2007/02/05

アーレントの共和主義

従来の共和主義に対する一般的な批判は、共和主義が、言語や民族や文化を同一とした自然的共同体への回帰、
そしてその国家大への拡大であるところの全体主義へ通じる危険はないか、というものであった。とくに共和主義の主張する自由主義への批判、
行動主義、勇気や栄誉の重視、リーダシップの優先、同志愛の理想化、スパルタ的な自己犠牲の賛美などが実存主義と結びついたときに、
二十世紀の全体主義は出現したのである。


(中略)


従来の共和主義的伝統、つまり自分たちを脅かす政治的現象に屈服するのではなく、勇敢に戦うという共和主義的な伝統を支持しながらも、
それが全体主義にいきつくのを防ぐために彼女が擁護し、重視したのが、「複数性」であった。政治における活動は、孤独な英雄の行為ではなく、
仲間との間の相互行為であり、人間の個人性が最も輝くのは、戦場でのスパルタ的同志愛においてではなく、
公的領域で自らの際立ったアイデンティティーを表出することにおいてである。


(中略)


彼女は「権力」(Macht)と「暴力」(Gewalt)を区別し、次のように述べる。「暴力」は「複数性」ではなく武器に依拠する。
そして「権力」は支配の道具となるとき「暴力」となる。そのため「その本質が命令、服従の関係に依存せず、権力を支配と、
法を命令と同一視しない権力と法の概念」こそが重要となる。こうした概念を彼女はアテナイのイソノミアとローマの共和政に求める。
そこでは権力は「単に活動するのではなく、(他者と)共同して活動するという人間の能力に対応している。権力は個人が所有するものではない。
それは集団に所属しており、その集団が集団として存続するかぎりにおいてのみ存続する。」「権力は複数者の属性であり、
暴力は一者の属性である。」


アーレントによる「権力」と「暴力」の区別は、根本的には複数の主体の間における相互間な関係と、
一方の絶対的な主体性と絶対的な客体性とを前提とする一方的な支配服従関係との間の差異に由来する。逆に「権力」なき「暴力」は無力であり、
「純粋に暴力の手段にのみ依存する政府はいまだかつて存在したためしがない。」「政治的に言えば、
権力と暴力は同一ではないというだけでは不十分である。権力と暴力は対立するのである。一方が完全に支配するところでは他方は存在しない。」


こうした権力の創設の例をアーレントはアメリカ革命に見る。アメリカ革命の意義は、市民的自由の保障ではなく、
人民が新しい政治体を組織する行為としての自由の創設、つまり新しい権力システムの創設にこそあった。
それはまさに権力は人民にありという共和政の原則を体現したものであったとアーレントは考えるのである。彼らは社会契約を実践に移す。
つまり相互的、水平的な約束によって政治体をつくり出そうとした。


「権力が約束によって構成される相互契約の方は、最小限、共和政の原理と連邦制の原理をともに含んでいる。共和政の原理によれば、
権力は人民のなかにあり、その場合「相互服従」のおかげで支配は不合理なものとなる。」

事実、アメリカ革命を担った人々は共和主義思想の影響を強く受け、「政治的自由とは「統治参加者」であることの権利を意味するのであって、
そうでなければそれはなにものをも意味しない」ということをよく理解した人々であった。


ここでは「ネーション」(nation)が政治体の基礎ではなく、したがってそうした基礎としての過去と起源の同質性は不要になる。
政治体の基礎は同質性ではなく、共同で行為するという決意にある。この点は、アーレントの共和主義が、
伝統に基づく自然共同体に依拠していないことを示している。


「権力とは、人々が約束をなし、約束を守ることによって、創設行為のなかで互いに関係し結びあうことのできる世界の介在的
(in-between)空間にのみ適用される唯一の人間的属性である。そしてそれは政治領域では、
最高の人間的能力とみてさしつかえないだろう。」


(「ハンナ・アーレント入門」 杉浦敏子 藤原書店)