align="left" bgcolor="#FFFFCC" colspan="2"> 清水穣著『不可視性としての写真』(著者インタヴュー) (『アサヒカメラ』1995年11月号、朝日新聞社刊) | align="middle" bgcolor="#FFFFCC" rowspan="2"> |
align="left" colspan="2"> 写真評論、研究論文などを対象とする「重森弘淹写真評論賞」の第1回受賞作となった 「The photographic Invisible――写真と不可視性」のなかで著者の清水穣氏は明快に言う。 写真とは表象を持たずにレフェラン(指示対象) だけを持つ特殊な記号である。記号としての写真は、リアリズムともドキュメントとも関係なく、 心理とも記憶とも関係がない。写真は、「撮るもの」からも「撮られたもの」からも独立している。 これが私たちの出発点だ、 と。 「僕の場合は、 写真というメディアというよりも写真がもたらした一種の認識論的切断というものに関心があったんですね。 それ自身の対象を持たないがゆえに可能な衝撃力、そういうものを理論的に詰めていかなければいけない、と。 それを押さえずにはそもそも論が立てられないし、印象批評になっちゃう。 僕にはとりあえず感情移入するという能力がなくて(笑)」 この受賞論文は、J.ウェリングの個展のさいに出版されたテクストを新たに書き改めたものだ。 「ウェリングは、自分の持っているイメージを意匠として形にしたり、写真を単なる技法とするのではなく、 〈写真を撮る〉 ということについての思考、 つまり現実の薄皮を剥ぎ取ってフィルムに定着させることの意味を考えながらそれを制作に結びつけていく。 その作品について書くのだとすれば、写真を撮る行為そのものから論じ始めなければならない。 それから、とくにベンヤミンが典型的なんだけれども、アウラの記号論みたいな、 記号の持っている意味というものをひとつの巨大な外部性みたいなものに措いておく。それに対しての決断、 というか切断がベンヤミンの思考のなかにあったと思うんですね。そういうところをフォローしたかった」 そうした理論的作業のかたわら、「海外の理論や文化を輸入することも必要だけれども、 例えば長船恒利みたいにトーマス・ シュトゥルートみたいな作業を同時代に、 しかも数年早くやっている作家もいるでしょう。 そういう作家を紹介していくことも必要」と語る。 インターネットでの情報流通の状況の話題では、いくつかのホームページに触れながら、その問題点を指摘する。 さまざまなかたちでの実践的なコミュニケーションの方法論を探る様子が印象的だった。 脱領域的な活動を期待させる一人だろう。 |