2007/03/08

不可視性としての写真 「Photography "of"-」

1.写真の本質

Ⅰ.Photography "of"-


写真という言葉は、記号の1つの特殊な様態を意味するものとする。それを写真性と呼ぶならば、写真性を持ったものは全て写真である。
カメラとレンズ、焼き付け、機械性、複製可能性、オートマティスムと芸術論争、リアリズム、ストレート・
フォトグラフィーとピクトリアリズム、証拠写真・ドキュメンタリー・・・によって条件づけられた表現形式として、我々は写真を理解しない。
それこそが、多くの混乱や誤謬の原因なのだ。印画紙に写されたからといって、写真ではない。
キャンバスに描かれているからといって絵画ではない。カメラと焼き付け技術によって、写真が歴史上に登上し、普及していったのは事実である。
しかし写真性にとって、カメラは二次的な装置である。写真性というのは汎歴史的なものであり、アレゴリー、顔、
ヒエログリフは既に写真であった。それを踏えて、「写真」の衝撃というものがどのようなものだったのか、今一度辿りなおして見たい。


上に述べたように、写真の本質は極めて単純である:写真とは常に既に「何かの」写真である。この言い方に聞き覚えはないだろうか?
フッサールは彼の指向性という概念を、意識が常に既に《何かの意識》であること、と述べている。この、一見しごく当然の言い方によって、
しかしながら「意識の場」(意識領野)という考え方が静かにとどめを刺されている。すなわち、ヒュームも言ったように、自己、
あるいは精神とは、精神内の印象、つまり普通我々が対象と言っているもの、と同じであり、精神という「場」
に対象が表われたり消えたりするのではない。意識は全く一層的である、つまり、その裏に何も隠してはいない。
意識の諸対象は決して表象ではないのだ。写真の衝撃とは、現象学的還元のそれと同質である。つまり、写真が実行することは、「世界と私」
に対するエポケーなのである。それは「私とそのまわりの世界」という自然な考え方を失効させる。写真は常に「何か」の写真である。と聞くと、
通常我々はカメラ・オプスキュラにならって、写真機の外側にその「何か」を想定し、それが印画紙に写される、と考える。しかし、写真とは、
写真内の対象と同じであり、印画紙というフィールドに何かが写ったり写らなかったりするのではないのだ。


さて、その結果、世界と自己は1つである。写真とは、
ある自我=主体が自分のおかれている世界をありのままに撮影するなどということではなく(それなら単なるリアリズムに過ぎない)、
そのような主客分離に先立つ世界の有り様を写し取ることなのだ。つまり、そこでは自己とか世界といった言葉は何の意味もなさず、
また世界と自己は同時には存在しない。あなたがいて、世界が在って、それをあなたが見ている、のではなく、
あなたとはあなたが見ている世界である。


さて、私とは私の見ている世界であるとするなら、そのような私=主体とは何か。「主体は世界に属するものではない。
それは世界の境界である。」


「主体」は、あれやこれの「私」つまり「心理的自我」のことではない。「主体」は、
世界という関数をその外側から規定するものとして要請されているのであり、世界に「構造」をあたえるものである。
世界の構造をその外側から膜のように規定している1つの限界概念、「主体」。ドゥルーズはこの「主体」を「ア・プリオリな他者」
と呼んで次のように述べる。

「他者は知覚領野の総体を条件づけている構造であり、この総体の機能である。知覚を可能にするものは自我ではなく、構造としての他者である。


「(他者は)まず第1に知覚領野の構造であって、それがなければ、この知覚領野が総体として適切に機能しなくなるであろうな、構造である。」


別の言い方をヴィトゲンシュタインにならってすると、視界=みられている世界の「構造」とは「見ている眼」である。それは、
視界で唯一見られないもの、穴となっている点である。従って、この点に関しては世界というシステムは無効であり、この点は、
構造づけているものとして、構造づけられているシステム内の論理を越えているのだ。この「見ている眼」こそカメラ・アイである。


一見単純な前提から、我々はまず2つのことを得た。写真の衝撃が、それまでの認識論的前提を、現象学的の失効させたこと、そして「ア・
プリオリな他者」を我々に発見させたということである。


(「不可視性としての写真」 1.写真の本質 Ⅰ.Photography "of"- 清水穣)