2007/03/17

不可視性としての写真 2.表層-色彩に関するノート(1)

2.表層-色彩に関するノート


写真の絵画性とは何だったか。この問題に対して、我々は逆説的な答えで答えたい。つまり、絵画的写真は存在しなかった、逆に、
写真的絵画だけが存在したのである、と。写真と絵画の技術的な相違に惑わされてはならない。肖像画家が写真家に鞍替えしたのは、彼らが「顔」
という写真と同じ性質を持った特権的な記号を既に表現していた=写真を撮っていたからである。観相学と骨相学は、
形を変えた写真論に他ならない。また19世紀後半に、典型的な印象派スタイルで描かれた膨大で凡庸な絵画群は、
スナップ写真のように見えはしないだろうか?


しかし、ここで考察したいことは、むしろ、絵画が写真と共通に持っているもの、つまり絵画の写真性についてである。


例を挙げよう。モネ晩年の巨大な水連の連作を眺めながら、何故これほど抽象的な絵が「水連」と題されているのだろうと考える。
ターナーの空気とは異なる水連の絵画には何が描かれているのか。水連の池の周りの風景は障壁画の枠のように描かれているだけである。
細かく縮れ乱反射しながら水面に映りこむ別世界の水連が描かれるとき、雰囲気で充満した水辺の風景は、一気に厚みの無い純粋な映像へと転じ、
そこに現れるものは冷たく透明な表層としての水面である。非物質的で、それ自身は視覚と逃れながら、
すべての映像を映像たらしめる冷ややかな水面=表層。これこそ「水連」によってモネが描こうとしたものであり、
モデルニテと呼ばれるものの一つの本質であり、そしてターナーの空気からモネを峻別するものである。冷たく透明な表層が、
それ自信は視覚から逃れる時、それはしばしばhaptique(触覚的な視覚性)な表現形式をとる。


もう1つ例を挙げよう。Ⅰ章で論じた潜在性を絵画が獲得する為には、そして、それが現代絵画の冒険であったはずだが、
絵画的空間と表層を多重化する、つまり亀裂を走らせ、異なる空間と位相の間を産み出し、それらの間に運動を起こす手続きが必要である。
これこそ、モンタージュと呼ばれるものに他ならない。風景や林檎、サンヴィクトワール山や水浴する人々が、潜在性を帯びる為に、
1つの画面の中で様々な空間と表層が重なりあい、また結晶の1つ1つの断面のように連結しあうような構成が求められた。
「そのおのおのが宝石の切断面のように輝く無数の運動・・・・・・」


私は、この表層とモンタージュが絵画の写真性をなしていると考える。そして、この意味での写真性の最も統合された表現をゲルハルト・
リヒターに見る。


haptiqueな表層のさらに高度な表現、つまり、水連を必要としないほどに完成された表現を、彼のAbstract
Paintingに見ることが出来るだろう。そこでは、ある色面が別の色面に折り重なり、あるいは畳み込まれることによって、
言い換えれば色面がモンタージュされることによって、異常な深みを持った表層(矛盾した言い方だが)が出現している。モンタージュ、色彩、
透明性、表層に対するリヒターの深い洞察によって、その作品には絵画における不可視性であるところの「光=色彩」が漲っているのだ。
彼が抽象絵画と同時に写真を元にした作品を制作していることこそ、リヒターのユンシステンシーに他ならない、つまり、どちらのスタイルも、
リヒターの「写真」なのである。2つのスタイルをつなぐものは"painting"ではない、"abstract"のほうである。
どちらの写真の抽象的な潜在性の表現なのであり、それが抽象絵画では光として、写真絵画ではレフェランとしてあらわれている。色彩は、
写真と(別にカラー写真であるか否かは問題ではない)本質的な関係にある。
写真的な認識の布置をクレイリーがゲーテの色彩論から論じ始めているのは偶然ではないのだ。


(「不可視性としての写真」 2.表層-色彩に関するノート 清水穣)