2007/02/15

労働観の変遷 古代ギリシアの労働観

古代ギリシアにおいては、労働とは、忍従の奴隷労働、非植民地の人々の苦しい労働を意味し、
具体的には各ポリスの市民たちの消費物質の調達といった行為を指し、人間の行為としては卑しいものとされてきた。それは、
他のあらゆる動物にも共通する生命維持のための生活物資の供給に過ぎず、ポリスの市民には二義的な意味しか持たなかった。


「ただ単に生きることではなく、善く生きることが大切である」
という思想はソクラテス以来常に語られてきたギリシア人の人生論の基本であった。単に生きることは物質的、生理的意味での生を指す。
しかしポリスの市民は生の営みだけに拘束される私的領域を離脱して、公的領域に積極的に参加する義務を持つ。たしかに生産労働は、
あらゆる高次の生の不可欠の条件ではあるが、それは人間から自由な時間とエネルギーを奪い、その結果人々の「徳」(arete)や政治的、
文化的活動に携わる力を奪う。それゆえにポリスの市民は、この生産労働を奴隷に強制したのである。アリストテレスは「政治学」
の中で次のように言う。


「仕事のうち、偶然の働く余地の最もすくないものが最も技術的なもので、身体の最も害われるものが最も職人的なもので、
身体の最も多く使用されるものが最も奴隷的なもので、徳を必要とすることの最も少ないものが最も卑しいものである。」


「・・・・・無条件に正しい人間を所有している国においては、
国民は俗業民的な生活も商業的な生活も送ってはならないことは明らかである(というのは、このような生活は卑しいもので、
善と相容れないからである)


徳が生じるために必要なのは労働ではなく、閑暇である。アリストテレスは人間のみが理性を持つと考え、
この閑暇において人間が理性を働かせる場合のみ、家や国家をつくりうるとする。
古代ギリシア人にとっては閑暇のなかで達成する政治的行為が最も価値ある行為だったのである。なぜそうなのだろう。


われわれの行為、思考、言論はすべて何らかの善を目的にしている。ある行動の目的はさらに高次の行動のための手段であり、この目的-
手段-目的の系列を最後まで推し進めていくと、他の目的でなくそれ自体のために追求されるべき最高の善に達する。人間にとって最高善とは
「幸福に生きる事」であり、それを目指す学ないし術をアリストテレスは「政治」(politike)と名づけた。「政治」は、
共同体全体の幸福の実現を目的にし、その目的の追求によって人間が自分とその属する共同体を道徳的に高める場としてあった。
その中で人間は自分を磨くのである。人間の幸福は自分の能力または徳を全体の幸福のために発現させることにある。
ポリスの目的は人間の倫理的卓越性の実現と、それによる人間としての完成にあり、市民の一人一人が人間として完成することが、
個人にとっても全体にとっても最高善、つまり幸福につながるというのである。


一方でアリストテレスは、職人の活動(アーレントによれば「仕事」)について、次のように語る。職人の活動は奴隷の活動
(アーレントによれば「労働」)より上位にはあるが、やはりそれは「制作」(ポイエーシス、poiesis)であるかぎり、「自由な活動」
(プラークシス、praxis)、にはなりえないとする。


(「ハンナ・アーレント入門」 杉浦敏子 藤原書店)


引用中のアリストテレスは、「政治学」から