2007/05/25

ドゥプレの語る9・11

三浦信孝:

現代社会のアクチュアルな問題に入っていきたい。私は1989年秋、ベルリンの壁が崩壊した直後、あなたがル・モンド紙に寄せた短い文章
「歴史の回帰」に感心したおぼえがある。自由主義が世界をおおいつくし歴史が終わるとしたフランシス・フクヤマの「歴史の終焉」論に反対し、
冷戦から蓋をしていたさまざまな矛盾対立が一挙に出てくることを予言した文章だった。その後の事態はあなたの予言の正しさを証明した。


そこで質問したい。1989年の11月9日が冷戦の終わりを告げたとすれば、昨年(2001年)
の9月11日は冷戦後世界の終わりを告げたのではないか。「9・11」は世界の地政学的条件にまったく新しい布置を与えたのではないか。
別の指標をとるなら、1991年1月に起こった湾岸戦争から2001年8月のアフガニスタン侵攻の10年で、ブッシュ父が夢みた
「世界新秩序」は、ブッシュ・ジュニアによって実現されたと考えていいのか。
世界が一様化されるとともに文明が衝突するグローバル化状況の中で、ブッシュの「テロとの戦争」をあなたはどう見ているのか?


11・9と9・11という数字の象徴性をつづけるのなら、もう一つ見逃せない偶然は、ニューヨークの「9・11」
は1973年9月11日のチリの軍事クーデターと同じ日に起こったことだ。WTC(世界貿易センター)のツィン・タワーの崩壊は、
ピノチェト将軍のクーデターによる惨劇を思い出させなかっただろうか。ユダヤ系のチリ人作家アリエル・ドルフマンは、二つの9・
11の目撃者として、アメリカ人に「9・11」を独占する権利はないと書いていた。


レジス・ドゥプレ:

質問に答える前に、フクヤマへの言及があったのでいうが、論敵を実際以上に愚かしく描くことはやめにしよう。
論争の流儀としてよくないやり方だ。論争するときは、論敵の最良の部分を相手にすべきだ。フクヤマが「歴史の終わり」を語ったとき、
彼は事件がもうなくなるとか暴力がなくなるといったわけではない。ヘーゲルとコジューブのよき読者として、
フクヤマがいったのはこういうことだ。事件の連鎖を貫く敵対的矛盾はもうなくなった、世界のヴィジョンが二つ、三つと対峙しあうのではなく、
暗黙のうちに承認された唯一の文明モデル、すなわち自由民主主義に照らして、進んだ社会と遅れた社会があるだけになった。
事件というのは1789年のフランスや1917年のロシアという強い意味での事件のことで、突発的な事件や波瀾はあるだろうが、
それは深い不安によってもたらされるものではない。これが彼の歴史の見方だと解釈できる。しかし、もちろんそれは私の歴史の見方ではないし、
歴史が回帰するといったのは私だけではない。


歴史が回帰するとはどういう意味か。過去半世紀は未来からの衝撃が語られた。未来からの衝撃ということで、すべてが予想できた。
ただひとつ、過去からの衝撃を除いてだが。旧ユーゴスラビアをとってみよう。クロアチアとセルビアの戦争は、
カトリックのクロアチアとギリシャ正教のセルビアの戦争だ。これは11世紀、1054年に、
キリスト教のラテン世界からビザンチン帝国を切断した東西教会の分裂にさかのぼる。コソボ紛争の起源は、オスマン・
トルコによるコンスタンチノープル奪取(1453年)とイスラムの中欧への進出にさかのぼる
(セルビアは1389年のコソボの戦いでオスマン・トルコに敗れその聖地を失う)。ツィン・
タワーとペンタゴンへの攻撃にも歴史的起源がある。ワッハーブ・ショックだ。18世紀にアラビア半島に起こったワッハーブ派は、
(初期イスラムへの復帰を主張し)イスラム法を厳格に純粋主義的に解釈した(ワッハーブ派はオサーマ・ビンラーデンの出身国サウジ・
アラビアの国教である)。こうして、宗教の歴史がアクチュアリテの理解を助けてくれる。とにかく、文明圏のあいだの対立を防ぐのは、
大文字の民主主義、物神化された民主主義ではない。


しかし、私は文明間の戦争という表現は使わない。文明を固定した実質、自分に一致した唯一の実質とは見ないからだ。事実、
いくつものキリスト教があるようにイスラムも多様だ。12世紀のイスラムと今日のイスラムは違うし、
明日のイスラムはまた違ったものになるだろう。だから、すべてを歴史的パースペクティブで考えることが大事だ。
その点で私は今もマルクス主義者だが、文明を歴史的に考えるなら、
一度成立したら未来永劫不変の文明と文明のあいだに必然的に衝突が起こるという単純な見方はできなくなる。しかし、今日世界あちこちで矛盾、
攻撃、防衛、影響力の争奪戦が起こっているのもまた事実だ。


あなたは二つの「9・11」に言及したが、1973年の9月11日に思いをいたす人はごく稀だ。
チリのサンチャゴには当時多くのカメラがなかったから、事件は大きなインパクトをもたなかった。
サンチャゴは事柄の連鎖の先端ではなかったため、惨劇はニューヨークほど強い反響は呼ばなかった。私も二つの事件を比較したアリエル・
ドルフマンの記事を読んだ。ドルフマンはチリの作家で優れた知識人だ。しかし二つの事件のあいだには、9・
11という不幸な日付の一致を除けば、はっきりいってかなり根本的な違いがある。


チリの9・11は(アメリカのCIAが支援したピノチェト将軍の)クーデターであり、大統領官邸のモネダ宮が破壊され
(アジェンデ大統領は自殺)、街は砲撃され(数多くの市民が殺され)た。これは強い者による弱い者の攻撃だが、
もう一つは弱い者による強い者の攻撃だ。一方のチリのほうは、国家テロ、アメリカ国家のテロリズムだが、
他方は国家的基盤をもたない宗教原理主義者たちのテロだ。政治的には13世紀ごろできた首長国アフガニスタンを「国家」
と呼ぶなら話は別だが。したがって、二つは比較にならない。チリの73年9月11日のクーデターは、
5000人どころか5万人の死者を出した。そのあと殺された者を入れればもっと多くなる。これは経済的支配者と被支配者の、
所有者と被搾取者の戦争の延長という意味で、19世紀を向いたクーデターだ。(社会主義者の)アジェンデ大統領は被支配者の代表であり、
アメリカの支援を受けたチリの国家軍は伝統的に支配階級を、チリの土地所有者を代表していた。これは19世紀の対立図式だ。


ところがもう一つの9・11は、西洋に切っ先を向けた高度の技術と、
サウジアラビアのワッハーブ派が引き継いだカルト集団の神秘的でラジカルなコーラン解釈がドッキングして起こったものだ。
もっとも伝統的なものと最先端のハイテクが逆向きに結びついたという意味で、これは21世紀の幕開けになった。
二つの事件のあいだにどんな繋がりがあるか問うてみるならば、おそらく、反対勢力の急進性に関して重要な環境の変化が起こっている。
二つの9・11のあいだには表徴の逆転がある。チリの民衆の統一行動は進歩的な運動であり、
その背後にはマルクス主義とチリで強かったキリスト教左派とに彩られた非宗教的メシアニズムがあった。それは左からの世俗的急進性だった。
それに対して今日、西洋世界の都市郊外に広がっているのは同じメシアニズム的急進性でも、宗教的急進性だ。
その伝統主義と近代性の拒否ゆえに、右からのと呼んでいい退行的急進性だ。ここには反対勢力の役割、社会的バリアの役割の、
一つの時代からもう一つの時代への交代がある。1930年代、スペイン市民戦争で世界各地から有志がはせ参じ国際旅団に合流した時代から、
世界各地のサラフィスト(アルジェリアなどで活躍するイスラム過激派)が新しいインターナショナルに結集する時代への変化である。
メディオロジーではおなじみの諺で、オーギュスト・コントの言葉だが、「置き換えられるものしか壊さない」のだ。ある世俗宗教を壊すとき、
人は別の世俗的宗教に場所を譲るわけで、その代換宗教はもっと破壊的でもっと有害なものかもしれない。具体的にいえば、
ナセルのエジプトを壊し、(アラファト議長率いる)PLOのパレスチナを壊したあとには、もっと危険なハマスが来るということだ。
これは西洋が1950年から中東でとってきた下手な政策の結果といえる。


(「現代世界に直面するメディオローグ -レジス・ドゥプレとの対話」 R・ドゥプレ 三浦信孝)



シトワイヤンとは

ここでいう「市民」は、日本語の語感からはずいぶんとかけ離れた意味をになっているので注意を要する。日本語の「市民」は、
ただの町の人、生活者、政治とは関わりのない普通の人というニュアンスが濃厚だが、ドゥプレのいう「市民」
とはフランス語のシトワイヤンのことで、ポリス=政治社会の構成員、すなわち公事=レス・ププリカに参加し、国家意思、
政治的意思の形成にかかわる自律的個人を指している。その意味では、「公民」とするほうが適当かもしれないし、
現にそのように訳される場合もある。ただ、日本語の「公民」にはお上に従う民というニュアンスがあり、
それではシトワイヤンの本義から大きくはずれることになる。フランス語のシトワイヤンとは、「人権宣言」として知られる、1789年の
「人および市民の諸権利にかんする宣言」における「市民」のことである。この「宣言」における「人」
とは啓蒙の思想家たちが好んで使った概念である「自然状態」における個人のことであり、「市民」
とは社会契約によって形成された共同世界=政治社会のメンバーを意味している。


これがフランス型の「市民」概念であるとすれば、「市民」にはアメリカ型の考え方が存在するとも言われる。この理解によれば、「市民」
とは、国家から自由な市場に参加し、私益を確保する人間として定義される。アメリカ型の「市民」
が国家からの自由を享受する個人であるとすれば、フランス型の「市民」は国家への自由を担う存在ということになる。このふたつのタイプの
「市民」は、見られる限り、「自由」に対するふたつの異なったとらえ方を前提にしている。十九世紀前半の思想家・作家バンジャマン・
コンスタンは、「国家への自由」と「国家からの自由」を、それぞれ、「古代人(古典古代のギリシャ・ローマ)の自由」、「近代人の自由」
として理解した。


(「あなたはデモクラットか、それとも共和主義者か」 レジス・ドゥプレ 水林章訳)


(補足1:「ここでいう」の「ここ」とはレジス・ドゥプレの「あなたはデモクラットか、それとも共和主義者か」を指す。
本文は訳注として掲載された文章である)

(補足2:「市民」はフランス革命以前は男性名詞としか存在しなかった。)



2007/05/23

ソフィストを起点とした現代社会の六つの特徴

第一に、絶対的な価値や世界観が崩壊し、その反動から自由や個性の名のもとに相対主義に流される問題状況は、
ソフィストが活躍した古代ギリシアと現代日本に共通する。第二次世界大戦の敗戦によってそれまでの絶対的な体制「大日本帝国」が滅亡し、
「天皇制」が根本的に形を変えた。そうして成立した「戦後民主主義」の理想も形骸し、「高度経済成長」や「終身雇用」
といった神話も時代とともに姿を消した。東欧共産諸国やソビエト連邦が崩壊し、「共産主義」が幻影となると、保守的な資本主義が、
思想性のないままに社会を支配する。こういった反イデオロギー的な状況は生の拠り所や方向を見失わせている。


第二に、現代の相対主義は、「価値観はひとそれぞれで異なる」といった耳障りのよい標語を口にする。その背景には、
伝統的な哲学がとっていた真理や価値の絶対主義への反発がある。イデオロギーや発展史観への反動から、社会学や歴史学、さらには自然科学
(論)でも相対主義的な見方が蔓延している。歴史とは後世がでっちあげる物語であり、科学も時代ごとのパラダイムに過ぎない、
と相対主義者が昂然と唱われる。「真理など存在しない。人間が勝手に作りだしたものである」というその主張は、達観したようで、
ひどくシラケたものの見方を若者たちに提供している。それは、個人を自由へと解放するように見えながらも、結局は「国家、社会、大学」
といった体制の中で身動きできない状況を作り出している。しかも、それが根拠ないものであると自己に言い訳しながら、
それに従って生きざるを得ないというダブル・バインドに人々を置いている。とりわけ、学問世界に身を置きながら「相対主義」
の名のもとに既成の学問や価値を否定する教師たちに、拠り所を奪われた学生たちは、醒めた目を向けている。


第三に、「自分がそう思えば、それでよい」という、一人の思われに閉じこもる態度が、個人主義として蔓延している。「気持ちいい/
気持ちわるい」という即時的な快感に依存する立場は、他者との対話を拒絶し、独りよがりの生き方に引きこもらせる。そこでは、
経済力や権力への無批判の信奉が生み出される。現代の消費社会とコマーシャリズムは、ゴルギアス弁論術を信奉する若者カリクレスの
「快楽主義」を、まざまざと想起させる(プラトン『ゴルギアス』第三部)。


第四に、「神や宗教は所詮でっち上げであるが、信じられることで精神安定が得られる」といった、一見合理的な非宗教的態度が、
結果として、新興宗教などへののめり込みをもたらす。やはり、プロタゴラスらの啓蒙的な宗教批判の意義が、
西洋文明の一つの根として再考されるべきであろう。


第五に、「正義や法は、各社会や国家が決めたものに過ぎない」という社会相対主義が、実際には現実の力、たとえば、
超大国による小国への侵略や、政府軍による非力な住民の抑圧を「正義」と呼ぶような現状を容認し、暴力への諦め、権力・
宗教への盲従を引き起こす。このような現代の状況は、「民主政」
の名のもとに帝国として他の弱小ポリスを支配したアテナイでのソフィスト的言説、たとえば、トゥキュディデス『戦史』第五巻が描く
「メロス島対話」を彷彿とさせる。力と言論による他者支配については、ゴルギアスの言論を後で見る。また、
正義や法を人為の産物に過ぎないとする見方は、ソフィストたちの「法・慣習と自然本性」区別に由来する。それに依拠して、社会の「正義」
に根本的な疑問を向けるグラウコンのソフィスト的議論は、現代においてより現実的な力を持っている(プラトン『国家』第二巻)。


最後に、「個性的な生き方、自分らしい生き方、独自の価値観」を求めるという現代の社会幻想が、若者にプレッシャーを与えながら、
結局は画一的なファッション、落伍と無力感を生む状況を指摘しよう。「自分」など、安易に見出すことはできない。
自己が暗黙のうちに従っている価値観を相対化できずに、「自己」を甘く絶対的する傾向が、現代相対主義の一つの帰結である。
ソフィストと哲学者の間で、「他者」と「自己」をどう捉えていくかが、やはりこの状況を反省する鍵となる。


相対主義と多元主義との混同を整理し、健全な相対的視点た多元的な価値観を確保することは、現代における哲学の急務である。他方で、
ある絶対的なものへの希求が、人間が善く生きることにおいて本質的である限り、ソフィストの思想を丁寧に分析しながらも、
それと何らか根本的に対決することが、哲学の使命であり続ける。


(「ソフィストとは誰か?」 納富信留 人文書院)



現代日本におけるソフィストたち

テレビ番組や映画で馴染みのアメリカ流弁護士の活動、つまり、陪審員を説得するさまざまなレトリックや駆け引き、
口先で白黒のすべてが決定されるあり様は、現代版ソフィストの痛快活劇といってよい。
日本では司法制度の違いから同様の自由な活動は見られないが、ことジャーナリズムに関しては、アメリカと大差ないと言える。
ワイドショーやパフォーマンスに満ち溢れた討論番組は、言論の効果や印象を最大限に追求し、人々への迎合で世論を煽りながら、
それがもたらす教育影響に無反省であり続ける。その底辺には、身もふたもない保守的な価値観と権威への迎合が、またその反面、
嫉妬や憎悪や好奇心といった感情を煽る態度が蔓延している。そういった番組に「知識人」の名で登場し、
無責任な言説を垂れ流す学者や評論家たちも、原題のソフィストと言えるのかも知れない。


また実質的な政策よりも、マスメディアをつうじた派手な言動によって世論や人気を煽る政治家たちも、その延長線上にいる。
口下手ではあるが根回しの特異な旧来の日本型政治家(といっても、戦前には尾崎行雄のような雄弁な政治家が稀ではなかったことも想起したい)
に代わって、テレビの討論番組で瞬時に機転のきく言葉を発して聴衆の印象を勝ち取ることに長けた政治家が、
たしかに増えているように見受けられる。


大学の頂点とする学問・高等教育機関は「アカデミズム」と呼ばれ、プラトンの学園「アカデメイア」の名を受け継いでいる。しかし、
それは、授業料を取って学生に知識を与える教育産業へと傾斜しており、実用性や効率性を強調する昨今の風潮は、
ソフィスト的な教育を助長させているかのようである。受験という具体的目標のために学生に知識を与える予備校なども、それと相補的に見える。


私たちがソフィストの負の側面としてイメージする現象は、現代の日本社会でもいたるところに見られる。その意味では、ソフィストは、
現在の私たちの生にとっても、きわめてリアルな問題である。


にもかかわらず、私たちはプラトンのきびしい批判もソフィストたちの妖しい力も、共に忘却しきってしまっている。ソフィストは、
私たちが呼吸する空気のような自明さをもって、私たちの回りに、そして私たち自身の内に棲みついているのかもしれない。


(「ソフィストとは誰か?」 納富信留 人文書院)



2007/05/22

近代におけるソフィストの復権

ソフィストに積極的な意義を見ようとする復権の方向は、とりわけ、ゴルギアスが発展させた弁論術(レトリック)の再評価として、
ここ数十年盛んになっている。伝統的にレトリック研究が盛んなフランス、イタリアに加えて、近年ではアメリカでも、
コミュニケーション理論としてのレトリックの意義が真剣に取り上げられ、その歴史的源としてソフィストが注目されている。この流行は、
ソフィストへの積極的評価と同時に、「反哲学」としてソフィストを復活させることにもなる。

ソフィストと哲学者の対置を尖鋭化し、その評価を逆転させたのが、ニーチェ以来の現代思想による「哲学批判」であった。
ニーチェは哲学の反動性をきびしく批判しながら、ソフィストこそが「ギリシア的」であると評価する。


「この瞬間はきわめて注目に値する。すなわち、ソフィストたちがはじめて道徳の批判に、はじめて道徳に関する洞察に着手し始める。」
(『力への意思』)


ソクラテスやキリスト教を「奴隷道徳」として徹底的に批判するニーチェにとって、自らが従事した「道徳の批判」
の始まりの栄誉を帰する意味は大きい。ニーチェ以降の伝統的な西洋「哲学」への反省は、ソクラテスとプラトンの知性主義を批判し、
それと対照的にソフィストを「反哲学」のヒーローとして称揚していくのである。


カール・ポパーは、有名な『開かれた社会とその敵 第一部』で、プラトンの全体主義的な思考を攻撃するにあたり、
ソフィストの自由で開かれた思考を評価した。ポパーにとってプロタゴラスやゴルギアス一派は、
反貴族主義的で平等主義的な人間主義を提唱した理論家であった。同様に、エリック・ハヴロックは、民主主義を擁護し相対主義・
多元主義の基盤を準備したプロタゴラスを、ギリシア文明の英雄と考える。


歴史の忘却の淵から復活したソフィストは、さまざまに自己主張を始めている。ソフィストは哲学に貢献した重要な思想家、あるいは、
反対に哲学そのものを批判した英雄とも見なされている。だが、ソフィストは、
各論者の時代や思想を映し出す鏡となっているに過ぎないのかもしれない。「ソフィストとは誰か」、その本質はいまだ明らかにされてはいない。


(「ソフィストとは誰か?」 納富信留 人文書院)



「ソフィストとは誰か」という問い

本書で論じていくように、ソフィストは、つねに哲学そのものの可能性への挑戦として、私たち自身に問いを突きつける存在である。
私たちはソフィストと対決することによってのみ、哲学の可能性を手にすることができる。とすると、ソフィストを忘却してきた哲学の歴史こそ、
問い直されるべきものではないか。ソフィストを消し去ったこの二千年にも及ぶ哲学史は、その実、哲学が成立していない状況、「哲学」
が名のみさまよう舞台であったのかもしれない。それとも、「ソフィスト」という職業が消えても、哲学者の営みにおいては、
実にソフィストは変わらず重要な役割を演じ続けてきたのであろうか。


十九世紀半ばに、ドイツの厭世哲学者ショーペンハウアーは、「大学の哲学について」という論文で、同時代のフィヒテ、シェリング、
そしてヘーゲルを、似非哲学者、ソフィストとして、徹底的に非難した。そこでは、真理の探究に従事する本当の哲学者に対して、
金銭を稼ぐために哲学に従事する学者が対比され、プラトンの対話篇『プロタゴラス』でのソフィスト批判が、直接に参照されている。
ショーペンハウアーは、自らの哲学の基礎をプラトンとカントに求め、当時流行のヘーゲル哲学に対抗したことで有名である。「ソフィスト」
という古代の名称は、同時代のライヴァルを攻撃するレッテルとして、かろうじて姿を留めていた。


ソクラテスが自らの生において、そして、プラトンが対話編において示した「哲学者」とは、人々の生を吟味に晒し、
社会のあり方を批判する危険な存在であった。ソクラテスは、彼の対話を交わした多くの人々の反発を惹き起こし、
やがて裁判にかけられ刑死する。しかし、やがて「哲学」が学問や職業として確立され社会に定着すると、その存在は自明視されてしまう。
当初哲学が突きつけた厳しい問いは、専門家集団の内輪のパズルへと回収されて、象牙の塔のなかの遊戯と化してしまう。現在「哲学者」とは、
大学で専門的な問題を論じ、過去の思想を教えることで給与をもらったり、哲学書と称する書物を世に出すことで社会に権威をもつ職業人
(プロフェッショナル)を意味している。


だが、自明の栄誉をもって認知されている時、哲学はむしろ死に瀕しているのかもしれない。デカルトの「魔物」やカントが対決した
「懐疑論」は、哲学そのものの可能性を根源から問い直すことで、真摯な思索の途を切り拓いていった。私はそのような事態、すなわち、
哲学の成立と可能性そのものを、ギリシアという原点に立ちもどって捉え直したい。そのために、「ソフィストとは誰か」
という問いを考えたいのである。


もし私たちがソフィストの問題を忘却しきっているとしたら、その時、私たちは真に哲学に与ってはいない、というべきであろう。他方で、
ソフィストとは、そのような忘却の暗闇に逃げ込むことを本性とした存在である(プラトン『ソフィスト』参照)。
ソフィストは哲学者と区別された存在でないと思わせることが、ソフィストの本領なのである。その意味で、ソフィストの忘却こそが、
ソフィストによる哲学への挑戦の成功ともいえる。そのソフィストを明るみ引き出し、それと正面から対決していくことにより、
私たちははじめて、哲学する者となり得るのではないか。


(「ソフィストとは誰か?」 納富信留 人文書院)



2007/05/20

共和制における学校と哲学の位置

共和国においては、各々の村にふたつの重要な場所がある。ひとつは、選挙で選ばれた代表者が公共の事柄について議論をする役場であり、
もうひとつは教師が子供たちに教師なしで考えること、すなわち自律を教える学校である。いや、もう少し分かりやすいイメージを使えば、
国民議会とソルボンヌ大学ということになろうか。デモクラシーにおけるふたつの重要な場所は、寺院とドラッグストア、
あるいはカテドラルと証券取引所である。


共和国は、子供のなかに人間を見る。そして、たとえ子供を押さえ込んでしまう危険をおかしても、
子供のなかの成長すべきものに対して働きかける。デモクラシーは人間のなかの子供に気に入られようとする。
大人として扱うと退屈させてしまうのではないかと恐れるからだ。いかなる子供もそれ自体として愛らしいということなどない、
と共和主義者は言う。彼は子供が精神的に向上することを欲するからである。これに対して、
人間というものは突きつめれば大きな子供なのだから、みな愛すべき存在なのだ、とデモクラットは結論づける。もう少しはっきり言えば、
共和国は子供が嫌いで、デモクラシーは大人に敬意を払わないのである。


共和制においては、社会は学校に似ていなければならない。その場合の学校の任務はといえば、
それは何事も自分の頭で考え判断することのできる市民を養成することにある。ところが、デモクラシーにおいては、反対に、
学校が社会に似ていなければならないのである。デモクラシーにおける学校のもっとも重要な任務とは、
労働市場に見合った生産者を養成することなのだ。その場合、学校は「社会に対して開かれて」いることが要求されるし、
また教育は各人が好きなように選ぶことができる「アラカルトな教育」でなければならない。共和国においては、学校は囲い壁の背後にある、
固有の規則を持った閉ざされた場所以外のなにものでもない。この社会から閉ざされているという性質がなければ、学校は、社会的、政治的、
経済的、宗教的な力の矛盾した作用に対して、独立性(ライシテ=非宗教性の類似語だ)を保つことができないのである。
学校についてこんな言い方をするのは、人間を彼の置かれた環境から解放しようとする学校と、逆に、
その環境によりよいかたちで送り込もうとする学校は、名前は同じでもまったく別物だからである。
共和国の学校は知性豊かな失業者を生み出すと言われ、デモクラシーの学校は競争力のある馬鹿者を育成しているというわけだ。
これは両陣営による意地の悪い批判の応酬である。


共和国は学校が好きだ(そればかりか学校を讃える)。デモクラシーは学校を恐れる(そしてないがしろにする)。しかし、
両者がいちばん愛し恐れるもの、それは依然として学校における哲学教育である。
ある国が共和国なのかデモクラシーなのかを区別するもっとも確かな方法は、哲学が高等学校で、
すなわち大学入学以前に教えられているかどうかを調べることである。
ヨーロッパのもっともデモクラティックな地域であるプロテスタント文化圏の北ヨーロッパでは、
高校最終学年で哲学教育の代わりに宗教教育がおこなわれている。デモクラシーの教育システムにおいては、
哲学はやってもやらなくてもいい情操教育の補完程度に考えられており、牧師と詩人が分担して受け持っている。他方、共和制では、
哲学は必修科目である。そして哲学教育の目的は何かといえば、それはさまざまな理論を提示することではなく、
生徒たちの心に問題意識を発生させることにある。共和制において、知識人を民衆に有機的に結びつけているのは、
生徒の社会的出自がいかなるものであろうと、学校なのであり、そのなかでもとりわけ哲学の授業なのである。


(「あなたはデモクラットか、それとも共和主義者か」 レジス・ドゥプレ 水林章訳)


(補足1:カテドラルとはカトリック教区のこと)

(補足2:本文は1989年にフランスでおきた「イスラム・スカーフ事件」論争におけるドゥプレの意見を提示する形をとっている、
共和制において教育は重要であるのは間違いないが、底流に本事件があるのも忘れてはならないと思う)

(補足3:ライシテ(非宗教性)とは、日本で言うところの「政教分離」のこと。フランス憲法の第一条に示されている根幹にある原則。無論、
ライシテは宗教弾圧ではなく、諸々の宗教の共存を可能にする仕組み。学校では教師といえども宗教的表示する印「たとえば十字架」
を身につけることはない。)