2007/02/09

人種主義に関する提言(3)


人種主義が侵略的でありつつとらえ難く偏在するという事実、つまり、人種主義が言説の場全体を飽和してしまうことができるだけでなく、
ある種の言説の実践にとって欠くことのできない可能性の条件を構成しうるのではないかという事態をわれわれはこれまで強調してきた。
ここで含意されているのは、人種主義とは、たんに、
知識を自らの都合に合わせて誤魔化して利用する一定の心理的態度や偏見のことであるのではないという点である
(人種主義が分節化できないでいるのは、なぜ、またいかに、
人種主義と知識の制度の間の連帯がこれほど明白な説得力をもってしまっているか、なのである)。別の言い方をすれば、人種主義は、
それ自身は無罪である知識や言説の実践に後から押し付けられた、
曲解あるいは誤用とする立場をわれわれはもはやとることはできないのである。たとえば、
一定の学問的作業の制度的構成と実践の特定の概念化--例としては「人類学」、アメリカ合衆国で、「地域研究(エリア・スタディーズ)」
と呼ばれる学問分野、「日本学」など、がただちに挙げられるが--
はその学問分野の成立時において打ち立てられた認識論的態度のために、 最終的には、
人種主義に取り込まれ荷担していると考えざるをえないだろうし、また、この認識論的態度のために、
これらの学問分野を構成する実定性やこれらの分野で表象される事実において、人種主義は再生産されつづけるのである。しかし、
事態は一段と複雑である。というのも、この認識論態度や、学問的表象の結果と形態の批判それ自体が、
人種主義に反対の立場をとっているからといって、ただちに人種主義から自由になっているわけではないからである。







人種主義の批判が本来の意図を裏切って人種主義を再生産してしまうこの矛盾は、
特殊性への固執によってヘゲモニー的支配に対抗しようとする場合にとくに顕著になるだろう。ヘゲモニー的支配は、
自らの産出の可能性の条件を普遍的なものとみなす言説の実践によって支えられている。
自らの普遍性の顕現であると主張するような言説の徹底した批判は、正当であるだけでなく緊急に必要であることはいうまでもない。しかし、
特殊なものの原初的な正統性に依拠するヘゲモニー的支配の批判は、そうした特殊性「自体」
を構成する概念装置を受け容れてしまうことによって、特殊性のなかにある差異の弾圧をしばしば正当化する結果になる。さらに、
特殊性の分節化を可能にする概念装置そのものが自らの普遍的妥当性を前提しているという点を、
特殊性に固執する批判はしばしば忘れてしまうのである。
特殊性への固執も相対主義への固執も自動的に人種主義からの自由を保証するわけではないのである。