2007/02/15

アーレントは政治の純粋性になぜそこまで固執するのか

では逆に、アーレントは政治の純粋性に、なぜそこまで固執するのであろうか。それは「自由」のためである。
自由こそが政治の存在理由であり、自由は「意志」の中にあるのでなく、「活動」の中にある。
すなわち自由であることと活動することは同じである。「活動」において「自由」を定義づける彼女の議論は、
活動の役割をその人らしさの表現と定義する。その「活動」を通して、われわれは「世界」に入り込み、それに変え、そこに先例のない、
予見できない新しさをつくり出す。「活動」が「複数性」を生み出すのはこのゆえであり、公的な舞台に立つことで、人々の違いは明らかになる。
この、新しいものと、相違をもたらす能力をアーレントは「出生」(natality)と名づけ、「必要性」(necessity)
の圧力や効用の計算からは説明できないものとする。「活動」を効用や配慮に従属させては、自発性や創意を破壊することになるだろう。「自由」
とは、やはり「政治」を手段的権力的なものから純粋化する過程そのものに存在する。「政治のための政治」、
つまり政治が自己目的的であるというのは、人々が差異を保ちつつ共存できる世界を建設し、
維持すること自体が政治の目的であるということを意味するのであり、この政治的自由は経済やイデオロギーに妨げられてはならないのである。
すなわち公正な分配についての経済的問題と、
集団としてのわれわれが自分たちを統治する制度を形成するという政治的問題を別の問題として区別することが、
自由な市民であるための条件なのである。


しかし実際に、経済的問題と政治的問題をそのように厳然と区別することは可能だろうか。たとえば、M・
アグリエッタは次のように述べている。


「個人が資本に服従するのは、労働力の売り手としてだけではない。無数の社会関係(文化、余暇、病気、教育、性、さらには死さえも)
への編入を通じてなされる。資本制諸関係から逃れられるような個人生活や共同生活の領域はほとんど存在しない。」


つまり、資本の論理はすでに私的領域のすべてに浸透しているのであり、
このような状況下で経済的問題をすべて政治的問題から排除することが果たして望ましいことなのか、と問うことも可能であると思われる。


(「ハンナ・アーレント入門」 杉浦敏子 藤原書店)


M・アグリエッタ:ミッシェル・アグリエッタ、「資本主義のレギュラシオン理論」

参考:"http://cruel.org/econthought/schools/neomarx.html">"3">新マルクス学派(ラディカル政治経済)