2007/03/03

新即物主義の核心

「世界は美しい」という有名なタイトルは、それが「Die Dinge(事物)」
という作家の本来のタイトルが出版者によって付け替えられたことを度外視しても、
新しいアングルと新しい視覚的効果によって世界の新しい美を発見する楽観主義ではない。それは別の読み方を要求している。


もし世界が、つまり世界に存在するすべての事物が美しいのなら、自動的に「美しい」という概念にはもはや何の意味もない。
すべてが美しいのだから、何かを美しいと呼ぶことは無意味である。「世界は美しい」という表現は美そのものの概念を解体し、
あとに残るのは美醜の彼方の世界、創造的でも凡庸でもないただの世界、純粋に「あるがままの世界」である-これこそ、
新即物主義の核心だった。


だから、ベンヤミンの批判点はまさにここへ向けられている。「あるがままの世界」などいうものこそ、レンガー=パチュの「創造」
である、と。「あるがままの世界」、それは芸術的表現に関わることなく、いかなる人間的、文化的、社会的諸関係にも影響されず、
のっぺらぼうで無言のまま写真家の前に存在する、完全に中立的な無機的世界であろう。「レンズの役目は<概観>することにあるとされ」、
写真家はそのときの世界の傍観者であることしか出来ず、その中立的存在を受け入れるしかできない。これに対して、
ベンヤミンは否を突きつける。「あるがままの世界」など存在しない。それこそフィクションであって、保守反動のイデオロギーなのだ。
写真のリアリズムは「あるがままの世界」にはない、と。


(「白と黒で」 清水穣 現代思潮新社)