2007/01/31

「撮る」から「見る」へ

-清水さんの文章というのは、徹底して写真を見て読むことから始まり、
そして再び読者が写真を見ることへと戻そうとしているようにも思えるんです。


清水穣:うまい言い方だと思います。僕がとり上げた写真家がなぜ面白いかをひたすら読者に追体験してほしい。その意味では、
僕の文章には感想がありません。感想を書きたいとも思わないし、写真を形容する言葉を探すのもめんどうくさい。(笑)


-感想は写真を見た人に任せるんですね。一方でメディアに写真が氾濫し、誰もが写真を撮るこの時代に、写真を作品として意識的に
「撮る」ことの可能性についてどう思いますか?


清水:すべてのものが撮り尽くされているとは思いませんね。何を撮ってもいいし、いつだってシャッターチャンスはあると思う。
ただテクノロジーの進化で誰もが失敗しないでなおかつ大量に撮れるようになった。そうなると何が起こるかというと、
見る力がないことに気づかされるです。公募展を見ても、ありえないというくらい、選んでいる作品がよくない。


-写真が誰にでも撮れる時代だからこそ、見る力が重要ですね。


清水:そのとおりです。写真家だって自分で写真を選ばなければ始まらない。どんなに素朴に撮った写真でもいい写真はいい。
それが写真の自由なんです。どんな絶望的な気持ちで撮っても希望に満ちた写真に撮れるかもしれない。そこが写真の面白さ。人類の希望です
(笑)。でも、その希望は「見る」力があってこそ見えてくる希望なんです。


(「アサヒカメラ」 2007年2月号」 第92巻第2号 通巻963号 より 清水穣インタビューより)