2007/06/07

新自由主義国家に関する一般理論内部のあいまい点や対立点

第一に、独占企業をどのように解釈するのかという問題がある。競争はしばしば独占ないし寡占をもたらす。というのも、
より強い企業がより弱い企業を駆逐するからである。 (中略) いわゆる「自然独占」の場合はそれよりも難しい。電力供給網、ガス・
パイプライン、上下水道システム、さらにはワシントン-ボストン間の鉄道路線などが、それぞれ複数で競合しあっても無意味だろう。
こうした分野では、供給・アクセス・価格設定上の国家規制は不可避である。 (中略)


第二の大きな争点は「市場の失敗」に関する問題である。市場の失敗が起きるのは、
個人や企業が自分たちの責任を市場の外部にはじき出し-専門用語で言えば「外部化」し-、
自分たちにかかってくるコストのすべてを払おうとはしない場合である。この古典的事例が環境汚染である。そのさい、
個人や企業は廃棄物処理費用を免れようと、環境のことなど一顧だにせずに有害廃棄物を投棄する。 (中略)
 新自由主義者たちがこうした問題の存在を認めると、ある者は一定の譲歩をして限定的な国家介入に賛成するが、他の者たちは、
何か治療をしようとすればほとんど確実に病より悪い結果をもたらせるのだから何もしない方が良いと主張する。
何らかの介入が行われるべきとしたら、それは市場メカニズム(たとえば、課税、インセンティブ、汚染物質排出権の市場取引など)
を通じてなされるべきということに、大方の新自由主義者は一致する。「競争の失敗」に対しても同じようなアプローチが選択される。契約関係、
二次契約関係が増えるにつれて、取引コストも増大する。 (中略)


通常、市場の活動主体はみな同一の情報にアクセスできると想定されている。
自己利益にもとづいて合理的な経済的決定を下す諸個人の能力を妨げるような、権力や情報の非対称は存在しないということが想定されている。
だが、実際にはこのような条件はめったにないし、むしろ、情報や権力の非対称性にもとづくいくつかの重要な結果が生じている。
他人よりも情報や権力を多く持っている行為主体にとっては、その利点を利用して、いっそう大きな情報と権力を獲得することさえ容易にできる。
知的所有権(特許権)の確立は、さらなる「レントの追求」を促す。特許権をもつ者はその独占権力を用いて、独占価格を設定するか、
非常に高額の代金が支払われないかぎり技術移転を妨害しようとする。それゆえ国家が対抗処置をとらないかぎり、
非対称な権力関係は減少するどころか、時とともにますます増大する傾向にある。完全な情報や対等な競争環境といった新自由主義の想定は、
無邪気なユートピアであるが、富の集中とその結果としての階級権力の回復を意図的にごまかしているかのどちらかである。


(『新自由主義』 デヴィッド・ハーヴェイ 渡辺治監訳 作品社 P98-99)


レントに追求:「レント」とは何らかの独占状態から生じる特別の利益のこと、技術の独占から生まれるのが技術使用料、
土地の独占から生まれるのが地代である。「レントの追求」とは、そうした独占事業を維持・拡大することで、レント収入を追求することをいう。


補足:現在において著しいのは、医療関係、たとえばエイズ治療薬は特許の集合である為、
国家が介入しない限りアフリカなどの貧民者が多数を占めるアフリカ諸国では高額のため利用できない状態。もしくは、
最近のバイオテクノロジーにおける状況。医療保険制度の中で製薬会社への支払い割合はおそらくかなり高い。特許・著作権(遺伝子コード)
などの問題は、恐ろしく専門的ではあるが、直接に我々の生活の中に入りこんでいる問題でもあると、僕は認識している(amehare)