2007/03/04

「裸」というイデオロギー

「裸」は近代のもっとも強力なイデオロギーの一つである。たとえば、すでに(あるいは初めから)「個」
など解消しきっている日常を生きている我々にとって「個の解体、個性の超克」と叫ぶ者こそもっとも「個」にとらわれているように見え、
またほとんどの人間は「詩」になぞ関心がないのだから「ポエジーを握りつぶせ!」と命令する者がいちばん詩人めいて見えるわけだが、
このような、どこかマッチョで英雄的な叫びにいま少し真面目に耳を傾ければそれらは。「個」や「ポエジー」
の存在が障碍となって何かリアルなものが出現しない、だから個性や詩を取り除け、殺せ、と訴えているのだとわかる。


そしてこの「なにかリアルなもの」こそ「裸」ということにほかならない。曰く、裸の、剥き出しの現実、ものそれ自体、裸の言葉、
ありのままの世界へ向けて己を曝せ・・・・・・。「裸の世界」とは、意味づけの彼方、文化的システムの外部であり、
システムに回収されえない場所、日常と非日常の彼方のことである。「単々とした日常」あるいは「白日の下の意味の墓場」をまえに、
呆然と目を見開いて立ちつくす、これこそが近代のセンチメンタルなのだ。それは湿っぽい叙情を憎み、その絶対的不在=「砂漠」を目指す。


そこは「私」と発語する人間が蒸発した、空虚で非人称の場所である。「裸」のセンチメンタリズムは「砂漠」のそれだ。
雑草のようにはびこる意味と無意味を焼き尽くし、システムの内部を滑らかに流通するだけの生の彼方、砂漠を目指さねばならぬ。


(「白と黒で」 砂漠よさようなら 清水穣 現代思潮新社)


コメント:例外的にコメントを付す。この引用した文章の文体そのものに時代の流れを感じる。しかし本文の初出は2003年4月とある。
約4年前はこのような単語を使っての文体がまかり通る時代だったのだろうか。おそらく全てが意図的なのだろう。
しかしこの文体そのものに森山大道の写真の世界観が、無論清水穣氏にとっての、封じ込め込められているように思え、
内容そのものよりも興味を抱かせる。(Amehare)