2007/02/16

アメリカ「ライフ」誌における第二次大戦での戦争の描き方

数あるグラフ雑誌のなかでも、1936年にアメリカで創刊された「ライフ」がプロパガンダ活動で果たした役割は大きい。「ライフ」
の創刊にはナチスの迫害を逃れてアメリカに渡った写真家や編集者たちがかかわっていて40年には毎週三百万部の売り上げを誇るまでに急成長を遂げていた。
キャパやユージン・スミスなどに代表される戦争特派員たちは、小型カメラを携えて前線に赴き、
兵士たちが戦う様子やその表情を間近に撮影した。「ライフ」の編集者たちは、
戦争特派員たちが捉えた写真に航空写真や前線の状況を撮影した写真などを組み合わせて、戦局のフォト・ストーリーを仕立て上げていった。
編集企画にかかわるさまざまな段階で、編集者側がすべての決定権を握っており、
写真家はテーマについての選択権をもつことも独自の解釈を加えることもできなかった。また、
政府当局からも写真の掲載に関して厳しい規則が課せられていた。


たとえば太平洋戦争が始まって最初の二年間、アメリカ政府は、
死亡したり重傷を負ったアメリカ兵の写真を一般に公開することを禁止していた。当局側は、
戦争の現実をさらすことによって国民の士気がくじかれるのではないかと恐れていたのである。しかし敵軍の兵士であれば、
重傷を負っていようと瀕死の状態や死体であろうとも、恐ろしいほど克明な写真が掲載された。ガダルカナル戦線の戦局を伝える記事(「ライフ」
 1943年2月1日号)では、現地でのアメリカ軍兵士の活躍を紹介するフォト・ストーリーの最後のページに、
爆撃された日本軍の戦車の上に置かれた日本軍兵士の焼けただれた首を捉えた写真がページ全体を覆うほどの大きさで掲載されている。
このように敵軍の兵士の、見るも無惨な状態の死体を掲載することによって、戦争の代償を支払っているのは敵だけであり、
アメリカ軍にとって戦局は有利に展開しているというメッセージを巧妙に伝えていたのである。


しかし次第にアメリカ国内の士気が緩んで、配給制や賃金・雇用の規制に対する不満が高まると、
当局も規制の方針をせざるをえなくなった。フランクリン・ルーズヴェルト大統領は軍部に対して、
アメリカの犠牲と苦痛を捉えた写真を公開するように要請した。ジョージ・ストロックが撮影した「ブナ・ビーチのアメリカ兵の死体」(
「ライフ」 1943年9月20日号掲載)は、アメリカ兵の死体 - 顔を判別できないような角度から撮影されている -
 を初めて誌上で公開したものである。この写真は、戦時国債の購入を促進するための広告も添えられていた。
つまり死という高価な犠牲を払って戦った戦死者を見せることが読者の感情を揺さぶったのである。
結果として国債の売り上げが伸びることになった。


敵国である日本軍の兵士の死体とアメリカ兵の死体を捉えた写真の取り扱い方を比較してみても、
自国の兵士と敵国の兵士の描き方に大きな違いがあることがわかる。また、
このような違いは第一次世界大戦期のポスターに見られた兵士の描き方、すなわち英雄的な自国の兵士と、
怪獣としての敵軍の兵士の描き方を継承したものと言えるだろう。


(「写真を<読む>視点」 小林美香 青弓社)