2007/03/19

不可視性としての写真 3.写真表現=記号の存在論(1)

3.写真表現=記号の存在論

我々が扱ってきた、問題の系列を今一度挙げてみよう。写真-写真性-レフェランという基本軸があり、そこに、それぞれ潜在性、表層性、モンタージュという概念が絡まっている。写真とは表象するものであり、写真性は表現されるものであり、そしてレフェランは表現である。そして、表現するものは潜在的であり、表現されるものは表層においてされ、レフェランは本質的に(狭い美術史的な意味ではなく)モンタージュである。全てに共通する性質は、中間的な境界線上の質、すなわち写真的不可視-色彩、である。そして、最終的に、これらは、視覚構造の外で写真という記号の存在を形成している。

我々は、写真という言葉を技術的、社会的に制約された一連の表現形式とは別に考察してきた。つまり、写真性を持つ表現は全て写真であり、例え印画紙とカメラによる表現でも、写真性を持たないものは写真ではない。

なるほど、これは突飛な言い方であり、観念的だとの誹りを受けるであろう。我々は、無条件にある伝統的な認識論の図式に従って、私がいて、私の周りの世界が在って、それを私は写真に撮る、と考える。そこに時間性を導入して、かつて私が撮影した時には、意識していなかったものを、現在私は写真において認識する、というふうに、潜在意識が発見され、たとも考える。どこに写真の衝撃があるというのか?また、これはリアリズムの基盤であるが、リアリズムほど観念的なものがあろうか?

我々は、この前提を捨てるところから論じ始めた。写真の衝撃とは、それが世界を凍り付かせ、我々を世界の境界まで連れて行くところにある。この衝撃は、写真の本質として常に潜在しているものである。そこから、構造も無意識も時間性も、あるいはリアリズムも考察されなおさねばならなかった。そして、衝撃がどこから来るのかという問題が残っている。


そこで、ここでは、具体的に現代の写真表現を論じていきたい。「複製技術時代の芸術」からほぼ60年の間に起こったことは、視覚そのものの写真化である。視覚の写真性はもはやジャンルとしての写真を越え、例えば非常にデジタルなメディアとしてのアニメーション映像において、まさしく最も顕著であり、「意識から漏れたものが写っている」という事実に19世紀的な驚愕をおぼえる人はもはやいない。何故なら、1章でも言及したように、我々が視覚的無意識を日常的に回収してしまったからである。

可能性と潜在性の差異、この無視されやすい微妙な差異をとびこえて、潜在的なものは、都合よく可能的なものとして回収されてしまった、「眼では見えなかったけど、カメラには写っている」という具合に。

潜在性を、可能性の時間的落差(見えなかったが、写っている)へと回収し、こうして全てのものは可視的になった。カメラとはこの、全面的可視性の表現だったのである。眼に見えるとか、眼に見えないとかいう二分法は消滅した。カメラに写るものが見えるものであり、現実的である。そして原理的にカメラ(それは光学カメラには限らない)で撮影されないものはないのだから、我々には見えないものはない。ここから、アニメーション映像は、映像として成立し、またこの全面的可視性において「カメラ的」なのである。一方で、ベンヤミンには見えなかったものを日常的な可視性の中へ回収した代償として、我々は彼には見えていたもの(潜在的な質)をそれこそ見失ってしまった。

1章において我々は、写真の本質とは、視覚構造にとっての絶対的外部として内在する、写真は不可視である、と規定した。潜在的な視覚性として、この写真的不可視は決して見られないが、レフェランの中に存在している。何故、我々にはそれがわかるのだろうか?
決して見られ得ないものの存在を我々に向って表出すること、これが現代の写真の問題であろう。
同時にそれは上で述べたような現代の視覚性から逃れ、その絶対的に潜在的な質にむかって撮られるものである。それは「見えなかったものも見る」近代の写真とは逆に、何も写っていないことによって、写真化した視覚性を本質的に逃れたもの(潜在性としての「不可視」)が写っている写真である。事件、風景、霊魂・・・・・・いずれにせよ何かを表象して写している写真は最初から失敗している。
現代の写真を見ることは出来ない。何故ならそれは見ようとしない人にだけ見える(完全な自動詞的意味において)ものだからである。


出来る限り無表情なもの、そして眼には映っているが決して見てはいないもの、いわば視覚領野の余白部分-例えば給水塔(ベッヒャー)、人の顔(ルフ)、美術館の雑踏(シュトルート)、凡庸な風景(ビュスタモント)、劇場のスクリーン(杉本博司)等など-を、被写体として固定してしまうことである。写真から「見られたもの」を排除するこの方法論は正当ではあるがしかし彼らは大抵シリーズ化したルーティンワークに陥っている。
コンセプトとして純粋なその退屈さを克服しようとすると、決まって知的情緒とでも呼びたい無人の映像表現が現れる(杉本博司の海、シュトルートの風景)。現時点ではもうこの方法論は適用しないといってよいだろう。

「無人」の表現は往々にして「空虚」な表現に陥る。杉本の無人の海は、観る者の情緒を誘う。つまり、無人の海に写っているのは空ろな「私」である。しかし、写真性は空虚、隙間、真空を嫌う。だから、写真の「無人」性とは文字どおり、人(「私」も含めて)の無い性質であり、単一の写真性の露出でなければならない。
ベッヒャー的な方法論から出発した作家の中でも最も先鋭的な1人であるビュスタモントの風景のシリーズ「タブロー」を例にとろう。

何故「タブロー」なのか? リヒターの写真絵画の逆である。何故写されているものは造成地なのか? 2つのシステム-人工と自然-の中間に広がる場所だからである。ビュスタモントは、写真の本質としての不可視性が、中間的な存在であることを示唆し、そして、それが色彩と深い関係にあることを「カラー写真」によって示している。彼の人気のない造成地の写真は、もはや杉本の海のような、空っぽの「私」を写している無人の風景表現ではなく、無人性と言うことが単なる事実の確認にすぎない風景表現である。

ビュスタモントの写真には、見られたものもなく、見るものもない。何故なら、そこには、視覚領野の構造としての不可視性(「見ている」)だけが存在しているからである。

この純粋度と、不可視性の追求は驚くべきものがあるが、ビュスタモントでは、1つ1つの風景から、徹底的に意味がはぎとられ、その選択は任意である。その結果、レフェランが生じずに、画面には恐るべき平板さが拡がることとなる。我々に写真的不可視を感じさせるのは、この異様な平板さであるが、他方で写真的不可視としての構造は、内在化の契機を与えられず、低い解像度のまま、どことも知れず画面の表層で漂いつづけるばかりである。ビュスタモントの徹底性と純粋さが、写真的不可視を他に例を見ないほど表面へ押し出しはするが、それが同時に限界になっているのだ。構造は、解体=解像せず、不可視の膜として画面の表層にせり出すだけである。

(「不可視性としての写真」 3.写真表現=記号の存在論 清水穣)