2007/03/23

田川建三『イエスという男』作品社2004年

"PADDING-RIGHT: 4px; PADDING-LEFT: 4px; PADDING-BOTTOM: 4px; PADDING-TOP: 4px; POSITION: relative"
align="left"
width="100%">
イエス自身は愛を語らない


color="#DCDCDC"
size="3" />
"PADDING-RIGHT: 4px; PADDING-LEFT: 4px; PADDING-BOTTOM: 4px; PADDING-TOP: 4px; POSITION: relative"
align="center"
width="100%">

汝、
心をつくし、生命をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なる汝の神を愛すべし。また、おのれの如く汝の隣人を愛せよ。




color="#DCDCDC"
size="3" />
"PADDING-RIGHT: 4px; PADDING-LEFT: 4px; PADDING-BOTTOM: 4px; PADDING-TOP: 4px; POSITION: relative"
align="center"
width="100%">



というせりふは、イエスが言ったせりふだと思われている。言ったどころか、
ここにこそイエスの教えの根本が表現されていると思われている。しかし本当はそうでなない。
だいたいこのせりふはイエス自身が言ったのではなく、議論の相手である一人の律法学者が言ったものにすぎない。
イエスという男は、だいたいこんな宗教的な教条をれいれいしく口にして、それで話がすむと思うような甘い男ではない。
そもそもイエスは、現代の「ヒューマニズム」好みのキリスト教徒のように、やたらと愛の、
愛のと言ってふりまわすことはしていない。イエスの言動の本質をよく抽象してとらえれば、愛と名づけることができる、
と主張なさるのは御自由だが、イエス自身は「愛」という単語をほぼまったく用いていない、
という事実だけは知っておいた方がいい。中学とか高校の○×試験で、イエスの宗教=愛の教え、とつなげれば○をくれる、
という程度のことは、少なくとももうやめておいた方がいい。――そもそも、「イエスの宗教」などというものはないので、
イエスは宗教支配の社会に対して抗った男なのだけれども。

 福音書に「愛」もしくは「愛する」という単語が出て来るのは、「いつくしむ」とか「好む」
といった比較的軽い意味に用いられる二、三の場合は別として、この個所と、あと、例の「汝の敵を愛せ」
という句の前後のところだけがイエスの発言であって、残りはすべてマタイもしくはルカがその資料に対して書き加えたものである。
キリスト教は「愛」の宗教だとする教義的主張からイエスの言葉が解釈されるようになった、ということなのだ。
ところがイエス自身はこのように、「愛」という単語をほとんど用いていないばかりか、この二個所にしたところで、どちらも、
当時のユダヤ教が「神への愛」と「隣人愛」を強調して語っていた句を引用しつつ、
それに対して批判的に論評を加えているのである。


田川建三『イエスという男』作品社2004年