2007/02/09

人種主義に関する提言(1)



人種主義に関する提言


人種主義に関する委員会




1987年3月20日 於シカゴ

ウィリアム・ヘイバー、ナオキ・サカイ(日本語訳文責 ナオキ・サカイ)



まず最初に、ここで人種主義と呼ぶ現象あるいは一群の現象を考察し、
人種主義の政治においてこの考察を成し遂げようとするわれわれの企画には、
一定の困難さが不可避に伴うであろうことをあらかじめ認めておかなければならない。われわれは人種主義について考察し、
人種主義について論証し、人権主義を告発するわけだが、この困難さはわれわれのこうした言説と実践の対象となる「人種主義」
の地位にかかわっている。
確かにわれわれは広範にわたる人種主義のまったく見粉いようのない悲惨な効果をたえず目撃しているわけだが、だからといって、
人種主義とは何であるかをすでにわれわれは確信をもってあるいは躊躇せずに知っていると安易に前提にするわけにもゆかない。また、
おそらくより意識的ではあっても結局は自己反省的な懐疑を含まない、つまり「人種主義」を孤立した概念的対象として設定する、
人種主義の定義を提案するわけにもゆかないのである。さらにまた、だからといって、「人種主義」の不可避な曖昧性を確認したという、
いかにも教育的な身振りを思わせる建前に自足するわけにもゆかないのである。
われわれの企画の全体は対象としての人種主義のもつ多義的な性格に呪縛されており、
その意味で一定の不可能性に制約されていることをわれわれは認知しなければならないのだ。しかし、この不可能性の認知を経なければ、
人種主義的な弾圧をしばしば正当化する言説をたんに再生産する代わりに、
そのような言説を告発することができるようになることは望むべくもないだろう。







一方で、もし、われわれが曖昧さのない対象性を設定する方針を確信をもって採用するならば、つまり、われわれが「人種主義」
と呼ばれる対象の限界を規定し限定しうるとするならば、つまり、人種主義的なものから人種主義的でないものを区別できるとするなら、
少なくとも以下の立場を暗黙のうちに前提したことになるだろう。すなわち、われわれは一定の視座、つまり、
そこからは人種主義とその外部が明確に同定できるような視座を占めていることになり、この視座は、
われわれが意図しているか否かにかかわらず、「人種主義」の外に設定された視座ということになるだろう。
いまここで問題になっているのは、第一義的には、人種主義に関与してしまっているわれわれ自身の罪責感に関する、自己反省、
自己批判、あるいは告白、などではない。超自然的にその対象から距離をおかれた視座を採用できると思い込むことによって、
そのような視座が構築される諸前提が、
あからさまに人種主義的な言説の諸前提と実はまったく供約的なものである可能性を考えられなくしてしまうのだ、
という点を指摘しておくことは重要だろう。