2007/03/11

不可視性としての写真 視覚的無意識(1)

Ⅱ.視覚的無意識


それならば、カメラ・アイは、構造としての無意識を写しだす、と言うことなのだろうか?

「事実、カメラに語りかける自然は、眼に語りかける自然とは違う。その違いは、とりわけ、人間の意識に浸透された空間の代りに、
無意識に浸透された空間が現出するところにある。」


無意識(Unconscious)は潜在意識(Subconscious)のことではない。つまり、今は意識の表層に現れていないが、
いつか現れうる、隠れている意識、潜行している意識のことではない。用語が交差するので混乱しないようにしたい。可能的なもの(the
possible)/潜在的なもの(the virtual)の区別が問題なのだ。潜在意識は可能的であり、無意識とは潜在的なものである。
潜在的なものとしての無意識は決して意識に現れることはない。それはすべての思考可能なものの外部である。この意味において、
無意識は意識の構造なのである。そのようなものは定義上考えることは出来ないから、内側から境界画定する他はない。
ベルグソンの言い方を借りれば、可能的なものは現実的(actual)ではあるが、実在的(reel)ではなく、
潜在的なものは実在的であるが、現実的ではない。


ベンヤミンが発見したものは、写真を撮られたときには意識されていなかったが、
写真を見ている今は意識できるような潜在意識の領域ではなく、意識可能なものの絶対的外部としての潜在的な質であり、
それこそ彼は視覚的無意識と名付けた。


ただし、この区分は彼にとっても曖昧なものであった。何故なら、写真は彼にとって、記号論なものであると同時に、
複製技術と高速度シャッターによって切り拓かれた未知の世界をも意味し、また「本物」による芸術を、
大量生産される複製による空想の美術館へと変容させてしまう社会的機能をも担っていたからである。この曖昧さは有名な「アウラ」
の概念にもその影を落としている。複製技術によって、オリジナルが持っていたアウラが雲散霧散してしまった、芸術の受容は、
複製の受容に先立たれ、複製の反射を受けて成立するようになった・・・・・・という判りやすいストーリーを語る闘争的なベンヤミンとは別に、
アウラとは「それがどんなに近くにあろうとも、我々は自然対象のアウラを、ある遠さの1回限りの比類なき顕れと定義する。ある夏の午後、
横になりながら、地平線の連なる山なみや、自分に影を落とす枝の動きを追うこと、これがその山なみや枝のアウラを呼吸することである。」
 これのどこが定義なのだろうか。なによりも、この文章からは、例えこの山なみや枝の写真が何万枚複製されようと、
それらのアウラが消えるとは思えないのである。影を落とす枝の写真にも、無意識に浸透された空間が顕れているのか?


(「不可視性としての写真」 1.写真の本質 Ⅱ.視覚的無意識 清水穣)