2007/03/31

服従の概念

ニュルンベルグ裁判からアイヒマン裁判まで、そして最近のドイツでの戦争犯罪人の裁判にいたるまで、
どこでも同じ論拠が使われてきました。どんな組織も上官に対する服従を求めるのであり、自国の法律に対する服従を求めるのだというものです。
服従は政治的には重要な徳であり、服従なしにはどんな統治体も存続できないというわけです。良心に無制限の自由を認めると、
組織的な共同体は滅亡してしまうしかないのであり、このような自由が認められる場所はないというのです。


たしかにこの論拠はもっともらしく聞こえるので、その誤謬を確認するにはある程度の努力が必要です。この論拠がもっともらしいのは、
マディソンの表現では「すべての政府は」。もっとも独裁的な政府でも、専制政治でも、「合意の上になりたつ」
という真理に依拠しているからですが、これは誤謬であるのは、合意を服従と同じものと考えているところにあります。合意するのは成人であり、
服従するのは子供です。成人が服従する場合には、実際には組織や権威や法律を支持しているにすぎず、それを「服従」と呼んでいるのです。
これは非常に長い伝統のある悪質な誤謬なのです。厳密に政治的な状況に「服従」という語を使うのは、
政治科学のきわめて古い観念にさかのぼるのであり、プラトンやアリストテレス以来、すべての統治体は支配する者と支配される者で構成され、
支配する者が命令を下し、支配される者は命令に服従するとされたことによるのです。


もちろん本日は、こうした古い概念が西洋の政治思想の伝統にはいりこんできた理由を立ち入って説明する余裕はありません。
ただここではこうした観念は、
協調のとれた行動の圏域における人間関係というもっと正確な観念をうけついだものであることを指摘しておきたいと思います。
ごく初期の概念では、複数の人間が実行するすべての行動は、二つの段階に分割できるとされていました。「指導者」が始める端緒の段階と、
多くの人々が参加する実現の段階であり、多数者が参加することで、この行為は共通の営みとなるのです。


わたしたちの検討している問題の枠組みでは、どれほど強い人でも、他者の支援なしには、善きことでも悪しきことでも、
何も実現することはできないという洞察が重要になります。ここにあるのは平等性という観念であり、それが「指導者」という観念、
指導者とは平等な者のうちの第一人者にすぎないという観念です。指導者に服従しているようにみえる人々も、
実際には指導者とその営みを支援しているのです。こうした「服従」なしでは、指導者も無援なのです。このような成人の営みとは対照的に、
育児と隷属の条件のもとでは、子供や奴隷は「協力」することを拒むと無援になるのです。
服従という観念が意味をもってくるのはこの育児と隷属という二つの圏域であり、そこから服従という観念が政治的な問題に転用されたのです。


固定された階層秩序をもつ明確に官僚制的な組織でも、「歯車」や車輪が共通の営みに対する全体的な支援という視点から、
どのように機能しているかを調べるほうが、上官への服従という通常の視点から考察するよりも有益なのです。
わたしが自国の法律に服従するとしたら、それは実際にこの法律を支持していることを意味します。このことは、革命と叛乱の際には、
人々はこの暗黙的な同意を撤回するために、服従しなくなることを考えてみると、はっきりします。


この意味では、独裁体制のもとで公共生活に参加しなかった人々は、服従という名のもとにこうした支援が求められる「責任」
のある場に登場しないことで、その独裁体制を支持することを拒んだのです。十分な数の人々が「無責任に」行動して、支持を拒んだならば、
積極的な抵抗や叛乱なしでも、こうした統治形態にどのようなことが起こりうるかを、一瞬でも想像してみれば、この〈武器〉
がどれほど効果的であるか、お分かりいただけるはずです。20世紀に発見されたのは、
こうした非暴力行動と抵抗のさまざまな形式の一つなのです(たとえば市民的な不服従のもつ力をお考えください)。


それでもわたしたちがこうした新しい種類の戦争犯罪人、すなわち自発的にはいかなる犯罪にも手を染めなかった人々にも、
やはり実行したことにたいして責任を問うことができるのは、政治的な問題と道徳的な問題に関しては、
服従などというものは存在しないからです。奴隷でない成人において、服従という概念が通用できる唯一の圏域は、宗教的な圏域であり、
宗教の場では人々は神の言葉と命令に服従すると語ります。というのは、神と人間の関係は、
大人と子供の関係で考えるのがもっとも正しいからです。


ですから、公的な生活に参加し、命令に服従した人々に提起すべき問いは、「なぜ服従したのか」ではなく、「なぜ支持したのか」
という問いです。たんなる「言葉」が、ロゴスをもつ動物である人間の心にどれほど強く、奇妙な影響を与えるかをご存じであれば、
服従から支持へと言葉を変えることは、意味論的に無意味ではありません。この「服従」
という悪質な言葉をわたしたちの道徳的および政治的な思想の語彙からとりのぞいてしまえば、どれほど事態がすっきりとすることでしょう。
この問題を考え抜いてみれば、わたしたちはふたたびある種の自信と、ときには誇りをもてるようになるでしょう。かつては、
人類の尊厳と名誉と呼ばれていたものをです-おそらく人類の尊厳と名誉ではなく、人間であるという地位に固有の尊厳と名誉を。


(「独裁体制のもとでの個人の責任」 ハンナ・アーレント 中山元訳 筑摩書房 「責任と判断」より)