2007/02/09

人種主義に関する提言(4)

もちろん、本提言におけるわれわれの中心的関心は(歴史的に限定されたいい方をしはじめれば)ヒューマニズムとその批判である。
人間主義的ヒューマニズムは--あるいはその審問形態としての「哲学的人間学」が同定しようとしてきた人間性のように--
特殊的に人間的な本質、その本質を認知することによって人類(正確にいえば人間・種)
を非人類から弁別することをわれわれに可能にするような本質の存在を前提してきた。と同時に、人間主義的ヒューマニズムは、時と場所の違いを超越して普遍的な人類の共通性を指示し、「人間・種」をその共同性において統合するような本質の存在をも前提してきた。
すでに人間主義的ヒューマニズムの批判者の多くが主張してきたように、こうした人間本質観の結果として、ヒューマニズムは、人間の他者性、他なる人間の外部性、即ち、「人間」という普遍的本質性に対する外部性を認める能力を失ってしまったのである。つまり、人間主義的ヒューマニズムはその普遍主義的姿勢のために、われわれが他者に出会う可能性を潰してきたのである。
ところがその裏返しとして、人間主義的ヒューマニズムの普遍主義的憧憬を拒絶するその反対者の多くはしばしば特殊性に固執し、「文化的」、「国民的」あるいは「人種的」な特殊体験の究極の価値にしがみついてきた。しかし、こうした反対者は、文化、国民、国民国家、そして人種といった観念は(時にこれらの観念は同一のものとされ区別されないこともある)人間中心主義の語彙と全く供約的であり、ヒューマニズムの謳歌する普遍的価値を分節化するための概念装置と考えられているものであることを忘れてしまっているのだ。
そうである以上、こうした観念は、特殊な「文化」「国民」「国民国家」あるいは「人種」のなかにある差異、他者性、そして外部性を密閉してしまうのだ。


再び、われわれの企画は外部性の問題にかかわるものであることがわかる。われわれは、ヒューマニズムや、特殊主義や、あるいはそれらの立場が一見対立しているという認識の「外部に」またが「超えて」自分たちがいる、という立場から出発することはできないように思える。しかし、あまり上手にではないかもしれないが、人種主義の問いにどうにか肉迫しようとしてわれわれが採用した概念装置が有効性をもつものであるならば、われわれの問いかけは歴史に向かっての問いかけであり、ひとつの歴史ではなく複数の歴史の試練を受けるべき問いかけであることがわかるのではないだろうか。つまり、ひとつ確認しておかなければならないのは、人間中心主義的ヒューマニズムの「人間」は歴史現象である、すなわち、人間中心主義的ヒューマニズムの「人間」は歴史において歴史の効果として現出したものである以上、「人間」は外部性に取り憑かれ・所有されていて(したがって、けっして「所有され」えないものによって所有されている)、歴史の外部性によって取り憑かれているのであり、「人種」も「人種主義」も同じように歴史の外部性によって取り憑かれている、という点である。ということは、ヒューマニズムとその批判と人種主義のあいだには歴史的に分節された関係があるのだ。しかし、これは、これらの項の間に因果的な関係が存在するということではなく、これらの項の間に共犯関係の可能性を予測し警戒することからわれわれの企画を始めざるをえない、ということなのである。「人間」「国民」「国民国家」「人種」といった、同一性と共同体の異なった構築体は、分かち難く歴史に結びついており、一定の歴史性、歴史の不可避性の支配下にある。歴史性は、批判のための必要条件であるかぎりにおいて、人種主義の批判という政治的実践の可能性の必要条件になっているのであり、それらの構築体はすべて、この歴史性によって支配されている可能性をまず認めることからわれわれは始めなければならない。なぜなら、人種主義を非難する必要はけっして無くなったわけではないことを知りつつ、しかし、われわれは非難の単調さの先へ赴くべく考察することをめざすからだ。

(付記 ウイリアム・ヘイバーおよびナオキ・サカイによって共同執筆された。

なお、日本語訳の文責はナオキ・サカイにある)