2007/02/23

所与としての光

建築と音楽の例で始めてみよう。現代の建築の一つの理解によれば、建築とは建物を組み立て建造する(建築家=作る人。メーカー)
こととは違う。それは交通、物、人、情報など、さまざまな密度と速度で流れる社会的な流動を操り、制御する空間的時間的な装置である。
しかも建築家は防波堤でも築くようにして流れを抑止するのではない。無意識と関わる存在の常として、そうした社会的流動は背後から、
しかも遅れて来るものであるから、建築家とはその流れに乗りながら、それをコントロールする人である(建築家=サーファー)。


同じ対立を、音列主義とクセナキスのあいだで見るというより明確になるだろう。
セリエリズムとクセナキスの音楽の根本的相違は聴取可能性にあるのではなく、音楽を作るという行為の考え方にある。前者にとって作曲とは、
構成する(construct)ことであり、足し算・かけ算による思考にある。後者の作曲とは配分する(distribute)ことであり、
そこでは引き算・わり算が思考の方法になる。セリエリストは音を組み立て、まとめあげるが、クセナキスは配分し、散らばらせる。
西洋音楽では、ある限定された数の単位がもとになって、そこから多くの派生体が(足したりかけたりして)形成され、
それらが展開されてくる過程で有機体に組み合い、一つの音楽作品を構築する。反対に、クセナキスにとって宇宙は既に音で満ちている。
わざわざ組み立て、構成する必要はない。


世界は所与として音がある。だから、その音=世界を適切に分割、配分し、篩にかければそれが音楽になるのだ。人間、植物、昆虫、
鉱物は等しく音であり、篩の目や配分の度合いによって異なった音楽になる。世界は所与として流動である。だからその流動を適当に制御・
配分すれば建築になる。世界は所与として光である。だからその光に適当なフィルターをかけ、切り取って映像にするだけでよい。
写真は撮るものではなく、写真は撮れるのである。


(「白と黒で 写真と・・・・・・」 清水穣)