2007/03/21

永劫回帰

熟知できる物のうちで最も耐久性の低い物は、生命過程そのものに必要とされる物である。それを消費する時間は、
それを生産する時間よりも短い。ロックの言葉にあるように、「人間の生命に本当に有益であり」、「生存の必要」に有益であるような「よい物」
は、いずれも「一般に短命であり-使用によって消費されない場合には-それだけで腐敗し、滅びてしまう」。世界にわずかな時間滞在した後、
それは、動物としての人間の生命過程の中に吸収されるか、腐蝕するか、いずれにしても、それを生みだした自然的過程に戻る。それは、
たしかに、人工物の形をとることによって、人工物の世界に束の間の場所を獲得するが、世界のいかなる部分よりも早く消滅する。
世界性という点から考えると、それは、人工物であるとはいえ、絶えず循環する自然の運動に従って、生まれ、去り、生産され、消費される。
生命ある有機体の運動も循環する。人間の肉体も例外ではない。なぜなら人間の肉体も、
その存在に浸透しそれを生あるものにしている過程に耐えているからである。生命とは、至るところで耐久性を使い尽くし、それを消耗させ、
消滅させる一つの過程である。そして、死んだ物体とは、結局のところ、小さな、単一の、循環する生命過程の結末にほかならず、それは、
一切を含む自然の巨大な円環の中に帰ってゆく。この円環の中では、始めもなければ終わりもなく、すべての自然物が、
変化もなければ死もない繰り返しの中で回転しているのである。


自然にも、また自然がすべての生あるものを投げ込む循環運動にも、私たちが理解しているような生と死はない。人間の生と死は、
単純な自然の出来事ではない。それは、ユニークで、他のものと取り換えることのできない、そして繰り返しのきかない実体である個人が、
その中に現われ、そこから去ってゆく世界に係わっている。世界は、絶えざる運動の中にあるのではない。むしろ、それが耐久性をもち、
相対的な永続性をもっているからこそ、人間はそこに現われ、そこから消えることができるのである。いいかえれば、世界は、
そこに個人が現われる以前に存在し、彼がそこを去ったのちにも生き残る。人間の生と死はこのような世界を前提としているのである。
だから人間がその中に生まれ、死んでそこを去るような世界がないとすれば、そこには、変化なき永遠の循環以外になにもなく、人間は、
他のすべての動物種と同じく、死のない無窮の中に放り込まれるだろう。ニーチェは、存在の最高原理として「永劫回帰」を確信したが、
生の哲学の中で、このような確信に到達しないものがあるとすれば、それは、ただ自分の無知をさらけだしているにすぎない。


(「人間の条件」 ハンナ・アーレント 志水速雄訳 筑摩学芸文庫 P151-152)