2007/07/03

中華街の歴史過程 その1

現在のように、街が中華料理一色の観光地となったのは、実はそう古いことではない。私は、横浜中華街で生まれ育ったが、
かつては八百屋や肉屋、薬局や洋服店など生活に密着した店、そして蕎麦屋やとんかつ屋などがあった。中華街といえども、
街に暮らす6000人の約半数が華僑・華人で、その他の半分が日本人や朝鮮人などであった。幼いころの記憶では、
朝鮮人の人たちも多く暮らしており、現在の市場通りの反対側は「朝鮮人街」と呼ばれていた。キムチや香辛料など韓国食材が売られ、
また山下公園まで台車をひいてアイスクリームを売りにいくオムニたちを見かけることも多かった。子供たちは、国籍や出自にかかわらず、
チャイナタウンの一角にある山下町公園で、缶けりや鬼ごっこなどをして遊んだものだった。街には人々の生活がにじみ出ていた。ちなみに、
山下町公園は、まだ居留地があった頃、会芳楼という劇場があり、そこは居留地の人々の娯楽の場だったそうだ。その後、
跡地に清国領事館が建てられていた。領事館は、関東大震災で倒壊し、戦後、跡地は山下町公園として地元の子が遊び、
夏には盆踊りやのど自慢大会などをすることに使われるようになった。2000年、歴史にちなんで会芳亭という中国風の東屋を建ててからは、
地元の人よりも、むしろ、観光客の憩いの場となっている。


観光地としての色彩が色濃くなる1980年代ごろまでは、街に住む華僑・華人たちが中華料理店を営み、日本人がその材料となる肉や魚、
野菜、酒、食器などを提供するという分業が行われていた。しかし、日本はバブル経済に伴ってグルメブームとなり、
チャイナタウンの料理店がメディアでしばしば紹介されるようになると、街はいっきに「中華料理のテーマパーク」
としてのイメージが強くなっていった。その後、肉屋が豚まん屋に、魚屋が中華の海鮮料理店に転身するなど、日本人が経営していた店が、
軒並み「中華色」を打ち出した商売に変わっていったのである。街に食材をおろすより観光客向けの商売に転向するほうが、
利益率が高いので当然といえば当然である。こうして、チャイナタウンに暮らす日本人が。「中華ブランド」を利用し、かつ自分の
「アイデンティティ」とすることによって、チャイナタウンの「中華色」がいっそう濃くなるという、興味深い現象が起きている。


(『現代思想』 2007年6月号 「危機を機会に変える街 チャイナタウン」 陳天璽 P85-86)