2007/02/23

写真の素朴なリアリズム

上の話は、それをさっと読んでしまえば、多くの写真家にはわかりやすい。写真は「撮る」ものではなく「撮れる」ものだ、
という言い方は、彼らにはごく常識のはずである。そしてこの常識は、人間の主観とは無縁に存在する(
「私が死んでもそのままであり続けるような」)現実世界、という考えに根ざしている。だが、この考えは疑ってみる必要がある。
いつのまにかそこには引き算・わり算の「方法」が抜けているからだ。そして「現実世界」とここで言われるものの内実が実は曖昧だからである。


ベッヒャーにも近い新即物主義の美学は、できる限り人為を切り捨て、客観的な対象の尊厳をそのまま定着させようとする。
人間は見たいようにしかものを見ないから、信頼できるのはカメラ・アイのみである。
芸術家としてではなく科学者としてありのままの世界に向かい合うために、きわめて単調で一貫した方法が選択され、こうして影も反射もなく、
夾雑物を省き、無表情でシャープなピントの白黒写真が正面から撮られるのである。


けれども、もし人間の目は信頼できずカメラ・アイこそが現実世界を写し出すというのなら、当然、
ブレたりボケたりした写真映像もまた現実的であると言わねばならない。
脳でものを見る人間の連続とした視覚は決してブレたりボケたりしないからである。実際、
ブレとボケは写真が初めて教えてくれた映像の質である。だから、映像のシャープネスに客観性を見てとり、
ブレとボケにむしろ主観的な気分を読むのは単なる美学的主観にすぎない。シャープな写真の方がより現実に接近しているわけではないのだ。
さまざまなフィルターやシャッタースピードによる、世界のさまざまな姿や断面(見たこともない角度から撮影され、
見たこともない精度で再現された世界の姿)の発見は、人間とは無縁に存在し続ける(主観的な人間の目では見られない)「現実世界」
の発見とは、似ているが同一ではない。写真のもたらした衝撃とは、カメラが開示した生の現実というよりも、
カメラによってその現実がヴァリアブルなものに変容したことである。


例えば、印象派が写真から受けた衝撃には種々あるだろうが、もっとも本質的なものの一つは、
人間の感覚システムとはかけ離れた自然界の感覚システムの存在であった。点描は、人工的な技法によって自然のシステムを再現する試みである。
印象派とは、その名称とは逆に、人間の感覚(印象)によって曇らされている自然を露出しようとする。逆の言い方をすれば、写真は彼らに、
人間の知覚に対して差異をもつような感覚世界を開示したのである。また、R・クラウスが言うように、
写真は当然のようにまず文字と結びついた。人間の感覚が知覚する自然の彼方の自然を撮影する写真と、人間の意識の彼方で、
意識から漏れたものを書き留めている文字・・・・・・自動撮影と自動書記は同じものである。印象派にとって、
そしてシュールレアリストにとって写真の衝撃は一貫している。それは暴露である。だが、この暴露は真実の暴露ではなく、
あるものの背後に別のものが潜んでいるという認識であり、全てのものを記号としてみることができる、という発見である。つまり、
そのとき世界は二重化したのではなく、多重化・記号化したのである。


「世界」は記号化し、一つでなくなった。もちろん、「私」もまた、複数化するという点を見逃してはならない。同じ一つの私が、
いろいろな解像度でいろいろな世界を見る、と言うのではない。「世界」とはある解像度と情報レベルの「私」に応じて存在するだけである
(そしてその逆)。解像度と情報レベルの数だけ、「世界」「私」がある。一言で言えば、一つの世界の中にいる一つの私、
という前提が崩れたということである。


もっとも、かつて写真がもたらせたこの衝撃は、現在ではきわめて普通のことではないか。テクノロジー(TV、電話、コンピュータ、
ヴィデオ、CDなど)によって、異なる解像度の「世界」、異なる情報レベルの「私」が一つ一つ具体化していった(いきつつある)結果、
現在の「世界」や「私」は複数の解像度や情報レベル間の落差を平気で横断している。急激なメディアの展開によって我々の知覚は多様化・
多層化し、かなり解像度を下げなければ、もはや統合された知覚の主体などというものは考えることすら難しい
(粒子が粗すぎて遠くから見ないと何が写っているのかわからない印刷写真のように)。
これは何もポストモダンやハイテクノロジーの話ではなく、
例えばテレビをつけっぱなしにし雑誌を読みながら電話で友人と話しつつ何か別のことを考えるとか、
テレビゲームで遊びながらBGMをかけ別のウィンドウで遠く(?)のデータベースを検索するといった日常である。日常ではあるが、
そこで行われていることは、情報や知覚データの無意識的(=バックグラウンド処理)で、同時的な処理(=マルチタスク)なのである。


また、写真作品を、カメラとレンズと印画紙で定義することはもはや不可能であろうし、不可能ではないとしても不毛である。
人が写真と見なすイメージは印刷物、絵画、版画、ヴィデオインスタレーション、CG、アニメーションフィルムにまで拡散し、
しかもそれらのほとんどがカメラ・レンズ・印画紙といった技術から大きくはみ出している。さらに、
さまざまな画像加工ソフトの巧妙さと精度が人間の判断可能性を超えてしまっている以上、写真が、
現実を表象しているという前提はもはや成立しえない。たとえそこに拘ったとしても、
現在の写真表現の分析のためには有効であるとは言えないだろう。素朴なリアリズムを越えて、我々は技術的、
認識論的な前提とは独立に写真の本質にあるのは何か、と問わねばならない。


(「白と黒で 写真と・・・・・・」 清水穣 現代思潮新社)


本引用の冒頭にある「上の話」とは、本引用の前段に引用したタイトルが「所与としての光」の内容となる。(amehare)