2007/02/20

アーバンの写真における「マスク」

舞踏会で紳士がつける「顔かくし」のマスクは、服装の加上部分の典型であり、老婦人が気取る顔面上の網も又加上に違いない。それらは、
本人において道化の意識を持って用いられているとは限らない。
その点では村々の祭りに際して村人たちがつける手製の仮面とは全く異なった性質を持っている。


村人のつける仮面は、祭礼において一時的変身をとげることによって日常秩序を中断するために道化の自覚を持って用いられた。
だからこそ、祭りが終わった束の間の一瞬には、仮面をつけたままの姿で、
しかも役割の固定から解き放たれた処に露われる存在が出現していたのであった。服装をつけながら服装の隠蔽を脱いだ姿が其処にあった。


舞踏会での紳士の「顔かくし」はそうではない。加上服をつけて遊ぶことの他に何物も無くなった、存在の喪失が恐らく其処にはある。
存在の喪失が彼の存在なのであり、その逆説的な存在がマスクに象徴されている。


現代社会の中枢部を構成する人々の仮面や化粧や顔飾りや総じて服装の加上部分は、こうして、存在の喪失感としての存在が-
すなわち空虚それ自体という存在が-集約された局部的物体なのである。
入れ墨という直接的服装を身体に施した者や道化服のまだら衣装を身につけた奇形者たちが、芸の舞台から降りた時に見せる安息と穏和-
それが存在そのものの表情なのだ-とは逆に、仮面舞踏会の紳士はマスクを取り去る時、
空虚と倦怠と焦燥と過敏の化身となって現われ出るに違いない。それがかれらの存在なのである。


その倦怠の一端は「広大な芝生の庭でダラリと日光浴をする上流中産階級の一家」の写真に現われているし、焦燥の一端は
「ベンチに腰かけて、しかめっ面で諍い合う中流の老夫婦」の写真に現われている。そのいずれもが空虚の存在を物語っている。
そしてそれらも現代社会のコピーとして、物哀しく且つ滑稽なのである。血色よく死んでいるその生態、豊頬を湛えたその屍体は、
仮面をかぶるとき始めて踊り出している。幸福なる屍体は仮面によって動いている。生きた存在は仮面だけなのだ。
だからアーバスは仮面を写した。


そして彼ら紳士は「人間は幸福以上のものである」(ブレヒト)という真理を反対側から立証するために、
すなわち幸福なる非人間と化している状況を自ら提示するために、厳然たる存在喪失態として倒錯的に存在しているのであった。


(「藤田省三著作集9 「写真と社会」小史 文中 「ダイアン・アーバスの写真」 藤田省三 みすず書房)