし、われわれが曖昧さのない対象性を設定する方針を確信をもって採用するならば、つまり、われわれが「人種主義」
と呼ばれる対象の限界を規定し限定しうるとするならば、つまり、人種主義的なものから人種主義的でないものを区別できるとするなら、
少なくとも以下の立場を暗黙のうちに前提したことになるだろう。すなわち、われわれは一定の視座、つまり、
そこからは人種主義とその外部が明確に同定できるような視座を占めていることになり、この視座は、
われわれが意図しているか否かにかかわらず、「人種主義」の外に設定された視座ということになるだろう。
いまここで問題になっているのは、第一義的には、人種主義に関与してしまっているわれわれ自身の罪責感に関する、自己反省、
自己批判、あるいは告白、などではない。超自然的にその対象から距離をおかれた視座を採用できると思い込むことによって、
そのような視座が構築される諸前提が、
あからさまに人種主義的な言説の諸前提と実はまったく供約的なものである可能性を考えられなくしてしまうのだ、
という点を指摘しておくことは重要だろう。




ポートレートの文法

「肖像写真のふつうの文法では、カメラの方を向くことは荘重、率直、モデルの本質の暴露を意味する。正面向きが記念写真
(結婚式や卒業式)にはふさわしいが、選挙の立候補者の広告のために掲示板に貼る写真にはそれほど適さない理由はそのためである。
(政治家の場合は半横向きの眼差しの方がふつうで、それは対決するというよりも舞い上がり、見る人や現在との関係ではなく、
未来とのもっと高遠な抽象的関係を暗示する眼差しである)。アーバスが正面向きのポーズを使うことがそれほど注意を惹くのは、
彼女の被写体が往々にして、そう愛想よく器用にカメラに身を委せるとは思えないような人たちだからである。そういうわけで、
アーバスの写真では正面向きはもっともいきいきした形で、被写体の協力をも意味しているのである。
こういう人たちにポーズをとらせるためには、写真家は彼らの信頼をかちえなければならなかったし、彼らと「友だち」
にならなければならなかった。」


(「写真論」 スーザン・ソンタグ 近藤耕人訳)



2007/02/08

アーバスの写真の神秘な部分

「アーバスの写真の神秘の大きな部分は、彼女の被写体になった人たちが、
写真が撮られることを承知したあとでどう感じただろうかといろいろ思わせるところにある。彼らは「あんな」
ふうに自分を見ているのだろうかと写真を見た人は思う。自分たちがどんなにグロテスクだか知っているのだろうか。
まるで知らないように見える。


アーバスの写真の主題はヘーゲルの立派なレッテルを借りれば、「不幸な意識」である。しかし、
アーバスの大人形芝居の大部分の道化師たちは、自分が醜いことを知らないように見える。
アーバスは人びとが自分たちの苦痛や醜さをいろいろな程度に意識しなかったり気づかないでいるところで写真を撮っている。
このために当然ながら、彼女が撮影しようと引き寄せられる恐怖の種類には限界がある。それは事故や戦争や飢饉や政治的圧迫の犠牲者のように、
おそらく自分で苦しんでいることを知っているような苦悩者を除外することになる。
アーバスは生活に割り込む事故や事件は決して写真に撮らなかっただろう。彼女はじわじわとくる故人の災難を撮るのを専門にしていた。
その大部分は被写体が生まれたときから進行していたのである。」


(「写真論」 スーザン・ソンタグ 近藤耕人訳 晶文社)



アーバスの写真の説得力

「アーバスの写真の説得力はその引き裂くような被写体と、落ち着いた、ありのままを注視する態度との間の対照からきている。
この注意力の質-写真家が払う注意力と被写体が撮影される行為に対して払う注意力-
がアーバスの真直ぐ見すえて思いに耽るポートレート群の道徳劇をつくり出している。写真家は変り者や宿無しを探して盗み撮りするどころか、
彼らを知り、自信を取り戻させなければならなかった。そうやってみなは、ヴィクトリア時代のどこかの名士がスタジオに坐ってジュリア・
マーガレット・キャメロンにポートレートを撮ってもらうといった具合に彼女のために落ち着いたり緊張したりしてポーズをとったのである。」


(「写真論」 スーザン・ソンタグ 近藤耕人訳 晶文社)



アーバスの感受性

「アーバスは自分でも認めているとおり、「変った」人しか撮ることに興味がなくて、材料は自分の家の近くにふんだんに見つかった。


(中略)


そこにはいつも変らぬ日常生活があって、目を向けて見れば、奇人・変人にこと欠かなかった。カメラは、
いわゆる正常な人たちを異常に見えるようにとらえる力がある。写真家は奇人を撰び、それを追い、構成し、現像し、題名をつける。


「通りでだれかを見かけるとします。その際眼につくのは本質的に欠点なのです」とアーバスは書いている。アーバスの作品が、
原型となる被写体からどれほど広がっても際立って似ていることは、カメラによって武装した彼女の感受性がどんな被写体にも、
苦悩や変態性や精神の病いをほのめかすことができることを示している。赤ん坊が泣いている二枚の写真がある。
赤ん坊たちは心乱れて狂わんばかりに見える。だれかほかのものに似ているとかどこか通じるものがあるということが、
アーバス特有の突き放した見方の基準に従って、くり返し起こる不気味さの源なのである。」


(「写真論」 スーザン・ソンタグ 近藤耕人訳 晶文社)



アーバスの無邪気さ

「彼女の作品は、嫌悪感も与えるが哀れな痛ましい人たちを見せる。だからといって同情心をかきたてることはいささかもない。
彼女の写真の突き放した視点についてはもっと正確な言い方もあろうが、そのために率直さと、
被写体への感傷を交えない感情移入を称揚されてきたのである。
実際は彼女の写真の一般人への攻撃であるものが道徳的な完成として扱われてきた。つまり、
彼女の写真は見る者が被写体から疎遠でいることを許さないということである。もっと穏当な言い方をすれば、
アーバスの写真はぞっとするようなものを受け入れることによって、内気な一方で悪でもある無邪気さを暗示している。それは距離と特権と、
見てくれといわれているものが実は「他人」であるという感じに基づいているからである。」


(「写真論」 スーザン・ソンタグ 近藤耕人訳 晶文社)



理想化された映像

「写真術が始まって何十年間かは、写真は理想化された映像ということになっていた。
これはいまだに大方のアマチュア写真家の目標であって、彼らにとっては美しい写真とは女や夕日のような、
なにか美しいものの写真のことなのである」


(「写真論」 スーザン・ソンタグ 近藤耕人訳 晶文社)



没後写真

「先に述べたように、ダゲレオタイプの発明によって、
1840年代から50年代に書けてポートレート写真を撮影することが一般の人々の間に徐々に普及していったが、
生涯の間に一度も写真に撮られることがなかったとしても、当時としては珍しいことではなかった。
女性と膝の上の少女を撮影したダゲレオタイプを見てみよう。この写真の中で少女はあたかも眠っているかのように見えるが、
実は亡くなっている。つまりこの女性は娘の遺体を膝の上にのせてポートレート写真を撮影したのである。
写真に写っている少女にとってこのポートレート写真は、彼女の人生のなかで撮影された最初で最後の写真であったかもしれない。「没後写真」
と呼ばれるこのような写真は、ある人物が亡くなったことの揺るぎない証拠となるものだった。とくに子どもの没後写真を撮影する場合には、
あたかもまだ生きていて眠っているかのように見せるための工夫がなされていた。

子どもの遺体を撮影した没後写真は、現在見ると奇異なもののように見えるかもしれないが、
子どもたちを取り巻いていた当時の生活環境を振り返ってみるとその理由を理解することができるだろう。欧米では、
十八世紀末から十九世紀半ばにかけて肺結核が流行し、1850年初頭にはアメリカ東部の都市でコレラが蔓延するなど、
衛生環境は劣悪な状況にあり、そのうえ医療技術も未発達の段階にあった。幼児死亡率は高く。
十九世紀末でも出生児五人のうち一人が一歳になる前に亡くなっていた。したがって当時の人々の生活のなかで、
子どもの死は避けがたい出来事の一つとして位置づけられていたのであり、
子どもを亡くした親たちはその死を受け入れ哀悼するための通過儀礼として子どもの没後写真を撮影していたのである。
親たちは写真師に依頼して、子どもの遺体を家の中のベッドやソファ、揺りかごに横たわらせたり、
親が子どもの遺体を膝の上にのせたり抱きかかえたりして撮影した。ときには、
子どもの遺体を肖像写真館に持ち運んで撮影をおこなうこともあった。このような没後写真からは、「記憶を持った鏡」
としてのダゲレオタイプに託された思い、
すなわち子どもがこの世に存在したことをいつまでも記憶に留めておきたいという肉親や家族の切実な思いを感じ取ることができるだろう。」


(「写真を<読む>視点」 小林美香 青弓社 2005年)


追記:写真とは本書に掲載してある写真で、アルバート・J・ビールズ 「母親と亡くなった娘-「病気の子ども」の絵画に倣ったポーズ」
 1852年、と書いてあった(Amehare)



ダゲレオタイプの露光時間

「このようなこわばった表情は、ダゲレオタイプの撮影に必要とされた長い露光時間によるものである。
ダゲレオタイプが発明された当初は、一回の撮影に二十分から三十分もの露光時間が必要とされた。
のちに感光剤が改良されて露光時間は徐々に短縮され、1840年代後半には十秒から一分の間で撮影することが可能になった。とはいえ、
長い露光時間中に身動きせずにいることは子どもでなくても苦痛を強いられるような経験だったに違いない。」


(「写真を<読む>視点」 小林美香 青弓社 2005年)



アーバスとスタイケンの写真展

「アーバスの写真は反ヒューマニズムのメッセージを伝えており、1970年代の善意の人びとは進んでそれに心を痛めたが、
それはちょうど、1950年代には感傷的なヒューマニズムによって慰められ、気を紛らわされるを願ったのと同じである。
これらのメッセージは想像されるほどの違いはない。スタイケン展は上昇であり、アーバス展は下降であったのだ。
しかしどちらの経験も現実の歴史的な理解を排除するためには等しく役立っている。


スタイケンの写真の選択はあらゆるひとが共有する人間の条件や人間の本性の様相を帯びている。

個人はあらゆる場所で同じように生まれ、働き、笑い、そして死ぬのだということを示そうともくろんで、「人間の家族」は歴史-
歴史に根差した真の差別、不正、対立-が決定づける重味を否定する。アーバスの写真では、だれもがのけ者で、どうしようもなく孤立しており、
機械的で片輪であることの実体と結びつきのなかに不動化しているような世界を暗示することによって、
同じくきっぱりと政治の値打ちを下げている。スタイケンの写真選集の敬虔な持ち上げと、アーバス回顧展の冷えびえとした失意とは、
ともに歴史と政治を無縁のものにしている。一方は人間の条件を歓喜へと普遍化することによって、他方はそれを恐怖へと粉砕することによって。


(「写真論」 スーザン・ソンタグ 近藤耕人訳 晶文社)



2007/02/07

スタイケンの写真展「人間の家族」

「ホイットマン流の国家のエロチックな抱擁の最後の溜息は、それを普遍化して一切の要求を剥ぎ取った形ではあるが、
スティーグリッツの同時代人で、フォト=セセッションの共同設立者であったエドワード・スタイケンが1955年に組織した写真展、
「人間の家族」の中で聞かれた。68ヶ国273人の写真家の503枚の写真は1点に集中し、人類は「一つ」であり、
人間は欠点もあれば卑劣でもあるが、やはりいいやつだということを証明することになっていた。写真にはあらゆる人種、年齢、階級、
体型の人びとが写っていた。多くはとりわけ美しい肉体をしており、あるものは美しい顔をしていた。
ホイットマンが彼の詩の読者に彼とアメリカに同化するよう迫ったように、スタイケンは個々の観客が描写されている多数の人間と、
そしてできることならどの写真の主題とも、つまり、世界の写真術の市民全員とも同化が可能となるようにその展覧会を構成したのである。」


(「写真論」 スーザン・ソンタグ 近藤耕人訳 晶文社)



ホイットマンの詩

「ホイットマンは感情移入、不調和のなかの調和、多様性のなかの単一性を説いた。あらゆるもの、あらゆるひととの精神的な交わり-
加うるに(それがえられる場合は)官能的な結合-は、いろいろな序文や詩のなかでくり返しくり返し、
はっきりと提案されている気まぐれな旅である。この全世界に向かって提案したいという熱望が、
また彼の詩の形式と調子に命令を与えもしたのである。ホイットマンの詩は読者を賛美して新しい存在状態(政治制度を目論んだ「新秩序」
の小宇宙)へと誘い込む精神のテクノロジーである。その詩はマントラのように機能的で、エネルギー荷を伝導する手段なのである。反復、
大げさな律動、休止なしの行送り、それに押しの強い詩語は読者を精神的に空中に浮かばせ、過去と、
アメリカの願いの共同生活とに同化できるような高みに彼らを押し上げるのを意図した、世俗的霊感の噴出である。しかし、
他のアメリカ人との同化のこのメッセージは、今日の私たちの気質には馴染みないものである。」


(「写真論」 スーザン・ソンタグ 近藤耕人訳 晶文社)