2007/01/25

亀の逸話

出発する前の晩、母は見えない危険から守ろうとするように、わたしの頭をしっかり引き寄せた。
家を出て行く前からもう母に戻って欲しくて、わたしは泣いていた。母の膝に顔をつけていると、母はこんな話をしてくれた。


「アンメイ」 と、母は囁いた。 「池にすんでいる小さい亀を見たことがあるでしょう?」 わたしは頷いた。それは中庭にある池で、
わたしはよく棒切れを静かな水面に突っ込んで岩陰の亀を追い出していた。


「あの亀は、わたしも子供のころから知っているのよ」 と母は言った。 「池のほとりに座って、
亀が水面に浮かんで口をぱくぱくさせるのを見ていたものだわ。あの亀は、とても歳をとっているの」


その亀が目に浮かび、母も同じものを見ているのがわかった。


「あの亀は、わたしたちの思いを食べて生きているのよ」 母が言った。 「それを知ったのは、あなたと同い歳のときだった。
おまえはもう子供にはなれないよ、とポーポに言われたわ。叫んだり、走ったり、地面に坐ってこおろぎを捕まえたりできないって。
がっかりしても泣いてはいけない、目上の人の話を黙って聞いていなければならないって。それができないなら、
わたしの髪を切り落として尼僧の住むところに送り込む。そうポーポに言われたの。


「ポーポからその話を聞いた夜、わたしは池のほとりに坐って水を覗いたの。わたしは弱かったから泣かずにはいられなかった。すると、
あの亀が表に浮かんできて、わたしの涙が水面に落ちるたびに食べていくのよ。五つ、六つ、七つと急いで食べると、
池から這い上がって滑らかな岩の上に座り、わたしに話しかけたの


「おまえの涙を食べたから、いまのおまえの悲しみがよくわかる。だが、一つだけ警告しておこう。泣けば、
いつも悲しい人生を送るだけになるよってね。


「それから、亀は口を開けて、五つ、六つ、七つの真珠みたいな卵を吐き出したの。その卵が割れて、中から七羽の鳥が現れ、
すぐにさえずり始めたの。雪のように白いおなかと美しい声で、すぐに喜びの鳥と呼ばれるカササギだとわかったわ。
鳥たちは嘴を池につけてむさぼるように水を飲み始めたの。 一羽を捕まえようとして手を伸ばすと、
いっせいに飛び立って黒い羽をわたしの目の前で打ち合わせ、笑い声を上げながら飛んでいってしまった。


「これでわかっただろう、と池に戻りながら亀が言ったわ。泣いてもなんにもならないことが。
おまえの涙は悲しみを洗い流してくれないのだ。他の人に喜びを与えるだけだ。だから、
おまえは自分の涙を呑み込むことを学ばなければならないよってね」


でも、話し終えた母を見たとき、母もまた泣いているのがわかった。それで、わたしはまた泣きだした。
小さな池の底から水の世界を一緒に眺めている二匹の亀として生きるしかない。母とわたしの運命を思って。


(「ジョイ・ラック・クラブ」 エミィ・タン 小沢瑞穂訳)