2008/12/07

ケビン・カーターさんの告白

「国連などの食糧配給センタ-から500メ-トル離れたところで一人の少女に出会った。こんな風にうずくまって(真似をして見せる)必死に立ち上がろうとしていた。その光景を見たあと、いったんはその場を離れたが、気になってもう一度引き返した。すると、うずくまった少女の近くにハゲワシがいて、その子に向かって近づいて行った。
その瞬間、フォト・ジャ-ナリストとしての本能が“写真を撮れ”と命じた。目の前の状況をとても強烈で象徴的な場面だと感じた。ス-ダンで見続けてきたもののなかで、最も衝撃的なシ-ンだと感じた。自分はプロになりきっていた。何枚かシャッタ-を切ってからもっといい写真を撮るのにハゲワシが翼を広げてくれないかと願った。15分から20分ひたすら待ったが、膝がしびれはじめ諦めた。起き上がると、急に怒りを覚え、ハゲワシを追い払った。少女は立ち上がり、国連の食糧配給センタ-の方へよろよろと歩きだした」
「この後、とてもすさんだ気持ちになり、複雑な感情が沸き起った。フォト・ジャ-ナリストとしてものすごい写真を撮影したと感じていた。この写真はきっと多くの人にインパクトを与えると確信した。写真を撮った瞬間はとても気持ちが高ぶっていたが、少女が歩き始めると、また、あんたんたる気持ちになった。私は祈りたいと思った。神様に話を聞いて欲しかった。このような場所から私を連れ出し、人生を変えてくれるようにと。木陰まで行き、泣き始めた。タバコをふかし、しばらく泣き続けていたことを告白しなくてはならない」

(NHK教育「メディアは今―人命か報道優先か・ピュリツアー賞・写真論争―」94・6・30放送)

参考:ネットジャーナル「Q」 第153回 再考「ハゲワシと少女」の写真(08・11・30記)



2008/11/30

法外の法

日本では、満場一致の決議さえ、その議決者をも完全に拘束するわけでもないし、国権の最高機関と定められた国会の法律でさえ、百パーセント国民に施行されるわけでもないから、厳守すれば必ず餓死する法律が出来ても、別に誰も異論はとなえない。法律を守った人間はニュースになるが、破った人間はもちろん話題にものぼらない。といって全日本が無法状態なのではない。ここに日本独自の「法外の法」があり、「満場一致の議決も法外の法を無視することを得ず」という断固たる不文律があるからである。従って裁判もそうであって「法」と「法外の法」との両方が勘案されて判決が下され、情状酌量、人間味あふれる名判決となる。

(『日本人とユダヤ人』イザヤ・ベンダサン)



2008/10/03

哲学者とは

こう言うと、読者の皆さんは驚かれるかも知れないが、哲学にとって、その結論(つまり思想)に賛成できるか否かは、実はどうでもよいことなのである。重要なことはむしろ、問題をその真髄において共有できるか否か、にある。優れた哲学者とは、すでに知られている問題に、新しい答えを出した人ではない。誰もが人生において突き当たる問題に、ある解答を与えた人ではない。これまで誰も、問題があることに気づかなかった領域に、実は問題があることを最初に発見し、最初にそれにこだわり続けた人なのである。このことはどんなに強調してもし過ぎることはない。なぜなら、すべての誤解は、哲学者の仕事を既成の問題に対する解答と見なすところから始まるからである。

(『ウィトゲンシュタイン入門』永井均著 ちくま新書 P9)



2008/05/06

「自由の新たな空間」より

しかし、経済不安以外に日々のマスーメディアによる情報も、問題を誤認させる危険を帯びているのではないか?自由の上にのしかかっているのは本当に現実の経済危機状況なのだろうか?あるいはむしろ、革新的な潜在力の集団的な受動化、意気喪失、方向感覚喪失、崩壊があり、そこに生じた社会的荒廃の諸結果から新たな“野生の資本主義”は好き勝手に利益を上げるにいたっているのではないか?第一、経済危機という言葉はこの十年来世界を、なによりもまず第三世界を脅かしている連鎖的なカタストロフの性格を示すには如何にも不充分である。また、経済状況のみに関わる諸現象にその用法を限るのは明らかに不当だ。数えきれぬほどの人々が飢餓の中に死に瀕し、数十億もの人々が年を追ってしだいに貧困と絶望の中に押し込められつつある現状を前に、ひとは穏やかにわれわれに説明してくれる。経済の問題です、この経済危機が終わらぬ限り状況の改善は期待できないでしょう!手のほどこしようもありません!まるで霰かホルテンス台風みたいに経済危機が天から降って来て大地を走り回っているかのような言いぐさだ!かの気象占師どもだけが――ときめく経済人どもだけが――この現状について語る言葉を持っているというわけだ。しかし実際、これほどに卑劣と馬鹿々々しさが共生している場所はない!というのも結局のところ、産業と経済の転換が ――それが世界規模のものであり、社会構成と生産手段の根底的な組み換えをはらんでいるとしても――これほどの泥沼状態をその償いとして要請する如何なる必然性があるというのか!いますぐにでも問題を考えるやり方を百八十度転倒する必要性があり、今すぐにでも再考し直さなければならぬということを改めてはっきりさせよう。政治こそが経済の上に立って全てを進行させているのだ。けっしてその逆ではない!現在の状況において、あらゆる細部で、政治こそが経済危機を作り出しているということを断定するのは成る程易しくはないにしても――というのも事実、例えば、経済的荒廃と生態系の厄災の間には、あるいは別の理念的オーダーだが、金融と石油市場の間には、誰もコントロールし得ないカタストロフィックな誘因、相互作用があるからだが――ともあれ政治が現在のひどく悪性の社会的結果の責任を免れるなどということはない。この経済危機からの出口は、あるいはお望みならこの暗黒の系譜からの出口は、政治と社会にこそあるのだ。そこから始めなければ人間は予測し難い内破に向けて進み続けることになろう。

(『自由の新たな空間―闘争機械 (ポストモダン叢書 (12)) (単行本)』フェリックス・ガタリ、トニ・ネグリ 丹生谷 貴志訳)



2008/04/22

生そのものの実情

死の瞬間はない。死は境界ではない。生の終わりは瞬間でも境界でもない。同様に、生の始まりは、瞬間でも境界でもない。起こっていることは、生と死の浸透、生への死の分散、死への生の分散である。これが末期の生の実情、そして、生そのものの実情である。だから、病人の生を肯定し養護することは、生そのものの肯定と擁護に繋がるのである。

(『病の哲学』小泉義之 ちくま新書 218頁)



カンギレムの健康と病気

健康、あるいは病気というと、私たちは大体、こんなイメージをもっている。健康診断で検査を受けると、血圧にしても、肝臓の状態を示すGOTやGPTにしても、血糖値にしても「基準値」というのがあって、それより低かったり、高かったりすると「あら?」ということになる。健康というのは、ある境界をもった域内におさまっていることで、その反対に病気というのは、その領域からはみ出してしまっていることだ。そんなふうに私たちは通常イメージしている。

ところが、カンギレムは、こういう私たちのイメージとはまったく逆とも思えるようなことを言う。「健康を特徴づけるものは、一時的に正常と定義されている規範をはみでる可能性であり、通常の規範に対する侵害を許容する可能性、または新しい場面で新しい規範を設ける可能性である」(「正常と病理」法政大学出版会、175頁)。つまり健康というのは、囲い込まれた領域のなかにおとなしく、あるいは行儀よく止まっていることではなくて、むしろ、その領域を自由にはみ出ることができることなんだ。あるいは、状況に応じて、通常とは異なる生の様式を自在にとれることなんだ。あるいは、規範に律儀に従うことではなくて、むしろ規範を壊したり、つくりなおしたりすることなんだ、というわけです。場合によっては食事を一回や二回とらなかったり、終電車に間に合わなければ歩いて家に帰ったり、そんな無茶ができること、それが健康なんだとカンギレムは言う。

その逆に、病気は、規範からの逸脱ではなくて、むしろ一つの規範に忠実でありすぎること、そこから逸脱したり、はみ出たりできないこととして定義される。「病気もまた生命の規範である。だがそれは、規範が有効な条件からずれるとき、別の規範に自らを変えることができず、どんあずれにも耐えられないという意味で、劣っている規範である」(同書、161頁)。カンギレムは、さらにこうも言う。「病人は、一つの規範しか受け入れることができないために、病人である」(同書、164頁)。生が一つの規範しか受け入れないほどに硬直化すること、それが病気だとカンギレムは言う。

(『病と健康のテクノロジー』市野川容孝・松原洋子対談 市野川容孝の語り)



2008/04/07

奇形の身体、病気の身体

捻じ曲がった身体がある。外からあてがわれたユークリッド座標系を基準にすると、有らぬ方向に延びる曲線に沿って、その体軸と四肢が捻れている身体である。外部観察者の眼で見ると。個体発生と形態形成の過程で間違いを生じてしまった異常で異様な身体である。アルマン・マリー・ルロウ『ミュータント』があげる事例から拾うと、結合性双生児の身体、無頭蓋症児の身体、内臓逆位者の身体、多指症者の身体などである。

しかし、観点を変えるなら、事態は全く違った相貌を帯びてくる。捻じ曲がった身体は、個体発生と形態形成の過程では正しく然るべき仕方で捻じ曲がった身体である。ドゥルーズの用語を導入して言いかえる。固体化の場、前固体化で非人称的な場、超越論的な場から見るなら、すなわち、個体発生と形態形式のトポロジカルな空間に内在的な座標系を基準とするなら、正しい線たる直線に沿ってその体軸と四肢が伸張した身体である。だからこそ、ミュータントの身体は、いかに短い期間であっても、生きられうるものになるし、現に生きられるものになっている。

では、そんなトポロジカルな空間は、どこに存在するのであろうか。当の身体の内部のどこに存在するのであろうか。あるいは、当の身体の外部のどこに存在するのであろうか。その空間の存在性については、理念的で潜在的でリアルな多様体であると幾度となく語られてきた。それはその通りである。また、理念的で潜在的でリアルな多様体は、現実的存在者と本性的に区別されるとこれまた幾度も語られてきた。それもその通りである。だから、その空間を現実的存在者において探し出そうとする問いの立て方は、あたかも超越論的な場を経験的なものにおいて探し出そうとしたり前個体的な場を既に固体化された存在者化したりするような、哲学的な常識を全く弁えない馬鹿げたやり方であると語られてもきた。しかし、ドゥルーズとガタリは、まさにその馬鹿げたやり方を追求したのである。何故か。ドゥルーズとガタリは、講壇学者の立場にではなく、多様で多彩な身体を生きて病んで死んでゆく民衆の立場に立っていたからである。

生まれながらの捻じ曲がった身体が、事故や病気のために、さらに捻じ曲げられることがある。それもまたトポロジカルな空間に内在的な座標系からするなら正しく然るべき仕方で起こったことが実現したことなのだが、そうではあるが、決定的に違うのは、いまや身体は生き難いものになるということである。そんな身体は、苦痛や不調や失調などのさまざまな症候を発する。それら症候は現に経験され現に生きられる。とするなら、病人の身体は、超越論的な場を非常に通り過ぎたはずのトポロジカルな出来事を、症候を介して感覚し経験していることにならないであろうか。とするなら、そのとき症候の経験は超越論的な場のシーニュになる。では、そのシーニュの意味は何であろうか。そのシーニュが指し示す方向は、どこに向かうのだろうか。ドゥルーズとガタリは、その方向を「来るべき民衆」と呼ぶことになるだろう。

(『来るべき民衆-科学と芸術のポテンシャル』 小泉義之)