2007/06/07

理論における新自由主義国家

新自由主義国家は理論的には、強固な私的所有権や法の支配、自由に機能する市場や自由貿易の諸制度を重視している。これらは、
個人の自由を保障するのに必要不可欠なものとみなされている社会的諸制度である。その法的枠組みは、
市場における法的人格同士の自由な交渉による契約上の義務にもとづいている。行動・表現・
選択の自由という個人の権利や契約の不可侵は保護されなければならない。したがって国家は、全力をあげてこれらの自由を守るために、
それが独占している暴力装置を用いなければならない。ひいては、ビジネス集団や企業(法的には個人とみなされている)
がこうした自由市場と自由貿易の制度的枠内で活動する自由も、根本的に善だとみなされている。民間企業や企業家のイニシアチブは、
技術革新を引き起こし富を創出する上で決定的なものだとみなされている。技術革新を保護するために、
たとえば特許制度を通じて知的所有権が保護される。生産性が持続的に向上すれば、高い生活水準がすべての人にもたらせることになっている。
新自由主義理論においては、「上げ潮は船をみな持ち上げる」とか、(上層から下層へと富が)「したたり落ちる(トリクルダウン)」
と想定されており、一国内であろうと世界規模であろうと、
自由市場と自由貿易を通じてこそ最も確実に貧困を根絶することができるのだと考えられている。


新自由主義がとりわけ熱心に追求しているのは、さまざまな資産を私有化することである。明確な私的所有権が存在しないこと-
多くの発展途上国ではよく見られることだ-は、経済発展と人間の福祉の改善とに対する制度的障壁の中で最大のものの一つだとみなされている。
土地の囲い込みと私的所有権の確立は、いわゆる「共有地の悲劇」(土地や水といった共有財産を個々人が無責任に過剰利用する傾向)
を避ける最良の方策だとされている。かつては国家の手で運営ないし規制されていた諸部門は、私的所有の圏域に引き渡され、
規制は緩和されなければならない(あらゆる国家干渉からの自由)。競争-個人間、企業間の競争、また何らかの地域的単位(都市、地域、国、
地域集団)間の競争-は最大の美徳だと考えられている。もちろん、市場競争の基本ルールはきっちりと遵守されなければならない。
そうしたルールが明確に定められていないとか、所有権があいまいな場合には、国家はその権力を行使し、市場システムを押しつけるか、
このシステムそのものをつくり出さなければならない(たとえば汚染物質排出権の市場取引)。競争と結びついた民営化と規制緩和は、
官僚的形式主義を排し、効率と生産性を引き上げ、品質を改善し、負担を軽減する-安価な商品・サービスによって直接的に、
税負担の軽減によって間接的に-とされている。新自由主義国家は、グローバル市場の中で他国と並ぶ一個の単位として、
競争上の地位改善につながるような国内再編と新たな社会諸制度を継続的に追求しなければならない。


市場での人格的・個人的自由が保障される一方で、各人には自分自身の行為と福利に対する責任があるとみなされている。この原則は、
福祉・教育・医療・年金といった分野まで拡張される(チリやスロバキアではすでに社会保障は民営化されており、
アメリカでも同じことをめざすいくつかの提案がある)。

各人の成功や失敗は、何らかの社会システム上の問題(たとえば資本主義に内在する階級的排除)のせいであるよりも、
むしろ企業家的美徳の欠如とか個人的失敗(たとえば教育による人的資本への十分な投資を怠ったなど)という観点から解釈される。


(『新自由主義』 デヴィッド・ハーヴェイ 渡辺治監訳 作品社 P94-96)